倭の国 まほろばツアー
葉月みこと
第1話 実はこの旅、能褒野から始まっていた
気が付くと、
(夢か? それにしちゃ、俺の思考がはっきりしとるな)
丈琉は頭顔を左右に動かしてみた。やはり何も見えない。
『見つけたぞ!』
突然、耳をつんざく濁声。その場に尻餅をついてしまった。きょろきょろと見渡すと、今度はぼんやりとした人影が見えた。
巨人の様に大きな人間が立っていた。白い衣装を着ている。上下に分かれた着物の様だ。上着は腰の下までの長さがある。下はたっぷりと布を使った袴で、膝のあたりを紐で縛ってある。髪はぼさぼさ。背中まで伸ばしてある。達磨の様な顔をしている。
(その恰好とか、昔の人なんやろか)
不思議と恐怖は感じなかった。
『吾はスサノオ。吾の力を継し者よ。吾の剣を救いだすのじゃ』
スサノオと名乗ったその男は、右手を前に差し出した。その手は赤く光っていた。
「あっ。俺とおんなじ」
丈琉は自分の右手を、目の前に持ってきた。思わず、手を二度見した。久しぶりに赤い光が灯っていた。
『その光が証じゃ。その光があれば、アマノムラクモの剣を手にすることができる。
傲慢な姉上に奪われた、吾の命を救い出すのじゃ』
「えっ? 俺があんたを助けるんか?」
『そうじゃ。おぬしにしかできぬ、剣を……」
ピーポーピーポー。
突然、救急車のサイレンが響き渡った。丈琉はベッドの上で、パチッと目を見開いた。そのまま息が止まり、全身が硬直した。天井の模様だけがはっきりと見えた。
サイレンの音は近くまで来て、鳴りやんだ。そこで丈琉は大きく息を吸い込むことができた。続いて、大きく息をはいた。
(隣に行ったんか)
自宅の隣には、祖父の創設した病院がある。父の代で総合病院になり、二次救急の指定を受けた、この町では大きい病院だ。
丈琉は枕もとのスマートフォンを手に取った。6時2分。起き上がって、窓際に向かった。そして窓を開け、窓から体を少しだけ乗り出した。右側に顔を向けると、救急車のパトライトの赤い光だけが見えた。
まだ夜は明けていない。雲ひとつない空には、満点の星が輝いていた。3階にある丈琉の部屋からは、亀山の町を見渡すことができる。視線を少しずらすと、自宅の脇を流れる安楽川が目に入った。川の対岸には木々の茂った丘陵がある。
(アマノ、ムラクモとか言ったかな。何の事やろ。夢が途中で終わってしまったからな。なんかすっきりせん)
ぼんやりと古墳を眺めながら、夢の事を考えていた。
家の電話の呼び出し音で、ハッと我に返った。
「さぶっ」
ぶるっと体が震えた。2月の早朝の冷たい風が、部屋の中に吹き込んでくる。慌てて窓を閉めた。そしてドアに目をやったが、呼び出し音はピタッと止まった。
(
部屋の中には、ボストンバックが置きっ放しにしてあった。昨晩帰って来た時のそのままだ。バックの中からフリースのパーカーを取り出して着込んだ。
若林丈琉。23歳。185センチの鍛えられた体。髪は短く刈り込んである。二重のはっきりした瞳が印象的で、実年齢より若く見られることが多い。
昨年、大阪の大学を卒業して、今は津の警察学校に在籍している。警察学校は全寮制。外泊する場合は自宅だけで、週末に限るなど、寮生活にはさまざまに制限がある。大量の課題やテストなどがあると、帰宅できないことも多い。今回の外泊も、年末年始以来だ。
自宅には姉の三殊が、ほとんど一人で生活している。以前、三殊が「無駄に広いこの家に、一人でいるのが怖い」と言った事がある。それを聞いて以来、丈琉はできるだけ帰ってこようと決めていた。地震や台風などの災害があると、すぐに三殊に連絡をする。学校の仲間内では、丈琉のシスコン疑惑が囁かれている。
丈琉は棚に目をやった。賞状やトロフィーなどが所狭しと飾られている。一番目立つところには、全日本剣道選手権の優勝トロフィーが置かれていた。その隣に置いてある、フォトスタンドを手に取った。小学1年生の時に出場した剣道大会の写真。真中に満面の笑顔の丈琉。右には三殊、左には兄の
(この後すぐやったな。母さんが亡くなったんは)
丈琉は写真を、そっと指で撫でた。
「タケ! 起きて」
けたたましい音をたてて、ドアが開き、三殊が飛び込んできた。丈琉は「うわっ」と声を挙げ、写真を落とした。
三殊もパジャマのままで、自慢の真黒なストレートヘアもうねっている。ぽっちゃりとした顔で、切れ長の一重の目。写真の母によく似ている。三殊はしゃがんで写真を拾っている丈琉を見下ろした。
「起きとったんや。それよか大変や。宮崎のおばあちゃんが、危ないんやって。今、入院しとるんやけど、今日か明日かって、お医者さんに言われたんやって。今、伊津子おばちゃんが電話くれたん」
宮崎は母の実家で、伊津子は母の姉だ。丈琉は三殊を見上げた。三殊は涙をポロポロとこぼしている。
「私ら、ずっとおばあちゃんに会っとらんのに、急にこんな……」
「今から泣かんでも」
丈琉は困った顔をしながら、立ち上がった。そして下を向いて泣いている三殊の背中に手をまわした。が、丈琉は息を飲んで、目を固く閉じた。このままでは、三殊を抱きしめてしまいそうだ。腕を前に伸ばしたままの状態で、感情と理性が戦っている。時間にして5秒。丈琉は大きく息を吐き、三殊の背中をポンポンと優しく叩いた。理性の勝利。三殊は掌で涙をぬぐった。150センチしかない三殊は、真上を向くようにして、丈琉の顔を見た。
「うん。あんた、今日暇やろ。土曜で私も大学院休みやし、これから宮崎に行こ。八真斗にも電話せんと」
三殊は手に持っていたスマートフォンを操作し始めた。
「でも、八真斗は忙しいかもしれん。医学部って土日も色々忙しいって聞いた事ある」
丈琉は三殊の背中に向かって、声をかけた。三殊は顔だけ振り向いた。
「でも、今行かんと、もう2度と会えんかもしれん。
お母さんのお葬式ん時、おばあちゃんがいてくれたやろ。私ら慰めてくれたやろ。八真斗やって、そんな薄情なこと言わんはずや」
三殊はそう言い放つと、踵を返して部屋を出て行った。
(確かにな。ばあちゃんがいてくれたお陰で、俺らは救われたもんな)
丈琉はポリポリと頭をかいた。
丈琉は2階のダイニングキッチンに降りてきた。キッチンは木の家具で統一されている。伊奈子が選んだ家具だと聞いている。丈琉は落ち着いた雰囲気のキッチンが好きだった。丈琉はヒーターとテレビのスイッチを入れた。テレビは朝の情報番組を流した。横目で見ながら、やかんに少しだけ水を入れて火にかけた。食器棚から自分のマグカップを取り出し、インスタントコーヒーの顆粒を入れて、お湯が沸くのを待った。
カップにお湯を注いでいる時、三殊が勢いよくキッチンに入って来た。
「ここにおったんか。部屋にいないんやもん」
「あちっ」
丈琉は手元がぶれてお湯を手にかけてしまった。三殊は気にもしていない様子。
「八真斗も今日、大丈夫やって。でな、宮崎に行くんなら、伊丹から行こうって。セントレアやと京都の八真斗が大変なんやって。時間とかチケットとか、八真斗がみんな調べてくれるって」
「いや、調べさせたんやろ」
丈琉はお湯がかかった手を、流水で冷やしながらつぶやいた。
「あっ。私にも、コーヒー入れて」
三殊は自分のカップを丈琉に渡した。丈琉は「ハイハイ」と返事をした。三殊にはブラックのコーヒーを渡し、自分のコーヒーには砂糖とミルクをたっぷり入れた。
「でな、伊丹やと、ここから車で2時間くらいやろ。私、運転するから、車で行こ」
丈琉はコーヒーを吹きだしそうになった。三殊の運転の車に乗るのは、命がけだ。丈琉は二度と乗りたくないと思っていた。急ブレーキに急発進、スピードの出し過ぎ、無理な車線変更など、とにかく乱暴な運転だ。その時、タイミングを計ったように、テレビが交通事故のニュースを流した。高速道路の自損事故。大破した車が映し出された。運転手は意識不明の重体。丈琉はマグカップをテーブルに置き、背筋を伸ばした。
「電車とか、他の手段にせんか?」
「電車は嫌いや。第一、電車じゃ間に合わんやろ。
車にナビ付いとるし。伊丹空港って行った事ないけど、迷う事ないやろ」
丈琉は大きなため息をついた。
(覚悟決めんとかな。俺が運転するわけにはいかんし……)
警察学校は運転に厳しい。事故でも起こしたら、罰則ものだ。
三殊のスマートフォンからメロディが流れてきた。「八真斗や」三殊はつぶやいて、電話に出た。会話は2分足らずで終わった。
「八真斗がネットでチケット確保したって。出発9時45分やって。9時頃までに向こうに着けばいいって事やから、えっと、ここは7時には出んといかんな。丈琉。ちゃっちゃと支度してな」
「支度が遅いのは、三殊やろ」
丈琉はまた、溜息をついた。コーヒーを飲み干し、カップを洗ってキッチンを出た。三殊は飲みかけのコーヒーをテーブルに置いて、丈琉を追いかけた。
「ねえ。お父さんに、おばあちゃんの事、言っといた方がいいかな」
「どうせ、あっちの家なんやろ。別にいいんと違うか」
“あっちの家”とは、父、
「でもな、そういう訳にもいかんやろ。私、おばあちゃんの具合が悪い事と、私たちが宮崎に行くことだけ、メールしとくな」
「任せた」
子供たちと父親の間には、大きな溝がある。最近は、用事がある時にしか話はしないし、ほとんどメールで済ませている。
(父さんの顔、最後に見たのって、いつやろ)
丈琉は階段をのぼりながら考えた。
(でもな、父さんが、俺ら避けるのも無理ないかもしれん。手が光るような“不思議3きょうだい”やもんな)
今は光っていない、自分の手を見つめた。
23年前の春。
3人のきょうだいは、同じ日に生まれた。三つ子だった。若林病院では数年に1度しかない、三生児の帝王切開。しかも院長の孫が生まれる。手術室は緊張した雰囲気に包まれていた。
景治は循環器内科の医師だった。出産には携われず、緊張するからと、手術室には入室しなかった。
手術は無事に終了。子供と対面した伊奈子は、目を輝かせた。3人の子供たちは、手に光を灯していたのだ。最初に生まれた女の子は青く丸い光。2番目の男の子は、胎児の様な形をした緑色の光。そして最後に出てきた男の子の手は赤く光っていた。
「この子ら、お伊勢さんのご加護を持っちょるんよ」
伊奈子は景治と二人で伊勢神宮に参拝した日に、授かった子供と信じていた。無邪気に喜ぶ母親とは対照的に、父親は恐怖にかられた表情をしていた。
(なぜ、手が光っている。なぜ、誰も何も言わないんや)
産婦人科の医師や助産師、手術に関わっていた者は、子供の手の光について何も言わない。
(見えていないんか?)
景治は子供たちに近寄ることすらできなかった。父親になった瞬間から、自分の子供に対して畏怖の念を抱くようになってしまった。
子供たちが7歳の、ある春の日曜日。手の光が力を示す出来事が起きた。
その日、伊奈子は朝から出かけることになっていた。玄関でハイヒールを履いていると、三殊が3階の子供部屋から走って降りてきた。
「行っちゃ、ダメ」
三殊は母親に抱きつき、叫んだ。伊奈子は困った顔をした。その時、三殊の手が青く光っていることに気が付いた。
「この光はなんもないんよ。三殊の事、守ってくれるもんや」
伊奈子は三殊の手を優しく撫でて言った。
「違うんや!」
三殊はとうとう泣き出した。丈琉と八真斗も部屋から降りて来た。景治もダイニングから顔を出した。この日は、珍しく家にいた。
「丈琉、八真斗。三殊の事、お願いね」
伊奈子は三殊の背中をポンポンと優しく叩き、急いで玄関を出た。三殊は後を追いかけるように、玄関に降りた。
「わがままを言っとるんやない!」
景治が怒鳴って、三殊に近寄った。丈琉と八真斗も三殊に駆け寄り、三殊を真中にして3人で並んだ。
「だって。お母さんにおっきな車がぶつかってくるんや。お母さん、死んじゃう」
三殊は切れ長の目で、景治を睨みつけた。子供とは思えない、強い瞳。景治は後ずさった。
さらに、景治は子供たちの手を見て、息を止めた。(光っとる……)3人の手が光っている。7年前、生まれた時と同じ光。恐怖で体が震えた。
「うるさい! うるさい!」
景治は叫びながら三殊に走り寄り、手を振り上げた。八真斗は三殊の肩を抱えた。その瞬間、緑の光に景治は弾かれた。
丈琉は景治の前に立ちはだかり、剣道の構えを取った。前に突き出された手から、赤い光が伸びていた。まるで赤い竹刀を持っているようだ。景治は言葉を発する事も、身体を動かす事もできなくなっていた。
その時、乱暴にチャイムが鳴り響き、同時に近所の女性が駈け込んで来た。
「大変や。奥さんが、そこの角でトラックにはねられたんや。すぐそこや」
伊奈子は助からなかった。
葬式の時、景治は子供たちに「近寄るな!」と、言い放った。3人は母親を失い、父親から拒絶された。葬式の間、子供達の感情はなくなっていた。ただ茫然とその場にいただけだった。葬式が終わり、弔問客が帰ったあと、3人は母親の遺影の前で座っていた。そこへ、母方の祖母がやって来た。母によく似ている。三殊は祖母の顔をじっと見つめた。
「お父さんがな、私らの手が光るのが、いかんて」
小さな声でそう言うと、祖母に抱きつき泣き出した。そして「お母さん、お母さん」と繰り返した。丈琉と八真斗も大声で泣き出した。
「おばちゃん、おるからな」
祖母は自分も涙をこぼしながら、きょうだいの背中を、かわるがわる撫で、そして優しくポンポンとしてくれた。いつも伊奈子がしてくれたように。子供たちが泣き止むまで、繰り返し、繰り返し。
その後、景治は多忙を理由に、住み込みの家政婦を雇った。山本
子供たちは瑞恵が大好きだった。しかし子供たちの大学進学で丈琉は大阪に、八真斗は京都に行くことになる。自宅には地元の大学に進学した三殊しか残らない。瑞恵自身も母親の介護をすることになり、若林家を辞めることになった。最後の日に、三殊と瑞恵は涙を流して別れた。
景治はほとんど自宅に帰って来なくなった。三殊も「その方が気が楽」と言って、気にしなかった。
7時5分。丈琉と三殊は鍵をかけ、玄関を出た。
「なんや、その荷物。相変わらず、でかいな。それじゃ、機内持ち込みができんぞ」
三殊はいつも使っている、マリークワントのリュックと、ビックサイズのトートバックを持ってきた。
「ダメやったら、預ければいいんやろ。向こうで一泊するかもしれんし、必要なもんしか入っとらん。そっちこそ、荷物そんだけか」
丈琉はスポーツブランドのボディバックだけだった。
「俺、日帰りのつもりやったから。警察学校って、外泊うるさいんや。まぁ、泊まることになっても、スマホさえあれば、なんとかなるやろ」
丈琉はジーパンの後ろポケットを叩いて、笑った。その後、顔を引きしめ、意を決したように助手席に乗り込んだ。
「おい。みぃ、煙草吸っとんのか。車ん中、匂っとる」
「いいやんか。私の車や」
「アホか! 煙草なんかいい事、一つもないで。俺、煙草大っ嫌いなんや。俺のおる所じゃ吸わんでくれよな。ああ、こんなに臭いと、酔ってしまうかもしれん」
「うるさいな。言われんでも、丈琉の前じゃ吸っとらんやろ。そんなに言うんなら、酔い止めあげるわ」
三殊はリュックの中から小さいポーチを、ポーチの中から酔い止めの薬を取り出した。そしてマイボトルと一緒に丈琉に手渡した。
「相変わらずみぃのバックは、ドラえ〇〇のポケットやな」
高速道路は渋滞もなく、順調に進んだ。しかし伊丹空港に着いた時、丈琉は疲弊していた。
(相変わらずや……よう、これで優良ドライバーやな。俺が警察官になったら、取り締まったる)
「丈琉。大丈夫? よれよれしとるけど」
三殊に聞かれ丈琉は「大丈夫」と、小さくうなずいて見せた。それを見た三殊は、まっすぐに歩けない丈琉をおいて、さっさと歩いて行った。丈琉はいつものように三殊の荷物を持たされ、ゆっくりと後を追いかけた。
三殊は北口に入り、エレベーターの脇で立ち止まった。キョロキョロとあたりを見渡した。八真斗は丈琉と同じくらい背が高く、人混みの中でも探すのには困らない。しかし、今日はなかなか見つからない。丈琉が三殊に追いついた時には、すでに八真斗に電話をかけていた。
「八真斗。どこにおるん? 私らもエレベーターの脇におるよ。えっ。南? 北とか南とかあるん? ああ、ここJALのマークが描いてあるわ。そんなん言わんかったやんか。ハイハイ。これから行くわ」
三殊は通話を終えると
「こっちやないって。北と南と、二つ入り口があるなんて、八真斗、言っとらんかった」
と言って、髪がなびくほどに勢いよく踵を返し、南ターミナルに向かった。
伊丹空港は航空会社によって、北ターミナルと南ターミナルに分かれている。宮崎行があるのはANAで、南ターミナルにあった。
「いつものように、三殊が聞き逃しただけやろ」
丈琉は溜息をついた。
南ターミナルでは、八真斗はすぐに見つかった。
「久しぶり。相変わらず、寝ぼけた顔しとるな」
話の途中で電話を切られたうえに、この三殊の第一声。八真斗はムッとした。
三殊は知らないが、八真斗のちょっとボーっとした表情は、女子の間ではかわいいと人気があるのだ。丈琉と八真斗は似ているようで、どことなく違う。八真斗の方が整った顔立ちをしている。丈琉は高校生の時「残念な八真斗君」と言われ、ショックを受けたことがあった。八真斗は丈琉と違い、服装にも気を使う。今日はダッフルコートの下にストライプのTシャツを着て、、カーキ色のスリムなチノパンを履いていた。そして黒い皮のボディバックを背負い、ショルダーバックを肩にかけていた。丈琉はダウンコートとセーター、ジーパンとスニーカーといった、いつも同じ格好だった。
「相変わらず、失礼な奴やな。寝ぼけているんと違うわ。ホンマに寝不足なんや。実習のレポート提出せんとやし、来週から試験なんや。目がしょぼしょぼして、コンタクトできんかった」
今日、八真斗は黒縁の眼鏡をかけていた。その眼鏡を少しずらして、目をこすった。
「それよか、タケ。顔色、悪いな」
八真斗は丈琉の顔を覗き込んだ。
「車酔いや。みぃの運転で、ここまで来たんや」
八真斗は「ご愁傷さま」と、小さい声で言った。八真斗も三殊の運転の被害を受けた事があるのだ。
入場手続きを済ませた3人は搭乗待合室に入った。フライトまでは少し時間がある。売店で朝食を買ってきた。丈琉はスポーツドリンクを飲んだだけだった。
「八真斗も、今日は予定がなくてよかったわ」
三殊はサンドウィッチを食べ終わり、コーヒーを飲みながら言った。八真斗は小さく溜息をついた。
「予定はあったんやけど、断ったんや。デート、ドタキャンや。すごいがっかりさせてしまったからな。宮崎でなんか土産、買っていかんとな」
「彼女、おるんや」
「ああ。男嫌いの三殊とは違うからな」
「男嫌いやないって。苦手なだけや」
三殊はプイっと横を向き、立ち上がってトイレに行ってしまった。
「あの、反応。相変わらずやな。まぁ、こんなに過保護で優しくて、剣道日本一の強い弟にがっちり守られていたら、他の男に興味もわかんかもな」
八真斗の言葉に、丈琉はスポーツドリンクでむせ込んだ。慌てて八真斗の顔を見た。八真斗は意味ありげに、ニヤッとした。
「ど、どういう意味や」
焦る丈琉に、八真斗は「別に」と言って、ペットボトルのお茶を飲み干した。
フライトは順調で、祖母の入院する病院には正午前に到着できた。
「やっぱ、宮崎って、あったかいな」
丈琉はダウンコートを脱いだ。
病院はこじんまりとしていた。病院の周りには桜の木が植えられている。
「春に来たら、きっときれいなんやろな」
三殊は木を見つめながらつぶやいた。
今日は外来は休みで、病院は閑散としていた。八真斗が受付で祖母の病室を確認し、病室の前に立った。
「個室やな」
八真斗が小さい声で言った。個室は状態の悪い患者さんが入ることが多い。丈琉と八真斗は一瞬戸惑ったが、三殊はためらいなくドアをノックした。中から50歳くらいの女性が出てきた。電話をくれた、伯母の伊都子だろうと、3人は思った。母によく似ている。
「お久しぶりです。あの、三重の三殊です」
三殊が挨拶をした。
「まぁ、まぁ。こげんに早く来てくれたんやね。おおきん。えっと、八真斗君と丈琉君よね……」
伊津子は2人の顔を交互に見つめた。
「あっ。俺が丈琉です。ご無沙汰しています」
丈琉が頭を下げた。
「あら、挨拶もせんでごめんなさいね。でも、3人とも本当に大きくなって」
伊津子は優しく微笑んだが、すぐに顔をくもらせた。
「今朝は早くからごめんなさいね。
お母さん、ガンって言われてもう3年かな。年も年だし、ある程度は覚悟しちょったんだけどね。でも最近食べらんなくなるし、熱が出たりして、1週間前に入院させてもらったと。でも、昨日からなんか具合悪そうになって。おしっこが出ないなって思っていたんじゃけど、夜中に急に意識がなくなって、血圧が下がったとか、酸素が測れんとかって大騒ぎになったと。
先生に延命治療とかどうするって聞かれたけど、それはいいって、断ったん。先生はなんもせんかったら、あと1日2日じゃろって」
伊津子は振り返って、部屋の中に目をやった。
「お母さん、三重の子に会いたい、会いたいってずっと言っちょった。みんなからの手紙とか、年賀状とか、全部取ってあるんよ。
でも、私もね、なかなか若林さんの家に電話かけられんくて。色々あったし。こんなになってから、電話してちゃ、遅かったわよね。もう、お母さん、お話もできん。本当にごめんなさい」
伊津子は口元を押さえて、うつむいた。その時、病室からか細い声が聞こえてきた。4人は一斉に部屋の中に視線を向けた。祖母が手を動かしている。伊津子はベッドに駆け寄り、3人もあとに続いた。
「お母さん。わかる? 三重の子が来てくれたと。3人一緒に」
祖母はうっすらと目を開けた。酸素マスクで口元は見えないが、微笑んでいるのがわかる。
「……三殊ちゃん。八真斗君。丈琉君。会いたかったよぉ。今まで、ほっといて、わりかったね」
一人一人の顔をゆっくりと見渡した。祖母の細い目から、涙がこぼれた。
「ううん。私たちこそ、ごめんなさい。こんなに大きくなっとるんやから、私たちが、おばあちゃんの所に来ればよかったん」
三殊はポロポロと涙を流した。丈琉と八真斗もベッドサイドにしゃがみ込み、祖母の手に触れた。
(ほっそいな。骨の形がわかるようや。こんなに小さかったっけな)
丈琉は顔を曇らせた。
「ばあちゃんな。心配じゃった。お父さんが、みんなをかわいがってくれちょるか。伊奈子の葬式ん時も、子供の手が光るとか言って、近寄りもせんかった。
でも、でも、こんなにいい子に育ててくれた。みんないい顔しちょる。いかった。いかった……」
祖母は満足そうに眼を閉じた。安らかな表情。4人は息を飲んで、顔を見合わせた。八真斗は祖母の一番近くにいた三殊の前に出た。祖母の脇にしゃがみ込み、祖母の手首に触れた。そして自分の顔を、祖母の顔に近づけた。
「大丈夫。脈はちゃんと打っとるし、呼吸もしとる」
(八真斗、かっこええな。ホントの医者みたいや)
丈琉はこのような時に不謹慎と自覚しながらも、そう思った。
「八真斗君。お医者さん?」
「いえ。まだ、学生です。今、医学部の5年生です」
伊津子は目を丸くしたまま、微笑んだ。
「すごいのね。立派な跡継ぎができて、景治さんも安心じゃね」
「いえ。あの病院は継がないっていうか、継げないと思います」
「継げない?」伊津子は首を傾げた。一瞬の沈黙の後、三殊が口を開いた。
「いえっ。まだ、わからんよね。えっと、私は大学院に通っとるんです」
「あっ。俺は警察官になろうと思っています。去年、大学を卒業して、今、津の警察学校に行っとるんです」
「まぁ、まぁ。3人とも立派になって。伊奈子もきっと喜んでるわ。お母さん、ずっとあなたたちの事、心配しちょったけど、大丈夫じゃったね。
ふふふ。我が家なら、絶対無理や。3人同時に大学に通わせるなんて。お金がもたないわ」
伊奈子が笑いながら言った。
(学費の事、言われると、痛いよな)
丈琉は苦笑した。
3人は寝ている祖母にも聞かせるように、近況の話をした。
「おばあちゃん。具合悪いのに、長居してしまって、ごめんなさい。でも、今日はおばあちゃんとお話できてよかったです。そろそろ帰りますね」
三殊は頭をさげた。
伊津子は外まで見送りに来てくれた。
「遠い所、本当にありがとね。今日は、どこか観光していく時間はあるの?」
「そうですね。せっかく来たことやし。どこかお勧めの観光スポットって、ありますか?」
三殊が尋ねると、伊津子は困った様な顔をした。
「若い人が喜ぶところは、あんまりないかな。宮崎神宮って知っている? 少し歩くけどね。近くだったら、すぐそこに江田神社があるけど。ホントにちっちゃい神社で、どって事ないかもしれん。あとは、そのそばにみそぎ池ってのがあるけどな」
「みそぎ池ですか?」
丈琉が聞き返した。
「そう。イザナギが
「スサノオ? スサノオって、ここで生まれたんですか?」
丈琉が反応した。
「言い伝えやけどね。丈琉君、神話とかに興味あるの?」
「いや、興味がある訳ではないんですけど……」
夢の中の男は、“スサノオ”と名乗っていた。それで思わず反応してしまった。丈琉が言葉を詰まらせていると、三殊が伊津子に話しかけた。
「今日は連絡くださって、ありがとうございました。おばあちゃんとお話もできて、良かったです。あっ、そうや」
三殊はリュックをおろし、中からメモ帳を取り出した。そして自分の携帯電話の番号を書き、伊津子に渡した。
「これ、私の番号です。何かあったら、いつでも電話ください」
伊津子はメモを受け取り、小さくうなずいた。
3人は結局近くの阿波岐原公園に行く事にした。そこは病院から歩いて数分だった。公園内にはベビーカーを押して散歩している若い女性、走り回っている子供達がいた。公園の案内図を見て、みそぎ池に向かった。鬱蒼と木々が茂っているが、歩道は舗装され整備されていた。漏れ日を浴びながら、3人はゆっくりと歩いた。
「八真斗。どうする? 今日、泊まっていく?」
三殊が八真斗に尋ねた。
「そやな。おばあちゃん、マジで今日か明日かもしれん。一泊しといた方がいいかもしれんな」
「えっ?」三殊と丈琉が同時に八真斗の顔を見た。
「だって、昨日から尿が出ていないって事やし、酸素吸入していても、手の指がチアノーゼっぽかったし」
「チアノーゼ?」
「爪の色が紫っぽかったやろ。あれや。うーん。簡単に言えば、酸素が不足しとるって事や。亡くなる前に、あんな風になることが多いんや。延命治療もせんっていうなら、もう……。よく、あんな状態で、会話ができたと思うわ」
「今日はここ泊まろ。すぐ、駆けつけられるし。俺も、こんな時なら、大丈夫やと思う」
丈琉の言葉に、三殊と八真斗も同意した。
しばらく黙々と歩き、それぞれに、思いを巡らしていた。
「おばあちゃん。お父さんが私らの事を育ててくれたって言っとたけど、全然違う! 私ら、瑞恵さんに育ててもらった」
突然、三殊が大きな声をあげて、立ち止まった。
「なんや。突然」
丈琉、それに続いて八真斗も立ち止まる。
「だって、おばあちゃん勘違いしとるし。それ思い出したら、なんか腹立ってきたんや」
三殊は2人の顔を見つめた。
「まぁ、確かにそれは事実やけど。俺ら、瑞恵さんのお陰で、まっとうに育ったって思うけどな。でも、ホンマの事なんて言えんやろ」
八真斗がぼそっと言った。
「そやけど。でも、八真斗やって、“病院は継げない”とか、余計な事言っとったやんか。伊津子おばちゃん、きょとんとしとった」
「はは。つい本音がな」
八真斗は苦笑いをしながら言った。3人は、再びゆっくりと歩き始めた。
「でも、あっちの子が医者になったら、向こうが病院継ぐんやろ」
丈琉が言った。あっちの子とは丈琉達の異母きょうだいの事だ。三殊は前髪をかき上げながら、思い出した様に話出した。
「でもな、あっちの子、今年も医学部の受験、厳しいらしいで。もう3浪やろ。大変みたいや。
そうそう、私の友達が、家の病院に勤めとるんやけどな。その子の話やと、病院の看護師さん達は、八真斗に病院継いでほしいらしいで。八真斗、かっこええから、人気あるんやって」
三殊は八真斗の反応を楽しむように、ニコッとして、見上げた。八真斗は返事もしなかった。三殊は正面に向き直り、まじめな顔つきになった。
「いっそのこと、お父さん、再婚すればええのに。お母さん亡くなっておるんやから、もう不倫でもないし。私らが反対するとでも、思っとるんやろか」
「それはわからんけど、八真斗があの病院継ぐ気がないんなら、そうしてくれた方が、いっそすっきりするよな」
丈琉は頭を掻きながら、言葉を続けた。
「話し、変わるけどな。さっき伊津子おばちゃんに、学費の事言われたやんか。俺な、微々たる給料やけど、自分で稼ぐようになって思ったんや。こうやって何の不自由なく学校に行かせてもらって、それってホントは感謝せんといかん事やなって。
それに父さんが俺ら避けるのも、仕方ない事かもしれん。手が光るなんて、ぶっちゃけ、ひいてしまうやろ。普通の人間の、普通の反応やと思う」
八真斗と三殊が顔を見合わせた。父親の事を一番嫌っているのは丈琉だったのだ。
木が途切れた所で、池らしき物が見えた。ハスの葉で、池は緑色に埋め尽くされていた。一見しただけでは、池とは気づきにくい。
緑色の池の周りには誰もいなかった。そこに音は存在していなかった。芝生の上をゆっくりと歩いた。
「すっごいマイナスイオンやな」
三殊が池を見ながらつぶやいた。
「でた。三殊のマイナスイオン」
八真斗が笑った。
「いや。でも、本当にここは空気も違う。ピーンって気が張っているっていうか、なんか神聖な感じがするわ」
丈琉は大きく息を吸い込んだ。すると丈琉は遠くを見つめ、意志がないように歩き出した。ゆっくりと池に近づいた。
「おい。タケ。そこ、入っちゃいかんって」
八真斗が立ち入り禁止の札を見つけ、声をかけた。しかし丈琉には聞こえていないようだ。
丈琉は池の間近まで来ると、ほとりに手をつき、水面をのぞき込んだ。そして氷の様に冷たく、透き通った水に手を入れた。
(池の中に、人がおる?)
丈琉ははっきりしない意識の中で、深い深い池の底に、人間が立っているのを確認した。
その人物が上を向いた。はっきりとした目鼻立ちで、中性的な顔をしている。髪は真黒なロングヘア。前髪も同じ長さで、オールバックにしてある。白い浴衣が、妙に色っぽかった。
(女か? でも足広げて立っておると、男みたいやし。それにしても息苦しくないんか。あれっ。あの人、手が光っとる。俺とおんなじ)
池の中の人物の手は赤く光っていた。丈琉は自分の手を目の前に持ってきた。その手もいつの間にか赤い光を灯していた。
「丈琉、どうしたん?」
三殊に突然声を掛けられ、丈琉ははっと我に返った。驚いて振り向くと、勢いづいてそのまま池の中に落ちてしまった。池は浅く、水の中にしりもちをついた。
(あれ。さっきはあんなに深かったのに)
池の中でも、まだぼんやりとしたままだった。
「きゃっ。私のバック」
三殊が叫んだ。
「心配するの、そっちか」
八真斗が丈琉の代わりに、正論を述べてくれた。
「だって、びしょびしょやんか」
三殊はやはり、バックの心配だった。
丈琉はゆっくりと我に返り、立ち上がった。そしてバックを肩からおろし、手を伸ばして三殊に差し出した。三殊も八真斗につかまりながら、手を伸ばした。その時、三殊が足を滑らせた。八真斗の腕をつかんだまま、池の中の丈琉の胸に飛び込んで行った。
3人で冷たい池の水を浴びた。その瞬間、八真斗の手が緑色に、三殊の手は青く光った。その2色は丈琉の赤い光と合わさり、真っ白な光に変化した。白い光は強く輝き、世界を真っ白に輝かせた。閃光は一瞬で消えた。景色が元の色を取り戻した時、みそぎ池には誰もいなくなっていた。
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