第26話 心の在り処
――何が真実なのか、わからないの……。
呟いた言葉は、答えを求めたのか。それとも愚痴か。口にしたフィオレンティーナ自身にもわからなかった。
ただ、戸惑い交じりに見つめ返してくる子犬のような瞳に、彼女は苦笑した。心のどこかで、まだ表情を取り繕える自分を他人事のように傍観しながら……。
「姫様は……フィオナ様は、どうなさりたいのですか?」
鏡台の前に腰かけたフィオレンティーナの蜂蜜色の髪に、櫛を入れたジュリアが鏡越しに口を開く。
「私は……」
ジュリアの問いかけにフィオレンティーナは、生きたいのか、死にたいのかもわからなくて、返す言葉を喉の奥で詰まらせた。
銀色の鏡に映る瞳から逃れるように目を伏せた。
「ディートハルト陛下が……姫様のことを蔑ろにしているようには、わたくしの目には見えません」
慰めるような優しい手つきが髪を梳く。
「……他の人に比べればね」
でも、最初に会ったときは酷いことを言われたわ、と――フィオレンティーナは胸中で囁く。
小さな宿屋の寝台の上で、ディートハルトと対面した時のことを思い出す。
蒼い瞳は冷酷で、声には硬い棘が含まれていた。
ユリウスと同じ瞳で、同じ声で。だけど、全然違うものを有していたから、向かい合うことに何の抵抗もなかった。
憎めばいい、呪えばいい――そう思っていた。
だけど、憎しみに心を傾ければ、自分の中でユリウスが遠のいていく。
ユリウスに愛されていたのかは、わからない。
ただ、ユリウスを無垢に慕った自分からも遠くなって行きそうで、心を捧げると誓った想いもまた、砂に描いた絵のように消えて行きそうだった。
風にさらわれて、波に消されて……想いは形を失くしていく。
失うことを恐れれば、ディートハルトとどう対面していいのかわからなくて、困惑する。
そして、
「でも、あの人は……。あの人が……ユリウス様を殺したの」
ユリウスと同じ顔を持っているディートハルトが、フィオレンティーナから最愛の人を奪った。
それなのに、憎らしい男の胸に縋って泣く自分がいた。
「ユリウス様を愛しているから……私はあの人の容姿に惑わされるの?」
自問自答の呟きにジュリアがため息をつくように、応じた。
「……本当に、そっくりですね」
「違うのは髪の色だけ……ねぇ、ジュリアは気づいた? ユリウス様とあの人は……指の形さえ一緒なのよ」
「指ですか……?」
「ユリウス様が剣をたしなんでいらしたのは、ジュリアも知っていたでしょう?」
「はい、ルキノ殿がお相手をなさっていました。毎日、欠かさずに訓練をされていましたね」
「そうなの?」
ユリウスの日常をフィオレンティーナは知らない。幼い日は、そのことでジュリアを羨ましく思い、嫉妬してしまった。
今は大人になったから感情論に走ることはないが、やはり一抹の寂しさを覚える。
「どんなときでも、フィオレンティーナ様をお守りできるように、強くなりたいのだと、ルキノ殿に、ユリウス様は仰っていたようです」
優しい指使いで、ジュリアはフィオレンティーナの髪をほぐしていく。
「……本当に?」
「ルキノ殿が当てられて、辛いと苦笑されていました」
睫毛を瞬かせるフィオレンティーナに、ジュリアは柔らかな笑い声をこぼした。その声はどこか冷ややかな場の空気を優しく撫でる。
ルキノというのは、ユリウスの護衛官だった軍人だ――護衛と言うより、監視と言った方が言葉的には適切かもしれない。
その彼もシュヴァーン軍の侵攻で命を落としただろうか……。
ジュリアから聞いた話によれば、エスターテ城を襲ったシュヴァーンの軍勢はディートハルト直属の国王軍だったらしい。それ故に、傭兵たちによる掠奪も少なく、城に仕えていた無抵抗の者たちは特別危害を加えられることなく捕えられたとのこと。
もっとも、その後の処分がどういう形で行われたか、シュヴァーンに連行されたジュリアには預かり知れない。
ただ、ルキノは軍人であったから正面でシュヴァーン軍と戦ったのであろうと思えば、存命を期待するのは難しいだろう。
ジュリアの言葉を疑うわけではないが、ルキノから直接話を聞けたらとフィオレンティーナはつかの間、考えた。
ユリウスはどんな瞳で、どんな声で、その言葉を口にしたのだろう。
本音を隠した建前か、それとも心の底からの言葉だったのか……。
知りたい――と思う欲求は、けれど、実現不可能だ。
萎れそうになる姿勢を正して、フィオレンティーナは続けた。
「ユリウス様はリュートがお上手で、本当に繊細な楽を奏でられた。……でもね、指は音とは違って、武骨で……」
ディートハルトの指先も武骨で、フィオレンティーナの顎を締め付けては言葉を封じたことを思い返す。
脳裏に浮かぶユリウスの面影に、ディートハルトの影が重なる。
ディートハルトの面差しにユリウスの影を探すように、フィオレンティーナの中で二人の境界線が曖昧になって行く。
「私はユリウス様を愛している……愛しているの」
確認するように呟くフィオレンティーナに、鏡の中でジュリアはそっと頷いた。
「存じております」
フィオレンティーナのユリウスへの愛情を疑う者など、誰一人としていなかっただろう。
彼女には捧げられるのは、愛情だけだった。だから、無垢に彼を慕った。
哀れな捕囚とは知らず、自由を奪われた苦しみなど理解できなかった頃から、彼のために出来ることを一生懸命考えた。
少しでも、喜んで欲しくて花を選んだ。彼の爪がつま弾く楽に合わせられるように歌を学んだ。刺繍を習って手布に彼の名を縫い取った。
会えない時間を埋めるように、手紙を贈れば、彼の書斎に置かれた螺鈿細工の書箱はフィオレンティーナからの封書で一杯になった。同じ枚数、フィオレンティーナの元にもユリウスからの手紙が届いた。
いずれ、外に出ても恥ずかしくないように、人は学ぶのですと、教育係は言った。
ユリウス様に恥をかかせるのは絶対に嫌だと、フィオレンティーナは年の頃には難しい本も徹夜で読み解いた。
王侯貴族の婚姻が愛情だけで成り立つのものではないということは、幼い頃から教えられていた。外交目的に結ばれる婚姻は、年上の従姉たちを見て、知っていた。
兄のリカルドの元に持ち込まれた縁談も、顔も知らないような他国の姫君たち。
『――熱烈なお誘いに、角を立てないようお断りするのは至難の業だよ、フィー。何か、よい口実はないかい?』
苦笑交じりに、リカルドがフィオレンティーナに助けを求めてきたこともあった。
フィオレンティーナがまだ幼い頃であったから、リカルド自身も身を固めてしまうには早いと感じていたのだろうか。結局、兄は最期まで独身を通した。
それとも『幸せになって欲しいよ』と、応援してくれた兄にもまた、どこかに幸せにしたいと、心に決めた姫君がいたのだろうか。
結ばれた婚約は、決して本人の同意の上ではなかったけれど。それでも、フィオレンティーナはユリウスを心から愛した。
自分の想いに疑いはない。
愛しているからこそ――そう、ユリウス様を愛しているからこそ……惑うの。
目の前によく似た面影にフィオレンティーナが縋ってしまうのは、間違いなくユリウスへの愛情からだ。
だけど、ユリウスがフィオレンティーナに返してくれたものは、はたして愛情だったのだろうか?
閉じ込められ、孤独に心が弱くなれば――フィオレンティーナは、仇であるディートハルトに心を許してしまった。
同じように、フィオレンティーナに差し向けたユリウスの感情が、今の彼女と違うとは言い切れない。
どんなに強く思っても、どんなに誓っても……揺れてしまう心を知ったなら、何が真実なのか、フィオレンティーナにはわからないのだ。
そして、ディートハルトが何を求め、自分を抱きしめるのかも。
「私の心はユリウス様しか愛さない……そんなことはあの人だって……わかっているはずだわ」
ユリウスを心から消さないようにすれば、ディートハルトを憎み切れない。だからと、冷酷な瞳を見せた彼が勘違いするとは思えないのだが、孤独に震えたフィオレンティーナを抱きしめたディートハルトの腕は……泣きたくなるくらい、優しかった。
フィオレンティーナは瞳から一筋の涙を流して、誰にともなく問いかけた。
「……なのに、どうして? ――私に、優しくするの?」
その腕の温もりを優しいなんて、絶対に認めたくはなかったのに――。
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