(2)

「失礼しまーす」


 ノックをして職員室に入ると、卯月先生が足を組んだままこちらに向き直った。

 ……絵になるにも程があるだろう。なに、モデルなの? それか女優? この人に対するこういった比喩は全く誇張にならない。


「おお、すまないな、わざわざ」


 先生がにこやかに微笑む。


「ちょっとこっちに来てもらえるか」


 そう言って、先生は席を立った。

 連れて来られたのは、生徒指導や三者面談等で使う応接室だった。

 先生に手招きされ、三人ともそわそわしながらソファに腰を下ろす。

 先生は最後に腰を下ろすと、手を膝の上に重ね、足を斜めに流した。


「さて、呼び出した件なんだが……」


 先生がここで、一瞬目を逸らした。


「皐月……さんのことですか?」


 俺はついさっきまで三人で話していたことかと思い、先生の言葉を引き継ぐように声を発した。

 すると、先生は驚きで目を見開いた後、ふっと微笑んだ。


「……鋭いな、君たちは」


 言うと、俺たち三人を見回す。

 そして、少し大きめに息を吐くと、ゆっくりと口を開いた。


「そうだ、皐月のことだ」


 話を続ける前に、先生はドアの方にちらりと目をやった。

 どうやら、近くに人が居ない方が良い話らしい。


「……と言っても、あの子について詳しい説明をすることは出来ないのだ。正確には、『今はまだ』と言ったところなのだが……」


 意味深なことを言って、しかし、と続ける。


「今後君たちに、どう振る舞ってもらえば良いかと言う最低限のことは伝えられる」

「どう振る舞うか……と、言いますと?」

「こんな言い方をすると荒唐無稽に聞こえるかもしれないが……。彼女は……皐月は、少なくとも今のこの学校の中では、私と、君たち三人にしか認識出来ていない」

「……はい?」


 薫が素っ頓狂な声を上げた。

 俺や更紗も目を丸くしている。


「先程の英語の授業での小テスト。橘、君は後ろに居る皐月のことを凝視していただろう?」

「え、あ、まあ、その……はい」


 言い逃れ出来ないと思い、素直に認めた。

 だって、あの胸の大きさは……ねえ? 反則ですよ、反則。誰に言ってんだよ俺……。


「それで気付いたのだ。少なくとも橘には皐月が認識出来ているのだと。そして確認のために乙瀬と上原にもこうして来てもらった訳だが、その様子だとどうやら二人にも認識出来ているようだな」


 先生が物憂げにため息を吐くと、長い睫毛が儚げに揺れた。


「……君たちは、昨日、第一図書室で……あのノートを見たんだろう?」


 先生の言葉に、三人とも固まる。

 俺たちの反応を見て、先生はふっと息を吐いて微笑む。


「そうか……あれはその場にいる全員が……でないと……ではこの場合は三人とも……と言うことか……」


 先生があごに手を当て、ぼそぼそと独り言らしきことを呟く。


「せ、先生……?」


 俺の言葉に、先生ははっと我に返ったような素振りを見せる。


「あ、ああ、すまんな。それでな、今はまだ詳しい事情を説明することは出来んのだが、先程も言ったように……皐月は私と、そのノートを見た君たち三人にしかまともに認識することは出来ない」


 現に君たちも、と続ける先生。


「彼女を初めて見たとき、完全に初対面だとは思わなかったろう?」

「あ、そうです、そうなんです。私たちの中でも、クラスに居ることは知ってたのに、まるで忘れちゃってたかのように自分の記憶、と言うか意識に無かったねって話をしてて……」


 更紗が興味津々と言った顔で、今までの疑問を先生に話す。


「ただ単に目立たないとか地味だからって訳じゃないのに、三人ともそんな風に思うのっておかしいねってなって。だって、あんな綺麗な人……例え、クラスメイトと一言も話さなくたって、目立ちそうなのに」

「そうそう! ましてやあんな大きくて形の良い、む、ね……」


 思わず立ち上がって、政治家ばりの演説を行いそうになってしまった。三人からこれ以上ない程の冷たい視線を一斉に浴びて、すごすごと座り込む。


「橘……後で話があるから、君は残りなさい」

「は、はいぃ……」


 先生、怖い。目が超怖い。泣いちゃう。何か指がぱきぱき鳴ってる……。

 大きくため息を吐いた後、先生が話し出した。


「そうなのだ。彼女は、皐月は、『そういう存在』なのだ。……今は、そうとしか言えない」


 だから、と先生。


「君たちには、彼女と話すのは周りに誰も居ない時だけにしてほしいのだ。別に君たちが皐月と話していても、周りの子らには君たちが見えない誰かと話しているように見える訳ではない……しかしそれでも、何かしら不自然な空気を感じてしまうだろう。……だから、な、説明不足にも程があるが、よろしく頼む」


 そう言って、先生は深々と頭を下げた。


「わ、わ、わ。先生、いいですよ、そんな頭まで下げて頂かなくて!」


 薫が慌てたように言う。


「そうですよ。先生が今きちんと説明出来ないのは、理由があってのことなんですよね? だったら、ちゃんとそうします」


 すっと立ち上がり、胸を張って言った。

 それを見た更紗も、くすっと笑いながら先生を見て、こくりと頷く。


「君たち……すまないな、ありがとう。最後になるが――」


 先生は、優しくも、どこか悲しげな微笑みを浮かべた。


「あの子と、仲良くしてやってくれ……」


『…………』

 3人とも、黙ったまましっかりと頷いた。

 先生のこの表情には、きっと俺たちが窺い知れない何か特別な事情があるんだろう。

 なら、俺たちに出来ることは、日頃お世話になっている先生の不安を、少しでも解消する手助けをすることくらいだ。

 だから、目一杯元気に腕を前に突き出し、親指を上げると、


「先生、任せてください!」


 にかっと笑った。

 すると先生は、表情を柔らかく綻ばせて、


「……ありがとう」


 と、本当に綺麗な笑顔を向けてくれた。



 ……あっれー? なんでこんなことに?

 薫と更紗が応接室から退室した後も、俺は先生に残されていた。

 ……何この妖しい状況?

 真昼間だけど! すぐそばにめっちゃ先生方がいるけど!

 俺の様子を見て、先生がふふっと笑う。笑い方が若干怖い……。


「橘。君だけを残したのは、少し忠告をしておきたいからなんだ」


 笑顔が。笑顔が超怖いよ、先生。

 先生がすっと腰を上げ、つかつかと歩いて来たかと思うと、俺の横に腰を下ろした。

 ……めっちゃ良い匂いするんですけど。何、大人の女の人って皆こんな良い匂いがするもんなの?

 目の前にある先生の顔を直視できない。

 ちらりと覗くと、左目尻の下にある泣きぼくろがやけに扇情的に思えて、心拍数が尚更跳ね上がってしまう。


「君は……皐月の胸に妙に関心があるようだな……?」


 言うと、先生が更にぐいと顔を近付けた。人差し指をこちらのあごの下に当てて、俺の顔をくいと上げる。

 まずいまずいまずいまずい。色んな意味で。あらゆる意味で。


「なななな、何のことでせうか……?」


 思わず古語を使ってしまった。キャラがぶれぶれだ。

 そんな俺の反応はお構いなしに、先生が俺の喉仏にぴたりと指を当てた。


「……ある程度興味を持つのは、君のような高校生男子としては仕方ないとは思うが……ちゃんと、節度を弁えるんだぞ……?」


 言うと、指をつつつとなぞらせる。

 なに、俺はそんなにけだものに見えるの?

 そんな疑問も、あまりの緊張で口に出せない。


「はははは、はいぃぃぃ……」


 どもりすぎて、前半めっちゃ笑ってるみたいになっちゃった。


「……よし、良い子だ」

「……んむっ」


 言うが早いか、先生は俺の顔をその豊満な胸に埋めた。

 え。

 なんでですのん?

 やわら、うお、柔らか、うおお、超柔らけぇぇぇぇ!


「この胸に誓うか? けだもののような蛮行には及ばないと言うことを」

「むぐぐ……は、はいぃ……」

 何とか返事をすると、やっと解放された。

「ぷはっ……せ、先生、俺、そんな風に見えますか?」


 やっと疑問を口に出来た。

 すると先生はにこっと笑って、


「君が皐月の胸を見る目つきが、私の胸を見る目つきとまるで一緒だったんでな。君は私に対しても、いつ襲うか分からない程の獣欲を滾らせているようだからな。それ自体は悪くないというか結構嬉しいのだが、このまま放っておくと皐月のことも襲いかねないと思ってな」


 とんでもないことを言ってきやがった。

 ……ちょっと、情報量が多すぎる。

 しばし、思考整理の為に動きを停止した。


 ……よし、思考の整理完了。


「……はあぁぁぁ!?」


 何も言葉にならなかった。

 先生……あなたにとっての俺って、一体何なんでしょうか?

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