第1章 巡る季節、予期せぬ出会い

(1)

 五月。

 冬の匂いがすっかりなくなり、少し遅めの春がやってきた。自然も人も高揚する、よく晴れた日。

 校舎にチャイムの音が鳴り響く。授業終了の合図だ。


「よーし、今日はここまで。明後日は英単語・英熟語の小テストを行うので、今日やった範囲の復習をしっかりしておけよー」


先生の連絡に、クラスの皆は抵抗の意志を見せつつも、素直に返事をする。


「よしよし、良い子たちだ。満点を取れた者には、先生から何かご褒美でもやろうかな」


 男言葉にはそぐわない、とんでもなく美人でスタイル抜群の、英語担当及びこのクラスの担任―桐橋卯月きりはしうづき先生がにこりと笑った。笑うと同時に首を傾けると、艶やかなロングの黒髪を結えた部分がふわりと揺れる。


「何だって!? ご褒美!? 例えば、例えば!?」


 授業中の集中状態から解放された生徒の一人が、明らかに場違いなテンションで立ち上がった。


 ……俺だけど。


 先生は俺の方を振り向くと、笑顔を崩さないままジト目で睨め付けて来た。目力があって超怖いよ……。


たちばな、ちょっとテンションが上がり過ぎて気持ち悪いぞ。思春期なのは分かるが、流石にその気持ち悪さは常軌を逸している。本当に気持ち悪い。通報するのを堪えるのが精一杯だ。そうだな、満点を取られて君から性的なお願いでもされては敵わんから、君の問題だけ難易度を抜群に上げてあげよう。追々々試くらいまで必須になるレベルにな」

「ぼろかすに言われた上にあらぬ疑いをかけられて、更に教師にあるまじき依怙贔屓まで!?」

「君の放課後性奴隷にされたくはないからな。それにこれは依怙贔屓とは真逆だぞ? 言うなれば凹贔屓ぼこひいきだな」

「あんたクラスの皆が聞いてる状態で何言ってんだ!? このエロ教師!」


 放課後性奴隷って何だよ。アイドルのシングル曲で出てそうだな。……無いな。

 あと、凹贔屓ってなんだ。割と語呂良いじゃねえか。差別の一言で済むだろうに。

 わざわざ立ち上がってツッコんだところ、先生は俺を怪訝な目で見つめた。


「うるさい万年発情期」


 鼻で笑われた……。

 ふふんと言う笑い方が端正な顔立ちにやたら似合うから余計に腹が立つ。

 クラスメイトはばっちり先生の味方のようで、皆、特に女子が俺の事をまるでごみでも見るかのような目で見ている。


『橘くん、背は低いけどやたらエネルギッシュだよね。ていうか性欲の塊だね』

『防御力が低いと、あいつと目が合っただけで妊娠するぞ、気を付けろよ』

『意外と、わたくしああいうのがタイプかも……』


 ひそひそと交わす会話が漏れなく耳に入る。背が低いのは気にしてんだから言うんじゃねえよ。公式プロフィールの身長は165cmだからな。何の公式だって話だけど。性欲についてはその通りだよこんにゃろう。二番目の台詞を言った男子は後で胴回し回転蹴りを浴びせてやろう。三番目の台詞を言った女子は口調が気になるけど取り敢えず放課後お話がしたい。


 それにしても……先生、俺がほんとに先生に性的なお願いをするとでも思ったのだろうか?

 ……反論、出来ない……。


「バカでエロくてくだらない事を考えていないで、きちんと勉強しなさい」


 先生は最前列に居る俺の前に、ハイヒールをかつかつと鳴らしながら立つと、俺の煩悩を綺麗に見抜いた発言をした上でおでこにデコピンをして来た。

 思いの外痛くて、「くおぉ……」と阿呆みたいに悶絶していると、先生はふっと笑って教室を出て行った。


 ……最後の笑顔はいかんですよ、先生。惚れちゃうから。いや、惚れないけど。……惚れな、い、よね……?


 授業を乗り越えてやっと休み時間を迎えた解放感に、教室の空気が一気に弛緩する。気さくな卯月先生であっても先生は先生だ。どうしたって授業中は一定の緊張が伴うものだろう。

 俺も先生の悩ましい曲線を描く身体のラインを見つめるのに必死だったから、


『それでは橘、この英文を訳してみなさい』

『あ、はい。えーと、【その声は、友の李徴子ではないか?】』

『誰が山月記の印象的な場面を訳せと言った……?』


 という、地獄みたいな展開を招いていた。綺麗な人がこめかみに青筋を立てて首を傾げると、本気で生命の危機を覚える程恐いということを学びました、はい。

 先生の怒髪天を突く様子を思い出して身震いしていると、後ろからふと聞き慣れた声がした。


たくみ。卯月先生と匠の名物『微エロトーク』、ありがとね。超笑ったよ」

「そんな名前が付いてたのかよ!?」


 言葉に混ざっていた悲し過ぎる事実に、振り向き様にツッコミを入れる。

 何その名称? ヒエログリフ? ピロートーク? 後者はちょっと直接的過ぎてやばい。

 あと、性奴隷はもはや微エロの域を越えてると思うんだけど……。


 話しかけて来たのは、クラスメイトの乙瀬薫おとせかおるだ。

 名前からしてばりばりの女子感が漂っているけれど、れっきとした男だ。

 2年生からクラスが一緒で、丸一年の付き合いになる。

 性格は名前から連想されるイメージ通り柔和で、一緒に居ると心が安らぐ。

 背は低めで、身長の高い女子がよくからかいながら頭を撫でているのを見かける。顔立ちもどことなく、と言うかかなり女性っぽさがあり、女子と話しているのをよく見かけるし、それでいてその状況に全く違和感が無い。

 笑顔がやたらに可愛らしく、少しばかり間違えれば薫ルートを選択しかねない。実際、薫を見る男子の目がたまに変な雰囲気を帯びている時がある。そういった視線を薫も気が付く時があるが、そういう時は大体分かりやすいくらいげんなりしている。本当に分かりやすい。


「それにしても、本当に匠は先生の事が好きだよね。毎回あんなに絡み合っちゃって」

「おい、言い方言い方。真昼間の学校の休み時間にする表現じゃねえぞ」

「でも、タイプではあるんでしょ?」

「……どストレート」

「ほんと、匠は年上に目が無いよねー。どうしてそうなっちゃったんだか……」

「うるせえよ。そうなったもんは仕方無いだろうが」


 そう。

 俺は、橘匠は、大が、いや、超が付く程の年上好きなのだ。


 今まで告白して来た女子は全て年上。告白した人数は二桁にのぼるが、ものの見事に全て玉砕して来た為途中から数えるのはやめた。ちなみにバスケを始める予定は無い。

 告白をしたのは小・中・高の先輩ばかりだが、好きだったと言うだけならばこれまで幾人もの素敵な先生方に惚れてきた。

 幼稚園の先生、小学校の担任、中学校の国語の先生……素敵な人がこの世には多すぎて参る。

 まあ、告白した所で成就する可能性は近似すれば漏れなく0だと思うので、そこまで踏み出す勇気は無かったんだけど。不意に現実を見ちゃう癖があるようだ、俺は。


 そして今は、このクラス、3―3の担任兼英語を担当している桐橋卯月先生が大好物なのだ。大好物って言い方が完全にアウトだけどまあ気にしない。

 先生はもう年齢で言えばアラフォーと呼ばれる年齢(らしい)のだが、正直20代後半と言われても何ら疑わないくらい若々しくて、凜としていて、美しい。

 その上大人の色気がたっぷりで、俺に限らず多くの男子生徒を悩殺している。


 別に、露出が多い訳では無い。ただ、さりげなく着こなしている服で強調された身体のラインが悩ましいのだ。いやもう本当に悩ましい。そりゃ授業中に見つめて死ぬ程恐い目で睨まれる訳だ、うんうん。


 しかもそんな可憐な外見にも関わらず、口調は男言葉で性格は気さくそのもの。

 その為、男女問わず人気が高い。

 ……今まで素敵だと思った人の中でも、高嶺の花具合がダントツで一番ですよ……。

 ここまで素敵だと、恋愛感情を通り越して憧憬の念を抱いてしまうのだけれど。

 ……ああ、願わくば卯月先生と一晩を共に――いかんいかん、煩悩と本音が。


「薫くーん」


 ふと、呼び声がした。 


「は、へぇいっ!?」


 その声に反応した薫の反応が明らかに過剰であったため、それに釣られて直前までいかがわしい妄想でふやけ切っていた俺の表情も元に戻った。何だよへぇいって。動揺して出る声じゃねえだろ。


「さ、更紗さらささん、ど、どど、どどど、どうしたの?」


 お前はDJスクラッチか。

 俺や、他の女子と話す時とは明らかに一線を画すその動揺具合に、思わず吹き出してしまう。

 俺たちの前に顔を見せたのは、匠と同じく2年生の時からクラスが一緒の上原更紗うえはらさらさだ。


 軽くパーマをかけた、黒のセミロングの髪の毛。

 細目でいつもにこにことしている愛くるしい顔。

 穏やかな喋り方。

 そして、145cmというミニモ二具合(懐かしい)。


 俺が年上好きじゃなかったら、今の薫と同じような態度をとっていたかもしれない。

 顔を真っ赤にして目をぐるぐる回している薫を見て、更紗はくすりと微笑む。


「ふふ、薫くんは今日も面白いね」

「そ、そそそ、そうかな!? い、いやー、う、ううう嬉しいなぁ!」


 ……うっとおしい。

 惚れるのは勝手だし、応援してやらんでも無いけど……もう丸一年一緒なんだから、せめて普通に受け答え出来るようになってほしいんだけど……。

 薫は更紗と話すといつもこんな調子なので、しょうがないから俺が口を出して会話の手助けをすることにする。


「更紗、お前今日も小さいな。今の身長は118cmなんだっけ?」

「それどこのホビット族なのさ!? 泣くよ!? あたし、泣いちゃうよ!?」


 会話のテンションが上がれば、薫も話しやすくなるだろう。安定のイジりで今日も更紗をボロ雑巾にしてやるぜ(鬼)!

――と、思っていたら。


「んぐぉっ!?」


 左のこめかみの辺りを薫にがしっと掴まれた。女の子のような体躯から信じられない力と禍々しい怒りのオーラが滲み出る。


「ねえ、匠。更紗さんに何言ってくれちゃってるの? いくら僕でも許せないことと許さないことと断じて許さないことがあるよ?」


 頭がぎりぎりと締め付けられる。これがアイアンクローと言うやつか……。


「いでででで! お前それ全部許してねえじゃねえかよ! 割れる! 俺の頭が割れる!」

「昨日の夜テレビ見てたら、ゴリラの特集をやっててさぁ……」

「何で急にその話を出したんだよ!? なに、今お前の握力はゴリラ並なの!? それで俺の頭を握り砕くと言いたいの!?」


 更紗の事をちょっとからかうのも、薫の前でとなると命懸けだ。俺は会話の手伝いをしようとしただけなんだけど……。


「大体、お前更紗の事、未だにさん付けなのかよ! なんだよ『更紗さん』って! さ行が多くて口ん中ぱっさぱさになるっつの! ちゃん付けか呼び捨てで良いだろ!?」

「う、うるさいよ! このまま割ってやろうか! いや、割る! 豆腐の様に割る!」

「お前の握力どんだけあんだよ!? 何百kgかあるんじゃねえのか!? 死ぬ、死ぬ!」


 片手で掴まれて、もうじき浮き上がるじゃないかと言う所で、更紗があわあわと声を上げる。


「か、薫くん、その辺にしといてあげてよ。匠くんは悪気がある訳じゃないから、ね?」


 更紗の言葉に反応して、薫はアイアンクローをいとも簡単に放した。

 その顔にこの怪力は似合わないにも程があるだろ……。

 ずしゃりと音を立てて、間抜けな体勢で崩れ落ちる。

 机の角に右脇腹をぶつけて、この上ない怒りが湧く。

 薫は悶絶している俺に目もくれず、更紗にでれっでれの表情を浮かべている。


「も、もちろんだよー更紗さん! そんな事分かってるから! ああもう更紗さんは本当に優しいなー!」


 ……この野郎。

 腹の虫が治まらなかったので、英語の教科書で薫のでれでれ顔をすぱんと引っ叩く。


 休み時間が取っ組み合いで潰れてしまった。

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