2-7 あの男との因縁――屈辱の黒星

 携帯電話を操作して、信司の電話番号を呼び出すと通話ボタンを押す。

 コール音が鼓膜を震わせる間、照子は胸を高鳴らせながら相手が電話を取るのを待っていた。


『もしもしー?』

 ややあって相手が電話に出た。あまりにものんびりとした若い男の声に照子は思わず笑みが漏れた。


「こんばんは信司くん。他戸照子です」

『照子……? あぁ、てりこさんかー。こんばんは』

 信司は少しだけ考えてから照子のことに思いあたったようだ。どうやら彼には、ニックネームの方が定着しているらしい。


「そうそう、てりこです。ちょっとお願いしたいことがあって」

『早速ファイトの続きの話とか?』

「あー、似たような話かなぁ」


 格闘大会に誘うのだからファイトの話であることに違いはないと照子は都合よく考えてあいまいに肯定した。


『じゃあ次の日曜日にでも――』

「明日っ、明日にしてほしいのよ」

 信司をさえぎって照子が言う。日曜日に話をしたのでは間に合わない。

『明日? また急な話だね。まぁいいや。じゃあ、まいかた公園に行けばいいのかな』


 仕事が終わってからの時間に信司と待ち合わせることにした。

 電話を切って机の上に置きながら、今度こそはパートナーをゲットしなければと拳を握る照子であった。




 木曜日の夕方、照子はまいかた公園へとバイクを走らせていた。


 信司を説得できなければ他に極めし者の友人知人がいないので、パートナーは闘気を持たない者となる。いやそもそも、闇大会に出場してほしいと持ちかけられる相手の候補すらなくなってくる。

 何が何でも信司を説き伏せねば、と意気込む照子は、まいかた公園の駐輪場にバイクを進めた。


 平日の日暮れの駐輪場に残る数少ない人達も、もう皆帰り支度だ。

 そんな中、停めたバイクの傍らに立って辺りを見回している信司の姿を見つけた。

 彼のそばにバイクを停めて降りる。


 ふと気付けば、信司のバイクが新しくなっている。あの、中古でいかにも寿命だろうと心配していたママさんスクーターではなく、その前に乗っていたものと似た四〇〇ccのバイクだ。


「こんにちは、てりこさん」

「こんにちは。バイク新調したんだね」

 指摘すると信司は軽快に笑った。

「そうそういつまでもあのオンボロには乗ってないよ」

「でもどうせすぐにぶつけて壊すんでしょ……」


 思わず小声でぼそりとやると、信司の笑みに苦いものがまじった。あながち間違ってはいない指摘なのだろう。

「まぁまぁ、バイクのことは置いといて。ファイトするんだろう? 完全に暗くなる前に始めたほうがいいよ」

 話題をそらせようとしているのがありありと判る申し出だ。


「あー、そのことなんだけど。実は、今日試合するって話じゃなくて、頼みたいことがあるのよ」

 すっかり試合をするつもりできたのだろう。信司は拍子抜けだというように右肩をガクリと落としてしまう。


「ごめんね。でも信司くんにとっても興味深い話だと思うんだ」

「というと?」

「これなんだけど」

 照子は例の招待状を信司に手渡した。


「格闘大会の招待状。信司くんならそういう大会に興味があるかなと思って」

 信司はふぅんと相槌をうって紙の文字を目で追っている。やがて顔を上げて、照子と手紙を交互に見比べた。


 やはり海千山千であろう信司は、それが闇大会の可能性が高いとすぐに察したのだろう。

 さあ、ここからが勝負だ。一気に信司を口説き落とさねばならない。


「信司くん、強い相手と闘いたいってタイプかなぁと思ったんだよ。この大会、極めし者がたくさん集まってくるはずなの。あんまり大きな声では言えないけど、とある極めし者のプロレスラーも出るし。それにね、えーっと」

 最初は勢い込んでアピールしていたが次第に失速してくる。


 そんな照子に信司は微苦笑を浮かべてうなずいた。

「まぁ元々修行中の身だし、一緒に出てって言うなら出てもいいよ」

「え? ほんと? ……あ、あはは。よかったー。いざ口説こうと思うと考えていた言葉も出てこないものなのね」


 思っていたよりもあっさりと承諾がもらえた。今度は照子が拍子抜けに思わず肩をガクリと落とす番だ。


「テンパっちゃったわけだ。でもそこまでして出たいなんて何かあるの? てりこさんだってこれが闇大会だということは気付いているんだよね?」

「そうなのよ! 実はずっと捜している男がいるんだけど、その男がこれに関わってるらしいのよ」


 信司が話の核心に触れてきたので、思わず照子は彼の手を取って、ずいとせまった。


「主催者ってこと?」

「うーん。よく判らない。そもそも本当に関わっているかも判らないんだけど」

「そこまでして闘いたい男なんだ。そんなに強いの?」

「強かったし、屈辱だったのよ!」


 四年前の、あの男との邂逅を思い出して照子は熱く語りだした。




 その日も春であった。暖かな日差しが心地よい午後、照子は大学の行事による休日出勤の帰り道で「まいかた公園」のそばを通りかかった。


 数年間通っている空手道場の師範から闘気の扱いを学び、ようやく極めし者として一人前と認められたばかりの照子は、同じ極めし者と闘ってみたくて仕方がなかった。


 まだその頃には、まいかた公園で格闘大会は開催されておらず、極めし者の認知度もさらに低かったので、対戦相手は自力で探すしかない状況だった。

 もちろん師範は極めし者なので手合わせができたが、照子は違う相手とも闘ってみたいと常々思っていた。

 師範に誰か相手を紹介してほしいと頼んでみたが、もう少し腕を上げてからと却下されてばかり。


 なので照子は余暇に公園などを訪れる機会があれば、そこに極めし者がいないかどうかを探していた。

 その日も公園にバイクを停めて辺りをうろうろとしたのだった。


 照子は察した。木陰で休む、その男から一瞬発せられた闘気を。


 木の根元に座っている男の体を包むのは、この季節に見ると暑苦しさを覚える黒のシャツとズボン。短く刈りそろえた髪は明るい茶色。


 近づいてみると、彼は休んでいるのではなくなにやら書類を読んでいるようであった。

 強面とも言える顔の眉間に深いしわを刻ませて、手にしている紙を凝視している。


 闘気の放出は感じられず、勘違いだったのかと疑問に思ったが、照子は自分の直感を信じて男に話しかけた。

「あの、すみません。もしかして極めし者……、ではないですか?」


 照子の声に男は少し厳しい表情そのままに照子に視線を向けてくる。間近で顔を見るに、恐らく照子よりは少し年上――二十代後半ほどと思われる。


「あ? なんだおまえ?」

「わたし、他戸照子といいます。極めし者と勝負してみたくて。違ってたらごめんなさい」

「ほぅ? というとおまえも極めし者か」

「ええ、一応は」


 照子の応えに男は唇の端を吊り上げて笑った。

「俺の一瞬の気を察するなんて、期待できそうだな。いいだろう、やろうぜ」

 男は書類を脇に置いてあった鞄にしまって立ち上がる。


 身長は百八十台半ばだろうか。かなり背が高くて照子は驚いた。

 照子の様子を気に留めるそぶりも見せず、男は数メートルほど場所を移動した。


「この辺でいいだろう」

 男が闘気を解放する。彼の体をうっすらと包むのは紫色の闘気。つまり彼の属性は「雷」だ。


 超技に長けた属性か、と照子は師匠から教わった知識を元に男の闘い方を頭の中でシミュレートする。


「さぁ、かかってきな」

 男の声に照子も闘気の解放を強め、白熱色の闘気に包まれた体を一気に男に接近させる。


 空手の型にのっとった正拳突きと蹴りを幾度か繰り出したが男にはかすりもしない。まるで攻撃を出す瞬間に心を読み取られているかのようなタイミングでかわされる。


 よし、こうなったら闘気の塊をぶつけてやる、と気を練り拳に集中させる。

 だが照子がその拳を振り上げた時には、もう男の姿が視界から消えていた。


 え? と思ったその瞬間、右サイドから男の蹴りが襲い掛かってきた。

 いつの間に、と思う間もなく脇腹を蹴り上げられて照子の体は吹き飛ばされる。

 今まで味わったことのないほどの痛みだ。照子の体は数メートルほどもんどりを打って転がった。


 立ち上がろうとするにも蹴られた箇所が痛くて痛くて。

 これが闘気をこめた攻撃の破壊力かと涙目の照子は近づいてくる男を見上げた。


「……おいおい。マジか。もっと楽しませてくれるかと思ったのによぉ」

 男の軽蔑したような視線を浴びながら照子は歯を食いしばって身を起こそうとする。だが体がまったく言うことをきいてくれなかった。


「ふん。つまらねぇな。ほんっとにつまらねぇ。止め刺す気にもなりゃしねぇ」

 男はつま先で照子の肩を蹴飛ばす。


 仰向けに寝転がった照子を見て、男は憤りにも近い怒りの表情を、ふと緩めた。

「おいお嬢さん。これからは身の程ってものをわきまえて勝負を挑むんだな。でないと、格闘家としてだけじゃなくて人生までジ・エンドだぜ?」


 男がなにやら手にした物を照子の顔に近づけた。

 何かをされた、という感触はあったが照子はそれを見極めることができなかった。




「それで、あの男は行っちゃったのよ。名前も聞けなかったわ。で、なんとか動けるようになってから家に帰ったんだけど、鏡見てびっくりよ!」

 照子は自分の額の真ん中を指差す。

「ここにね、黒マジックででっかく星印が書いてあったのよっ。しかも油性マジックよっ!」


「あはは。負けたから黒星って意味? その男なかなかしゃれっ気あるよね。おれだったら単純に『肉』とか『骨』とか書いたかなぁ」


 信司が思い切り軽快に笑ったので照子はキッとにらみつけた。

「冗談じゃないわよ。うら若き乙女の額に落書きなんて。消すのにどれだけ苦労したと思ってんのよっ。次の日なんてうっすらと残ってるのを『何これ?』って指摘されてごまかすのにどれだけ苦労したか!」


 あんまりにも照子が勢い込んで怒鳴り、信司にずいと迫ったせいで、彼はしりもちをついてしまった。


「ごめんごめん。で、それを根に持って男を捜しているんだ」

 冷や汗を流して立ち上がりながら信司はズボンの埃をはたき落とす。

 根に持ってという言い方は気に入らなかったが、とりあえず照子はうなずいた。


「……これからは相手見て落書きしよう」

 信司が口先だけで小さくつぶやいた言葉の半分も照子に聞こえなかったのは幸いかもしれない。


「あの負けっぷりを覆さない限り、格闘やめるにやめられないわ。まぁ今のところやめようとは思ってないけど。……とにかくあれが格闘人生の唯一にして最大の汚点なのよ」


 信司は何かを考えるように顎に手を当てて首をかしげると、照子に視線を戻してきた。

「おれは、さっきも言ったとおり闇大会だろうと何だろうと別にかまわないけど、てりこさんはそれでいいのか? 下手をしたらリベンジどころか格闘人生の汚点が増えちゃうかもしれないよ?」


 的確な切り替えしに照子は言葉を詰まらせた。

 しかし、拳をぐっと握りなおしてうなずく。


「かまわないわ。とにかくもう一度あの男と闘いたいの」

 その応えを受けて信司はうなずいた。

「判った。それじゃ大会の間はパートナーってことで、よろしく」

 信司の差し出した手を力強く握り返して、照子も満面の笑みでうなずいた。


 日曜日は埠頭の近くにあるショッピングセンターの駐輪場で待ち合わせることと、ルールに記載してある「超技に関する届出」がきちんとできるように超技名を考えておくことを確認して、信司は帰って行った。


 と、携帯電話にメールの着信を知らせる音楽が鳴る。この着信音は彼氏の結だ。

「……あー、なんでこんな時に」

 メールを見て照子は愕然とする。次の日曜日はきちんと休みが取れそうだからデートをしようという誘いだった。


 結には大会のことは話せない。「ストーカー事件」だけでもあんなに心配していた彼を心臓麻痺で殺すようなものだ。

 何とか自然な形でデートを断らないといけない。


「滅多にまともに休み取れないくせに、もうっ」

 自分の都合は棚に上げた恨み言をつぶやいて、照子はキャンセルの理由を考えはじめた。


 そこへ。

「てりこねぇさまー」

 甘ったるくも可愛らしい少女の声が聞こえてきた。


 そちらを見ると、あやめが嬉しそうに駆けてくる。後ろからは「桐生会」の若頭、田村が慌てて追ってくる。

「あやめちゃん。こんな時間にこんなところで会うなんてね」

「はい! 会いたいと思った時に会えるなんて、これがわたしとてりこねぇさまの運命です」

 そんなオーバーな、と笑った照子だが、ふと引っかかりを覚えて首をかしげる。


「会いたいと、って。じゃあ、あやめちゃんはわたしを探してここに来たの?」

「はい。繁華街の方に遊びに行っていたのを田村に見つかって連れ戻されちゃうところだったんですけど。もしかしてこの時間だったらてりこねぇさまがここに来ていないかなぁって思って、振り払って来たんです」

 あやめは、ぺろっと舌をだした。


「お嬢。寄り道はいけませんぜ。くみちょ、いえ、親父さんが心配なせぇます」

 田村は額の汗をぐいとぬぐってあやめに小言を言った。「桐生会」の組長である総一郎を親父さんと言い直した辺り、やくざを嫌うあやめに配慮したのだろう。

 なかなかいい男じゃない、と照子は微笑んだ。


 あやめは田村に「判ってるわよ」と言いながら頬を膨らませて見せ、照子にはいつものように可愛らしい笑顔を向けた。

「でも、今日は大会ないんですね。てりこねぇさまはどうしてここに来たんですか?」

 公園が静かなことでイベントはなかったのだと、あやめは気付いたようだ。相変わらず察しのいいところがあるわねと感心しながら、ふと照子は思いついた。


「どうして、って……。そうだ。あやめちゃん、ちょっと名前を貸してほしいんだ」

 照子は先程までの信司とのやり取りと、偶然にも大会の日に彼氏にデートに誘われたことを手短に説明する。


「彼には大会に出ることは内緒にしたいの。だから、日曜日はあやめちゃんと遊びに行く、ってことにしてもらえないかな」

 そう話を締めくくると、あやめはキラキラと目を輝かせてうなずいた。

「いいですよ。ほかならぬねぇさまの頼みですから。でもわたしからもお願いがあります」

「なぁに? わたしにできることなら何なりとどうぞ」

「いつでもいいから、本当にわたしと遊びに行ってくれること。それと、その大会。わたしも見に行きたいです」


 前者はかまわないが後者はどうなのだろう、と照子は返答に詰まった。

「まいかた公園の試合じゃないんだから、危ないよ。わたし達が試合の間はひとりになっちゃうんだし」


 照子が困った顔で言うと、田村が胸に手を当てて軽く頭を下げる。

「それでしたら、不肖この田村。お嬢のボディガードを務めさせていただきます。俺もアネさんの闘いっぷりを見てみたいですし」


 やくざの若頭に姐さん呼ばわりされるとなんとも落ち着かないなあと思いつつ、あやめは田村が面倒をみるということなら、まぁいいか、と照子はうなずいた。


「ただし、大会の主催者が観戦ダメって言ったら、それに従うこと。いい?」

「判ってます。ねぇさまに迷惑はかけられないもん」

 そう言って、にこっと笑うあやめの可愛らしさに、照子まで思わずにやけてしまう。


「それじゃ、そろそろ帰らないと。あやめちゃんもまっすぐ帰るんだよ」

「はぁい。……ねぇさま。試合もデートも、楽しみにしていますね」

 あやめは手を振って走っていく。彼女が急に走り出したので、田村が慌てて後を追った。「お嬢ーっ、待ってくだせぇー」と叫ぶ彼の声に、照子は哀愁を覚えた。


 彼らが見えなくなるまで見送ると、照子も愛車にまたがってエンジンをかける。


 いよいよ、あの男へ繋がる道が開けたかもしれないことに照子は大満足だ。

 とにかく試合に出て、勝ってみせる!

 決意を胸に、バイクをいつもより心持ち速く走らせる照子であった。



(ROUND2 了)

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