カイゾウ
にじさめ二八
第1話 相葉ハヤト
右腕がむず痒い。
俺が目覚まし時計よりも早く目を覚ました理由は、そんな小さな違和感だった。
自分の右腕を小さな虫が駆けまわるような奇妙な感じ。だけど、蚊に食われたとか蟻が這っているとか、そういうのとは違う。
違和感は、腕の中だった。
腕の中に流れる血液が血管をくすぐるような。中学生の時にやって来た成長痛のような。一生懸命痒みを抑えようとしても、あと一歩届かない。どうしようもないところからやって来る違和感。
変な体勢で寝てしまったのかな。それとも寝返りを打ったときに押しつぶしていたり、知らないうちにぶつけてしまっていたり。
腕を動かしても支障は全くなかった。屈伸、捻り、肩を回してグーチョキパー。握ればしっかりと力も入る。
じゃあ、なんで?
腕の違和感を除けば、頭はずいぶんとすっきりしている。良い目覚めだ。
ベッドから両足を下ろすと、カーテンの隙間から差し込んでくる朝日が、部屋の真ん中に一本の直線を描いていた。
陽光によって二分された俺の部屋。ベッドのあるこちら側には、背の低い本棚がある。テレビやコンポも置いてある。俺が好むもので満たされた世界だ。
だけど反対側には勉強机があり、先月に入学したばかりの高校の制服が壁に掛かっている。あまり好きではない世界のものだ。
俺は立ち上がって、好きではない世界に踏み込んだ。
紺色のスラックスに灰色のブレザー。そして最近やっと着け慣れてきた朱色のネクタイ。
いつからか俺は、このネクタイの結び目が喉元に届くとき、決意を固めるようになっていた。
“今日も、誰にも関わらなければいい。”
制服に着替え、部屋を出て階段を下りていくと、母さんが朝食の支度をしていた。
「おはよう」
俺の声が届くのと同時に、母さんは驚いたように肩を跳ねさせる。
「ハヤト!? …………ああ、おはよう。今日は早いのね」
そんな母さんは、その後の言葉もどことなく怯えているように言う。
「こ、こんなに早起きじゃあ、ツバキちゃんまだ来ないんじゃない?」
「いいよ。先に行くから」
「そう…………」
会話が終わった。
腫れ物に触るかのような母さんの言葉。さっき挨拶をした時に驚いたのも、突然声を掛けたからじゃない。
“俺が”声を掛けたからだ。
だが、それはもう今更気にするようなことではない。
仕方が無いじゃないか。だって母さんは、俺のことが怖いんだから。
お互い無言のまま時間が過ぎていく。すごく気まずかった。
「お父さんを起こしてくるわね」
そそくさと立ち去り、階段を上がっていく母さん。
俺がさっさと登校してしまえば、両親に気を遣わせることもないのは分かっている。だが、仮にそういう習慣をつけてしまったら、俺はますますこの家にいることが辛くなるし、父さんと母さんにも違う形で気を遣わせてしまいそうだ。
俺だって両親を避けたいわけじゃない。母さんをこれ以上怯えさせたくないし、父さんに変な気苦労も掛けたくない。
だけど、仕方がない。俺達はそういう家族なんだ。
程なくして、母さんと父さんが一緒に降りてきた。父さんを側に置いた母さんが、さっきと比べるとどことなく安心したような顔つきになっているのは気のせいじゃない。
「ハヤト、おはよう。早いな」
父さんの声は明るかった。
しかし、その笑顔の裏で張り詰める緊張を、俺はしっかりと感じている。
「うん。なんか、目が覚めちゃって」
「そっか…………それよりどうだ? 先週言った釣りの話。今度の日曜にでもさっそく行ってみないか?」
「うん。いいよ」
どうせ気まずくなるくせに、どうして俺は了承しちゃうんだろう。
昔から家族サービスが上手い人で、休みの日は母さんと一緒に過ごしたり、俺が小さい頃はよく一緒に公園なんかで遊んでくれたり。そういうのが趣味のような人だ。
だけど、父さんには釣りの趣味なんてない。釣りって言うのはいわゆるフェイクで、本当の理由を包み込むカモフラージュなのだと分かる。
父さんは「よし行こう!」と微笑んでいたけれど、その笑顔は少し強張っていた。
父親と息子で計画する休日の予定はぎこちなく、母さんが朝早くから作ってくれる食事の温かさはよそよそしく、テレビが映ることでようやく静寂が消える朝の食卓風景。
日常風景の中に妙な緊張感を内包したやりとり。それが、相葉家の日常。
こういう当たり前を毎朝やり過ごし、苦痛でしかない学校生活を毎日やり過ごし、唯一安らげる睡眠の時を毎晩やり過ごす。
俺の人生は、そうして消費されていく。
でも、俺はそれを望んでいるのだ。
それにしても、やっぱり右腕の違和感が気になる。
焼けた食パンにマーガリンを塗ろうとした時、気になっている右腕に目をやると、制服の袖から糸くずが垂れていることに気が付いた。
「あ、糸が……」
初めて着た時から安っぽい制服だとは思っていたが、もうほつれたのだろうか。
だめだ。引っ張っても切れない。さっきよりも長く伸びただけだ。
切らなくちゃ…………。
切らなくちゃ…………。
切らなくちゃ…………。
あっという間に額が汗まみれになった。
「隼人!?」
手の平にも大量の汗が滲んできた。
やっちゃった。頭の中に、あの鈍く光る鋭い金属を思い浮かべてしまったのだ。
落ち着かなくちゃ。頭では分かっているんだ。そんなに動揺することではない。落ち着け。
周囲を見渡すと、いろんなものが目に入った。
バターナイフ。台所の包丁。テレビのニュースでは時代劇映画を宣伝していて、侍が刀を振るっている。
ああ、やっぱりダメだ。それはダメだ。
切れない。切りたくない。刺しても駄目だ。
鋭い。光っている。危ない。血が出る。
駄目だ、怖い。
怖い。
「隼人! 母さんがやるから大丈夫よ!」
気が付くと、俺の制服の袖を引き寄せた母さんが、爪きりを使って糸くずをとってくれた。
心配そうに父さんもこちらを見ている。
「…………ごめん、ありがとう」
母さんは硬い笑顔を浮かべた。
これが俺、相葉ハヤトという人間。
片道二十分の距離を歩いて登校する。
今朝は早起きした分だけ早く家を出たから、普段とはすれ違わない人達を見た。ただ、同じ学校の生徒には会わなかった。部活の朝練がある生徒はもっと早くに登校しているのだろう。
このまま真っ直ぐ登校すれば、学校にはだいぶ早く着いてしまう。中途半端な時間だった。
例の右腕の違和感はいまだに消えなくて、少しだけ不安に思えてきた。変な病気とかだったら困るけれど、一応病院とかに行ったほうがいいのかな。
腕の違和感を拭い去りたくて、意味もなく腕を伸ばしたり曲げたり。それでもダメなら民家の塀を叩いてみたり、指でなぞってみたり。
なんだか、わけも分からないこの感じが非常にうっとうしく思えた。
「ハヤトォッ!」
突然聞こえた背後からの声に、俺は振り向いた。
よく知っている声だ。遠く、俺が歩いてきた方向から近づいてくるのは、幼馴染の刈谷ツバキだった。
「はぁ、はぁっ! おぉ! おはよっ! はぁ、はぁ…………な、なんで今日はそんなに早いのよ?」
「おはよ……」
赤と黒のチェック柄スカートに灰色のブレザー。俺と同じ
「まだ五月なのにね? あっつぅー!」
「そんなの、お前が走ってくるか、ら…………」
なんだかシャツの中が見えそうだということに気が付いて、俺は視線を逸らした。あまり発育していないせいなのか、僅かな隙間でも下着の全様が見えそうで危ない。
「ああ! ちょっと待ってよ!」
ツバキはすぐに歩き出し、俺の隣に並んだところで歩調を合わせる。
少しだけウェーブの掛かったショートヘアーの下にタオルを潜り込ませ、ツバキは汗を拭った。
「ハヤトのせいで汗かいたー」
「何で朝から走ってるんだよ?」
「そりゃあ、ハヤトに追いつくためじゃん」
こいつ、また俺の家に寄ったのか。
高校に入学してから、ツバキは俺が学校を休まないようにと毎朝家にやって来るようになった。
とは言え、そうなってしまった原因は俺にある。それは、入学式を含む最初の数日間、俺が学校を休んだから。
しかも病欠ではない。自主的に休んだ。俺としては一応理由があって休んだつもりだが、ツバキはそれを良く思っていないのだろう。
「ハヤトって部活には所属してないでしょ? なんでこんな早くに登校してるの?」
「別に。たまたま」
「何それ?」
「だから何でもないって」
俺はこの先の会話を続けるつもりがない。
登校時間が早いのはお互い様だと言いたいが、そんな言葉を返していたらもっと会話は続くだろう。ツバキのことだから、たぶん「ハヤトが先に行くからでしょ!」と返すのは目に見えている。
本来であれば、そうやって人とのコミュニケーションってものは営まれるんだろうけれど。
だけど、俺はそれを望んでいない。
俺は人との関わりを持たないように意識している。ネクタイを締める時にも誓っていることだ。
特に学校での友人関係は作らない。
いや、違う。
作らないんじゃなくて、作れない。作っちゃいけないんだ。
一ヶ月前の入学式。俺は学校を休んだ。俺が学校に行きたくないと言うと、両親は一言二言だけ理由を聞いてから休ませてくれた。
三日間休み、四日目に初めて登校すると、教室の中では既にいくつかの仲良しグループが出来ていて、俺が入り込む余地はなかった。
うまくいったと思った。
それから今までの一ヶ月間。休み時間はずっと一人で過ごし、部活動には一切興味を示さなかった。授業でのグループ行動などでは最低限の協力をして、当たり障りの無い人間として過ごしてきた。
結果、俺は学校の中で誰とも付き合わないが、誰とも仲が悪くない。俺以外の生徒が見る世界の中で、俺という人間はただの背景でしかない。
本当にうまくいったと思う。
親しい人間を作ってはいけない。誰かと親しくなってはいけない。俺にはそんな資格など無いのだから。毎朝の誓いは、今のところ順調に守られている。
ただ、ツバキだけはどうにも厄介で、同じクラスにはならなかったものの休み時間には顔を見せにきていた。
ツバキは“あのこと”を知っているから。だから俺のことを気遣ってこんなにも接近してくるんだ。
でも、だからこそと思う。
ツバキは、俺がどうしてこんな風に振る舞うのかを知っているはずだ。それなのにしつこく構ってくるのだ。
「ねえハヤト」
俺は歩き続けた。
「最近は毎日学校に来てるじゃん」
「ツバキが家まで来るからだろ」
「そうだよ。あたしはハヤトが心配だから…………ねえ、ハヤト?」
やっぱりだ。こいつは俺のことを知っているくせに、俺の気持ちを知っているくせに、そういうことを言うんだ。
「そろそろ元気出そうよ」
俺は無視をした。
「あたし、前みたいなハヤトがいいよ」
俺は無視をした。
「強くならなくちゃ……ね?」
俺は無視を…………出来るか? 今の言葉を無視できるか?
こいつは、本当に俺のことを知っているのか? 俺がどんな思いでこうやって生きているのか、本当に分かっていないのか?
強くなろうとしてるよ。そうさ、お前が言うみたいに強くなろうとしてるんだよ。
だから一人でも生きられるようにしているんじゃないか。過去の出来事を教訓として、俺は今、一人で強く生きようとしているんじゃないか。
だから親しい人間関係を避けているんだよ。
だから楽しい部活動なんか入らないんだよ。
だから優しいツバキにも素っ気ないんだよ。
分かった風な口をきくな。ふざけるな。
ツバキ、お前。
「お前さぁ! ――――」
「ハ、ハヤト?」
「――――あのさ」
「何?」
「リボン……つけろよ。先生に注意されるぞ」
言えないのは何故か。それは、朝の誓いがあるからだ。
俺の言葉を聞いて、彼女ははだけた胸元に視線を落としてから、慌ててワイシャツを手繰り寄せた。色白な頬がほんのり赤く染まる。
「ハヤトのエロ」
「あっそ。制服の乱れは校則違反だろ」
さっきまで横に並んでいたツバキは、胸を見られないようにと俺の前を歩くようになった。だったらきちんとリボンぐらい着ければいいのに。
もうすぐで学校に到着する。校舎に入ってしまえばツバキもそうそう絡んでくることはなくなるので、静かな時間がやってくる。
毎朝ネクタイを締める時に誓う言葉を思い出し、俺は今日という一日を過ごしていく。
そう、いつもと変わらない一日が始まる。
いつもと違うことを挙げるとすれば、今朝は登校時刻がいつもより早いことと、
「ん? どうしたのハヤト? 右腕が落ち着かないみたい」
「…………なんでもないよ」
やはり右腕の違和感だった。
学校に着き、下駄箱で上履きに履き替えた俺は、手を振り去っていくツバキを見た。
いつも、彼女に対して思うことがある。
「じゃあハヤト! あたし部室に寄って行くから!」
あいつ、俺と登校なんかしていないで朝練に出ればいいのに。
中学時代のツバキは、陸上部でもけっこう良い成績を残していた。県大会出場は当たり前。関東大会でも上位の成績を出し、表彰されたことだってある。高校を選ぶ時だって、いくつかの学校から推薦をもらっていたはずだ。
だけど、そんなツバキは俺と同じ学校を選んで、一般入試を受けた。そんなに勉強が出来るわけでもないのに、引退を待たずに部活を止めて勉強をしていたっけ。今では親元を離れて、学生寮に入っている。
たまに思う。ツバキに素っ気無い態度を取る自分が、とんでもなく悪い人間である、と。
でも、それも仕方がない。
だって俺は、もっと前から“罪深い人間”なんだから。
階段を上がって教室を目指す途中、校舎の中でも誰かとすれ違うことは無かった。朝練中であると思われる吹奏楽部の演奏が、どこか遠くのほうから聞こえてくる程度。それ以外の音は何一つ聞こえない。
階段を上がりきって廊下を歩いていると、一年D組の教室が近づいてきた。
D組は一応俺の所属するクラスだが、正直なところ、俺なんてただ居るだけの存在だ。所属しているなんて思ったことはない。
そもそもが高校に入るつもりもなかったのだが、両親の嘆願によって何とか高校だけは卒業することを約束してしまった。
だから仕方なく、今日も俺は一年D組の教室へとやって来ている。
D組の手前の教室、C組を通り過ぎようとした時、物音が聞こえた。
朝練を終えた生徒が戻ってきているのだろう。そんな当たり前のことにいちいち反応することもないのだが、今日だけはどうにも見過ごせなかった。
なぜなら、その物音を立てた人物は、C組のツバキの席で何かをしていたからだ。
ツバキは部室に行くと言っていたから、まだ教室には顔を出していないのだろう。そんなツバキの席の傍らに屈んで、机の中に手を突っ込んでいる男子生徒がいたのだ。
ちょっと気になった俺は、息をひそめながら男子生徒の様子を窺った。もしかして悪戯でもしているのかな。それとも、まさか今時ラブレターを仕込んでいるとか。
確かにツバキはモテるから。中学の時も、男子に告白されたと言っていたことが何度かあるし、明るい性格や端正な顔立ちが魅力的に見えると言われれば、否定はしない。ただ、ツバキは今まで一度もオーケーの返事をしたことがないけれど。
とにかく、ラブレターという可能性は捨て切れなくもない。
だけど、誰もいない教室の中、女子生徒の席で何やらごそごそしているというのはちょっと気味悪くさえ思う。
何をしているんだろう? 俺は男子生徒の動きから目が離せなかった。ここからだと後頭部しか見えなくて、顔が確認できない。
その時だ。
背後からいきなり視線を感じて、俺は素早く振り向いた。
そこにいたのは、一人の女子生徒だった。
九木戸高校の制服をツバキよりもきちんとした状態で着こなした少女。指定の黒ハイソックスだって、彼女の華奢な足にぴったりだ。
ちょっと吊り上った目は俺に向けられたまま。訝し気な視線がちょっと怖かったが、薄い唇と小さな鼻を備えた小顔がやけに綺麗で、胸を高鳴らせる。
彼女もC組の生徒だろうか。
一つだけ、彼女の身なりで気になる点があった。
ポニーテールにしたセミロングの黒髪とは対照的な、真っ白いロングマフラーを首に巻いていたのだ。
今は五月の半ばだぞ? 季節外れにも程があるんじゃないだろうか。
「あの、C組の誰かに用があるの?」
彼女の声が廊下に響く。
その瞬間、ツバキの机の側にいた男子生徒も、こちらの気配に気が付いたらしい。慌てて動く音がした。
すぐにそちらを見ると、彼はツバキの机から離れ、もう一つの出入り口から教室を出て行った。結局顔は確認できなかった。
「いや、あの…………」
何か答えなくちゃ。そう思いながら、もう一度少女の方を見やった。
彼女は、C組を飛び出していった男子生徒にも視線を向けていたが、彼が見えなくなると再び俺を見た。
「な、なんでもないよ」
俺はD組に入って自分の席に座った。
黒板が掛かった壁一枚向こうに、さっきの女子生徒がいるのだろうか。まさかD組までやってきて追及はしてこないだろうな。
耳を澄ませながら、俺は机の上に上半身を突っ伏して、眠くもないのに目を閉じた。
そのまま何事もないまま時間が経っていき、次第に廊下のほうから話し声や足音が聞こえ始める。
俺がいる教室にも生徒が集まり始めたが、寝ている俺に声を掛ける奴はいなかった。
ホームルームが終わって、一時限目、二時限目と授業が終わっても、右腕の違和感は鎮まらなかった。それどころか、朝起きた時よりも若干違和感が大きくなったようで、それがまた俺の神経を逆撫でする。
違和感を紛らわせるため、授業中もしきりに右腕をもぞもぞとさせていた。ペン回しや落書き、抓ったり握ったり揉んでみたり。
そんな俺が鬱陶しかったのか、隣の席の女子が「どうかした?」と声まで掛けてきたくらいだ。
なんだ、この妙な感じは? 俺の右腕は一体どうしたっていうんだ?
昼休みになると、俺は教室を出て食堂へと向かった。
いつも昼飯は、食堂で食べたり購買でパンを買ったりなど、日によって不規則に変えている。
そして食べる場所も毎日変えるようにしている。教室にいると、時々ツバキが昼飯を一緒に食べようとやって来るからだ。それがやけに目立つし、俺は一緒に食べたくなんてない。
だからかっこ悪いかも知れないけれど、俺はツバキから逃げるという意味も込めて、昼休みを工夫して過ごしている。
今日は学食でも大丈夫だと思った。教室を出たとき、ツバキが同じクラスの女子と弁当を囲んでいる姿が見えたから。
食堂にたどり着いた俺は、学食のおばちゃんにお金を渡してうどんのセットメニューを受け取り、なるべく端っこの席に着いた。
さっさと食べ終えて、教室で眠ろう。腹が膨れれば眠気もやってくるし、寝てしまえば腕の不快感も気にならなくなるだろう。
そんなことを思いながら割り箸を割ると、誰かが俺の目の前にカレーセットを置いて、向かい合う形で席に着いた。
ちらりと見ると、相手は俺と同じクラスの…………名前が思い出せない。でも、けっこう明るい性格の男子生徒だ。確かサッカー部だったっけ?
「よっ! ここいい?」
なんだいきなり? 確かにこいつとは同じクラスだけれど、俺は一度も喋ったことがない。
しかも挨拶が「よっ!」って。俺はお前の友達じゃないし、お前の名前も知らないのに。まあ、たぶん向こうは俺の名前くらい知っているのだろう。
「どうぞ」
小声で、表情を見せないままそう言うと、俺はすぐにうどんを啜り始める。
目の前の同級生は「おう!」なんて言いながら、スプーンを持ってカレーを食べ始めた。
しばらく無言で食べ続けながら相手の様子を窺ってみると、なんだかチラチラと俺のほうに視線を向けて、時折スプーンを動かす手を止めては、また食べ始めたり。
一体なんなんだろう? 俺に用があるのは間違いないみたいだけど。
話しかけるタイミングを計っているのかな。
「あのさ!」
と、思っていたらいきなり話しかけてきた。こいつ、タイミングを見誤ってるよ。
「な、なに?」
うどんでむせながら、俺は訊いた。
「聞いた話なんだけど、相葉って中学時代に陸上部だったんだってな!」
俺は無言で頷いた。
「…………でさ、そう! お前が陸上部だったって聞いたんだよ」
「だ、だからなに?」
「だからって言うか、まあ、言いたいことは分かっちゃったかもしれないけどさ」
「分かんないな」
「その…………どうかな! 陸上部入んね!? なんか先輩にさ、足速い奴誘って来いとか言われちゃっててさぁ」
サッカー部だと思っていたクラスメイトは、実は陸上部だった。その事実が、俺の中で激しい抵抗へと変わっていく。
ダメだ。陸上部なんて絶対にだめだ。
「なあ、どうかな?」
彼は朗らかに微笑んでいた。
その笑みが、俺にはひどく恐ろしいものに見えた。
「ごめん、それは出来ない」
「どうして?」
「もう陸上はやめたんだ」
「そんなぁ。でも、まだ部活決めてないんだろ?」
「入るつもりないから」
「えー、そうなの? 放課後は遊びたいってこと? それともバイト?」
「…………さあ、どうかな」
我ながらアドリブが下手だなと思う。もっともらしい理由でも並べて、この場をやりきってしまえばよかったのに。
律儀で正直で、でも中途半端な答えが、彼の勧誘を更にしつこくさせた。
「なあ頼むよぉ! 見学だけでも! なっ!」
「無理だって」
俺は昼飯を急いで食べ終えようと、箸を動かした。右腕の違和感は相変わらずで、箸を動かす度にストレスが溜まっていく。
それでも急いで食べ終えると、俺は早々に立ち去ろうとテーブルに手をついた。ここでも違和感が俺を苛立たせる。
なんなんだよ、さっきから。
「ちょっと待ってくれって! 頼むよぉ!」
テーブルについた俺の右腕を、クラスメイトが突然掴んできた。
その瞬間、俺は右腕を勢いよく振って、彼の手を強引に引きはがした。
そしてこの一言だ。
「触るなよ!」
食堂内で、いくつかの視線が俺に向いていることが分かった。
「…………あ、えっと」
たぶん、右腕の違和感でイラついていたこともあったのだと思う。ちょっと悪いことをしたと今更ながらに反省もする。
でも、こいつだって悪いじゃないか。俺は何度もはっきりと断っただろう?
「ごめん」
先に謝ったのは、俺のほうだった。
だが、周りの生徒は無言のまま俺を見て、口をぽかんと開けている。
何を思っているのだろう? 俺のことを嫌な奴だと思っただろうか。でも、無理に部活勧誘をしてきたのはこいつだ。
そもそも、俺自身がどう思われようと知ったことじゃない。どうせ親しい人間なんか作るつもりもなかったんだ。
嫌われれば逆に都合が良い。
そう、何度も自分に言い聞かせて、俺は食器を持ってその場を後にした。
なんだか少しだけ、顔が熱い。
放課後になり、俺は帰り支度を始めた。
教室の中から時折向けられるいくつかの視線。たぶん、食堂での一件が知れ渡っているのだと思う。
あのクラスメイトは、俺のことを悪く言ったのかな。食堂で別れて以来、あいつのことを見ないようにしているから、その判断は出来ないけれど。
でも、俺は昼休み以降からずっとあのことが気になってしまった。
嫌われたって構わないと、そう思っているはずなのに。彼に謝りたくて仕方が無いという気持ちもある。
…………いや、違うか。嫌われても構わないなんて、そんなことあるわけないだろう。
ただ、想像してしまったんだ。
話しかけられて、同じ陸上部に入ったとして。
仲良くなったら、“またあの時みたいなこと”を繰り返してしまうんじゃないかって。
それが怖いんだ。
「ハヤトォ!」
鞄を持って教室を出ようとした瞬間、入り口からツバキの声がした。
「一緒に帰ろぉー」
「部活は?」
ため息と一緒にそんな言葉を吐き出すと、ツバキはにんまりと笑って「さぼりぃー」と答えた。
こいつ、入部して間もないのにさぼるだなんて、嘗めてるのか? 中学時代はそんなこと無かったのに。
そう言えば、食堂で勧誘してきたあいつも陸上部だったよな。あいつが聞いているかも知れないのに堂々とさぼり宣言をするツバキの神経は、よほど太いのだろう。それとも同じ部活に所属する奴の顔を覚えきれていないのか。
クラスメイトの視線が気になった俺は、早足で教室を出て行った。食堂での一件に対する視線もあっただろうけれど、それとは違う理由でも見られていた気がする。
ツバキ、知っているか? 誰とも絡まない俺だけど、噂話くらいは耳にするんだぞ?
「ちょっと! 歩くの速いよ! 並んで歩くの疲れちゃうじゃん!」
「じゃあ並ばなければいいだろ?」
「なんでぇ!?」
お前と“恋人同士”だなんて噂されているのが困るんだ。
小走りのツバキを無視しながら、下駄箱で靴を履き替える。そして彼女が靴を履き替えている間に、俺はそそくさと玄関を出て、校門へと向かった。
あと十数メートルで校門を出るというところまできた時、石塀の影から何かが風に揺られて靡いているのが見えた。
あれは、白いマフラー?
十数メートルの距離はあっという間に縮まり、俺は学校の敷地から一歩外へと踏み出した。それと同時に横を見やると、風に揺れていた白いマフラーの持ち主と目が合ってしまった。
「あ」
二人の声が重なった。
季節外れのマフラーを首に巻いた少女は、間違いなく今朝、C組の前で出会った彼女だ。
俺と女子生徒は、お互いの目を見つめあったまま動けないでいた。
「あなた、今朝…………」
今朝顔を合わせたからと言って、話すことも特にないだろう。そのまま返事をしないで立っていると、後ろから駆け足の音が聞こえてきた。
「ハヤト待てっつーの! なんでそんなに置いていこうとするのよ!?」
俺がツバキの方を見るのと同時に、マフラーの彼女もツバキを見る。
ツバキは二人から同時に視線を向けられたので、困惑した様子で足を止めた。
「あ、あれ? え? ど、どしたの?」
ツバキが俺にゆっくりと近づいてくると、マフラーの彼女はツバキをゆっくりと目で追っていた。
ちょっと吊り上って見える鋭い目は、何かに驚いているかのようだった。
その理由は大方、他の奴らと同じように思っているからだろう。だからツバキとの変な噂が立つと、余計な誤解が生まれるんだ。
「ハヤト?」
俺はその場を無言で離れた。ついて来るツバキを見ることもしないまま、ただ黙って帰り道を歩く。
「ねえねえ、ハヤトって氷室さんと知り合いだったの?」
追いついてきたツバキがそう言った。
「氷室さん? って、さっきの?」
「うん。知らないってことは、知り合いじゃないんだ。何かあった?」
あの子、氷室っていうんだ。
まあ、俺には関係のないことだし、深く突っ込んで訊いても仕方がない。
「別に。目が合っただけ」
「でも、あたしのことじっと見てたよ?」
「知らないよ」
そう言って会話を終わらせようとはしたけれど、やっぱりどうしても気になることが一つある。
なんだか、ものすごく負けた気分になるので嫌だけれど。
「あ、あのさ」
「ん? なぁに?」
毎朝誓いを立てているから、自分から話しかけるということがひどく屈辱的だ。
「さっきの氷室さんって、なんでこんな時期でもマフラー巻いてるの?」
俺がそう言うと、ツバキはしばらく目を点にした表情を浮かべていたが、それを徐々に嬉しそうな笑みへと変えていった。
なんだよ、こいつ。
「ハヤト、気になるの?」
「別にそういうんじゃないよ! ただ…………暑そうだな、と」
「そうじゃなくって、珍しく他人に興味を持ってるんだなぁって」
もうやめた。こいつに訊くんじゃなかった。
俺は歩く歩幅を大きくしてツバキを置いていこうとする。すると、彼女がまた小走りになって、肩を並べてきた。
「ごめんってばぁ!」
「知らなくても困らないから、別に言わなくていいよ」
「怒んないでって! 教えるからさ」
無反応を貫く俺の隣で、ツバキが話し始めた。
「まあ、教えるって言っても、あたしだって名前ぐらいしか知らないから。マフラーをしてる理由もさっぱりだけど」
「…………寒がりなのか?」
「んー、どうなんだろう? でも、授業中だろうとずっと着けてるよ。最初は先生に外すように言われてたけど、頑なに外そうとしなかったから、だんだん誰も何も言わなくなったんだ。体育の時は長いマフラーだと引きずったり踏んづけたりで邪魔になるから、ネックウォーマーに付け替えてるけど」
「付け替えてる? じゃあ、外したりもするんだ」
「着替える時以外はずっと着けてるけどね。最初は、もしかしたら見せられないナニカとか、たとえば怪我の痕とか? そういうのがあるのかと思ったんだけど、着替えの時にちらっと見た感じではそういうのも無かったし…………ファッション?」
だったら、もっと季節にあったオシャレでも良さそうだけれど。
何か特別な思い入れのあるマフラーとか、そういうことだろうか。でも、それじゃあネックウォーマーは要らないじゃないか。
「名前は?」
「え? だから氷室さんだって言ったでしょ」
「違うよ。下の名前」
そう訊くと、ツバキが突然唇を尖らせて不機嫌そうにした。
「今度はなんだよ?」
「ハヤト、氷室さんが気になるんだ」
はぁ? こいつ、何訳の分からないことを言っているんだ?
自分から教えるって言い出したくせに、そんなこと言って今更はぐらかすつもりか。
「じゃあ別にいいよ」
「あーもう! すぐそーやって膨れる!」
それはツバキのほうじゃないか。
「氷室アミさん。分かった?」
氷室アミ。それがマフラーの彼女の名前か。
「やっぱりハヤト!」
「だから違うって」
訳もわからないままツバキに睨まれてしまった。
しかしその後すぐに、ツバキは急に表情を変えて、歯を見せて笑い始めた。
「でも良かったぁ。ハヤトとこうして普通の会話をするのって、久しぶりじゃない?」
それを嬉しく思っての笑顔なのか。ツバキの見せた笑顔は、なんだかいつもよりずっと綺麗に見えた。
「別に、俺は今までずっと黙ってたわけじゃないだろう? ツバキが何か言えば、ちゃんと返事してたじゃん」
「ただ適当に“うん”とか“ああ”とか“別に”とかって言う返事じゃなくてだよ。ハヤトが普通に質問してきて、あたしが教えてあげて…………ほら、いつも一緒に登校してるし下校だってしてるのに、あんまり話してくれないじゃん」
「登校はツバキが勝手についてくるだけだ。それに下校を一緒にしてるってのはどうなんだろうな。部活、さぼり続ける気か?」
それを言うと、いきなりツバキは言葉を詰まらせた。視線も足元へ落としている。
「まあ、いろいろと。へへへっ…………気にしてくれてありがとう。大丈夫だよ…………ねえハヤト」
「何?」
「今日はハヤトがいっぱい気にしてくれてよかった」
俺もこんなに喋ったのは、随分と久しぶりな気がする。明日からは気を付けよう。
その後、俺はツバキと別れるまで一言も言葉を発しなかった。
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