第25話 壊れる心



 ――何が欲しい?


 目を逸らせないように、フィオレンティーナの顎を固定して、ディートハルトは翡翠の瞳を覗きこんで問うた。

「何が欲しい? 宝石か?」と。

「――そんなもの……」

 薔薇色の唇が微かに震え、声はかすれた。その先にどのような言葉が続くのか、本当は聞くまでもないのだろう。

 彼女からディートハルトが奪ったもの――国や家族やユリウス……。

 取り戻せるのなら、取り戻したいと彼女は願うだろう。それが冥界へ旅立った者であることを知っていても。

 ディートハルトが煩わしい仕事を終えて戻ってくれば、フィオレンティーナは壁際に置かれた寝椅子に腰かけ、花を眺めていた。

 いつも通りの光景ではあるが、あまりにいつも通りなので、ディートハルトは背筋に冷たい物を感じた。

 先日、虚ろな瞳で泣いた彼女の姿は魂が抜けたように生気がなく、人形のようだった。その時のことを思い出すと、冷たい何かが背筋を駆け抜ける。

 今もじっと花を眺めている姿は人形のようで、本当に彼女は生きているのかと疑心暗鬼に囚われた。

 声を掛ければ、びくりと肩が震えるのを目にして、ディートハルトはホッと胸を撫で下ろす始末だった。

「ドレスか?」

 押し問答を繰り返して、ディートハルトはフィオレンティーナの興味を引こうとする。ご機嫌伺いをしている自分が酷く滑稽だったが、あの虚ろな瞳は二度と見たくない。

 虚無の瞳はディートハルトの姿を映しながら、彼を見ていなかった。幼い日、誰もがディートハルトを無視したように、彼女の瞳もまたこちらを見てはいなかった。

 存在を否定された気がした。自分の手の届かないところへ、逃げられた気がした。

 触れれば抱ける身体はあるのに、魂が入っていなければ意味がない。憎まれてもいい。彼女の心が欲しいと願って止まない彼の存在を、虚ろな瞳は透かしていた。

 フィオレンティーナがユリウスの元に死に逝かれるのも、心が砕け、抜け殻になってしまうのも、ディートハルトとしては容認できない。

「あなたに見せるために着るのですか?」

 ならば、自分から折れるしかないのだろうと、

「お前が望めば、舞踏会を開いても良い」

 譲歩すれば、彼女は首を振った。

「……いいえ。私を誰の目にも晒さないで……」

 不意に震えだすフィオレンティーナの肩をディートハルトは抱きとめた。

「――お前は俺の正妃だ。だから、何も恐れるな」

 他の誰もが彼女の存在を認めずとも、自分の妃はフィオレンティーナただ一人であることをディートハルトは頭痛がしない、明瞭な意識で告げる。

 記憶を失ってからこちら、悩まし続けた頭痛を癒すのは彼女だけだ。その彼女をディートハルト自身が傷つければ、痛みはそのまま我が身に返ってくる。

 何を置いても、守らなければならない。

 ユリウスの存在に対して怒りをぶちまけてしまう自分からも――守るのだと、強く抱きしめれば、胸の中でフィオレンティーナは首を振って泣く。

 彼女から何もかもを奪ってしまったディートハルトに守られる現実は、フィオレンティーナにとっては最大の屈辱か。

 ならば、怒りに平手でもぶつけてくればいいのに、フィオレンティーナは泣くばかりだ。

 その涙は、ディートハルトを苛む。彼女を傷つけているのが間違いなく自分であるから、天罰だと言えよう。だが、しかし。泣かせたいわけじゃない。

「どうすればいい……」

 鈍くじわじわと痛みを訴える頭痛に、呻きながら口を開いた彼の胸の内で嗚咽が小さくなった。

「どうすれば……お前は泣かずに済む?」

 問いかければ、金の睫毛の淵に大粒の涙をためて、翡翠の瞳がこちらを見上げてくる。

「……どうして、私のことに構うの……?」

「何?」

「私のことなど、放っておけばいい。あなたはユリウス様への復讐のために私を壊したいだけでしょう? ……ならば、私に構わないで」

 もう私は壊れかけている……、と。

 彼の胸にフィオレンティーナは縋ってきた。シャツに熱い涙が浸みこんでくる。ユリウスの名前に怒りに駆られるより、涙の熱に脳は緩く揺さぶられた。

「あなたは……ユリウス様じゃない……。なのに、私は……」

 憎い相手に恋しい相手を重ねることを壊れていると、彼女は言いたいのだろうか。

 今、自分の手の中にあるフィオレンティーナが、本来の彼女とかけ離れているのは、薄薄だがわかる。

 憎しみを込めた鋭い眼光を一度、目の当たりにしたのだ。

 こちらから放った冷ややかな視線を前に、フィオレンティーナは怯みながらも果敢に睨み返してきた。彼女の中に強い芯があることをディートハルトは認識していた。

 その強さで、こちらを憎めば決して彼女の心を自分色に黒く染めることはできても、幼いディートハルトが求めた恋は、二度と手に入れられなくなるだろうということも。

 フィオレンティーナの憎悪に射抜かれた瞬間、ディートハルトはそれだけで十分だと思っていた。彼女の心から、ユリウスを取り除ければ。

 だからこそ、フィオレンティーナ自身が憎しみに染まることを拒んでいた。こちらを憎むことで己の心からユリウスが消えることを承知している彼女は、本来、身の内に隠している苛烈さを自ら殺したのだろう。

 そうして、弱さだけが残ったフィオレンティーナはユリウスを求め、ディートハルトの中にユリウスの影を幻視する。

 そこにあるはずのないものを見出してしまっているとすれば、確かに、壊れていると言えるかもしれない。

 この部屋に閉じ込めたことで、彼女の意気地をくじいてしまったのだろうか。

 ディートハルトはフィオレンティーナの頭を抱え、己の胸に押し付けた。

 ユリウスを求め続ける以上、フィオレンティーナに自由を与えては、死を選ぶか知れない。

 ナイフの類などを部屋に置かないようにした。寝室と居間と、ディートハルトが席をはずしている間は、フィオレンティーナが自由に動けるのはこの二室だ。

 テラスへ続くディートハルトの私室には鍵を掛けた。外は雪に埋もれているが、飛び降りられたら事だ。

 もっとも、この部屋の物にしても、幾らでも自殺道具は工面できる。それこそ、花を生けた花瓶を砕き、その欠片で首を掻っ切ることや、身に付けているドレスを裂いて、首を吊ることも。

 生きることより、死ぬことの方が実に簡単だ。生きることはいつだって止められる。人間は必ず死ぬのだ。

 だからこそ、生かし続けるのは難しい。例え、本人に生きるその意思があったとしても、周りの思惑で生死が定められることもある。ディートハルトも戦場で幾人もの命を奪った。この手でユリウスを殺した。

 ディートハルトとて、今この場に生きている己の悪運の強さに呆れることもあるくらいだった。

 謀反を遂行した人間が玉座について、二年。

 王宮はまるで何事もなかったように、新たな王を迎え月日を重ねていた。

 シュヴァーン王国の人間は、帝国支配を快く思っていなかった。だから、先代国王を死に追いやったディートハルトを受け入れた。

 帝国に利権を取り上げられた貴族たちはこぞって、ディートハルトの前に膝をつき、帝国侵攻に加勢した。国を落ち着かせるいとまをかけず、即座に帝国へと兵をあげられたのは、シュヴァーン国内に根付いていた帝国への反感があったからだ。

 その反感は、帝国が滅してもいまだに国民の感情のなかにあるのだろう。

 シュヴァーンの人間たちが、フィオレンティーナに差し向ける感情は、ディートハルトの慰みものになった彼女を憐れむものではなく、侮蔑し嘲笑うものだった。

 そして、同様の感情をフェリクスは意図的に、アルベルトは無意識に見せつけていた。

 フィオレンティーナに向けられるものは決して優しくはなく、ときに悪意は牙を剥く。新たな王に我が娘を輿入れさせようと企んでいた狸たちは、ディートハルトが選んだ花嫁が自分の娘ではなかったことに歯軋りしているだろう。何か、良からぬ策を企ててくるかもしれない。

 さすれば、この部屋はフィオレンティーナを閉じ込める檻であると同時に、か弱き小鳥を保護するかごでもあることを、どうすれば彼女に伝えられるだろう?


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