(5)

 その日の夜。


「あ、匠、お帰りなさい……」


 家に帰ると、姉が力無く微笑んだ。昨日よりは幾分元気に見えるが、それでもまだまだ本調子とはいかない。

 ……それも、そうだろう。

 姉はゆるりと立ち上がり俺に近付くと、微かに口の端を上げて微笑む。


「匠。わたしにする? わたしとお風呂でマットプレイをする? それともわたしを食べる?」

「何かすげぇ直接的になってる!? 姉ちゃん、無理すんなよ!」


 だいぶキていた。


「だって、この後どうせ重い話をする訳でしょう? だったら最初くらいふざけさせて……」

「姉ちゃん、皐月と同じようなこと言うな……あ」

「……っ」


 思わず出した皐月の名前に、2人とも固まる。

 リビングには、こぽこぽと鳴るポットの音だけが響いている。


「……匠。話、聞かせて? ……出来れば……」


 姉がソファに座り、足の間をぽんぽんと手で叩く。


「……ここで話してほしいな」

「……分かったよ」


 普段なら、そんな恥ずかしいことは極力しないのだけど。

 姉の表情を見ると、とても断るなんて真似は出来なかった。

 ソファの前まで歩いた所でくるりと身体を回し、姉の股座にすっぽりと収まる。

 それと同時に、後ろから抱きしめられて、鼻腔を擽る甘い匂いと背中に押し付けられる柔らかい感触に安心感を覚える。


「……姉ちゃんの胸、背中で味わうとまた新鮮で良いな……」

「ふふ、ありがと。匠が良ければいつでも挟んであげるからね」

「何を!?」

「ナニを」

「姉ちゃんの年齢からは考えられないゲスい下ネタだな」

「匠好みの女の子が言うんだからたまらないでしょ?」

「…………」

「ちょ、ちょっと……匠、黙るとすごく本気に思えちゃうから……」

「……どうしよう、思春期の高校生からしてみれば今の台詞はやばすぎる……」

「匠の持ってるエッチなマンガ、ほぼ全部そういう系だもんね」

「いつの間にか傾向を把握している!?」

「女教師もの、姉もの、先輩もの……うんうん、分かりやすすぎるね」

「頼む、これ以上言わないで」

「全部、匠の周りで実際に居る人に当てはまるよね」

「ちょっと股間がやばいです」

「大変な話をする訳だから、匠が話してくれてる間、相槌代わりに匠のをずっと触ってていい?」

「『匠の』って何を指すんだよ!?」

「やだもう……決まってるでしょ」

「それって……ってうおぉぉっ!?」

「あ、すごい……っ」

「ちょ、待って、何で両手でにぎにぎし始めてんだ……っ」

「匠の……こんなになってたなんて……っ」

「だーーーーーー!」


 姉の手を引っぺがして。

 頭にチョップした。


「いったーい! 何するの匠! ちょっとSにも程があるぞー!」

「うるさい! 何で官能小説みたいな展開になってんだ!」

「それもそうだね。また今度、ってことで」

「……今度っていつになるだろう」

「匠が良ければ、明日でも、何だったらこの話の後すぐにでも良いよ」

「…………」

「匠の沈黙は本気感が伝わっていいね~。うりうり」

「…………」


 この後、しばらくこんな感じのやりとりをした所で。


「……それじゃ、始めるぞ、姉ちゃん」

「……うん」


 やっと、本題に入る。

 姉が俺を抱きしめる。

 少しでも不安を和らげようとしているか細い腕に手を添えながら、話し始めた。



 数十分後。


「……と、こんな感じだった」

「……そっか」


 俺が皐月から聞いた話を出来る限りそのまま伝えると、何とも言えない脱力感に襲われた。

 姉も俺の身体をきゅっと抱きしめて、しばし無言になる。


「……皐月、そっか、生き返ってたんだ……」


 姉の言葉に、心臓が締め付けられるのを感じながら。


「……まあ、今のままだと本当に『半死半生』って感じだけどな」


 本来の意味とは違うけど――などと、出来るだけ軽く返す。

 心も身体もきちんとそこにあって。

 けれど、時間帯を境にして、この世から姿を消す。

 その間、皐月の記憶は一切ない。

 そして、そんな皐月を認識しているのは、本当にごく僅かな人間だけ。

 何もかも、分からない事が多すぎる。


「……姉ちゃん、何か心当たりはないか? 皐月のこと、もっと知る必要がある」


 縋るような気持ちで、姉に尋ねる。

 しかし、どこか確信めいた気持ちはあった。

 何故姉は、俺のクラスに皐月が居ると思ったのか。

 それには、何か理由があるのではないか。

 そしてそれは、もしかしたら俺や薫や更紗が皐月を認識するようになったことと、何か関係があるのではないか。

 そんな思いから、この質問をした。

 俺の質問に対する言葉を考えているのか、すぐ後ろから微かは吐息だけが聞こえてくる。


「そうだね……うん。一つだけ」


 一つだけ、確かな覚えがあるの――と姉が言う。

 どくんと心臓が跳ねた。


「……何を言ってるんだって思われるかもしれないけど。……わたし、ノートにね、お願いしたんだ」


 姉が発した、「ノート」という一単語で。

 頭の中に、あの、古びたノートの存在が浮かんだ。


「……それって、まさか……」

「え、匠……あれのこと、知ってるの?」

「ああ。前に卯月先生に第一図書室の掃除をお願いされて、その時に友達二人と一緒に見付けたんだ」

「……そっか、そうだったんだ。皐月って、もしかしたらあのノートを知ってる人にしか見えないのかもしれない」


 そこまで言った所で、姉が「あれ……?」と疑問の声を上げた。


「姉ちゃん、どうしたんだ?」

「……えっとね? それなら何で、わたしには見えなかったのかなって。卒業直前に願い事は書いたんだけど、あの時はこんなの眉唾だと思ってたから、卒業してあの学校を出るまで何も起きなくても何とも思わなかった。気休め程度にしかならないだろうからって」


 でも、現に皐月は学校にいるんだよね、と姉が呟く。


「あのノートは、正体こそ分からないけど……きっと本物なんだと思う。じゃなきゃ説明がつかないし。でも、わたしは皐月を、匠から聞いたような形で蘇らせてほしいだなんて全く思ってなかった。何て言うか……願いごとの叶えられ方が、すごく中途半端な気がする」

「確かに……ううん、どうすると良いかなぁ……」


 ここで一度、互いに言葉が止まる。

 姉から話を聞けば何か分かるかもと思ったが、これでは余計に謎が深まっている。

 うんうん唸りながら煮詰まったところで、姉がふっと息を吐いた。


「……取り敢えず、今日はもうゆっくりしようよ。ちょっと、疲れちゃった……」

「あ、わ、悪い、姉ちゃん。大丈夫か?」

「うふふ、匠は優しいね。……大丈夫、こうやってゆっくりすれば……」

「うお……っ!?」


 唐突に姉がソファに仰向けに寝転がり、その上に乗った俺を器用に半回転させて、まるで俺が押し倒しているかのような形になる。


「おい姉ちゃん。これはちょっとやばいぞ」

「うん? 何が?」


 姉が蠱惑的に微笑み、俺の頬を撫でる。何で膝を俺の足の間に宛てがってるんでしょうか。


「いや、あのな、姉ちゃん」

「近親相姦ってさー」

「直接的過ぎるだろ!?」

「真剣な話をしたらお姉ちゃん疲れちゃった。だから癒して? 性的な意味で」

「なんで俺の足の間に膝をねじ込んでんの。なんで更に膝をぐりぐりしてんの」


 ちょっと洒落にならない刺激が。


「……だめ?」

「……取返しがつかないだろ」


 そもそも話の流れも何もないこの展開は頭がおかしいとしか言いようがないんだけど。姉の上目遣いが恐ろしく強力なもんで思わず流れに乗ってしまう。


「よし、じゃあまずはお姉ちゃんが奉仕してあげよう」

「ちょっと待って、ほんとにそこはやめ……ぎゃー!」


 この後しばらくの間、貞操の危機に晒され続けた。流されても良いかもと15回くらい思ったのは秘密。



 しばらくして、ベッドで考える。ちなみに隣に姉ちゃんが居たりはしない。しかしドアの鍵は無いので、夜這いに来られたらただの漫画みたいな展開になりそう。さっきはほんとエロ漫画一歩手前の流れだった。大好きだけどね、エロ漫画。いざ現実で起きると訳が分からなくなる。

 昼間はそれなりに騒がしい家の前の通りも、夜遅くなると滅多に車は通らない。時計の音だけが小さく響く聞こえる電気の消えた室内で考え事をしていると、皐月の表情ややりとりがあまりにも鮮明に浮かんだ。


「…………」


 思考を切り替えて、真剣に建設的なことを考える。

皐月のこと、ノートのこと。

 俺は、もっと知らなければならない。

 もっと誰かに話を聞くことは出来ないか……と思っていると。


「……あ」


 いるじゃないか。頼れる人が。

 明日、あの人に尋ねてみよう。薫と更紗にも協力を仰いで。

 決意を固めて、目を閉じる。

 布団に包まって横を向くと、哀しさを瞳に宿した皐月の笑顔を思い出して、どうにも泣きたくなってしまった。

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