ロートルと幼女

旗代

第1話

 セルゲイは狂喜した。

 口元を覆う白く深い髭を震わせる。小躍りを耐えるのに一苦労。


 嗚呼、何という僥倖。望外の喜びか!

 ようやく、ようやくなのだ。さらば! さらば、社畜たる人生よ。


 今、我が手にあるのは、近衛からの解職を告げる通達書。しかも年金付き。

 定年退職なる概念もなく、社会福祉何それ美味しいの?

 インフレ何それ、一定どころか下落気味の名目賃金という死ぬまで働け生涯現役大前提のブラック世界で、つまるところ、これは救いに他ならない。頼むから金融当局さん、小麦の販売価格か貨幣の銀含有量かの統計を取ってくれ。


 思い起こせば今昔。遙か遠い、もはや夢現の区別もつかぬほどの、あの世界。老人は勝者で、若者敗者。職に就くのも大変で、就いたら就いたで、ホントの意味でもデスマーチ。


 この世界に来たとて、娼婦の子供で五歳にして孤児。言葉も分からず、いきなり路上生活のハードモード。生きるためにと軍に入れば直ぐ戦争。マスケット銃担いで一列に並ばされたときはマジで二度目の終わりを覚悟した。

 しかも入ってみれば、戦時中は脱走の他、戦傷退職以外に辞める術なしとか意味不明。終わったら終わったで、熟練兵は退職禁止と決めた担当者(先帝陛下)を小一時間は問い質したい。


 だいたい、文明が未発達すぎ。国民健康保険もなければ、まともな銀行もなく、脱走は死刑。よしんば首尾良く足抜け出来て起業しようにも、同職組合は参入障壁高過ぎで、やたら滅多ある関所だの、人脈も親類も技術もない孤児が生きるには世界全体が厳しすぎ。

 現代知識で内政商業チート展開とか、常時ネット接続で豆知識仕入れない限り絶対無理。世にあふれる主人公たち、記憶力どんだけよ? みんなIQ幾つですか。


 農業? 都会人にそんなもん求めるなと。脱サラ農家の悲惨な失敗談なぞ現代ですら聞き飽きたネタである。おまけにこの時代、地方じゃ未だに山賊盗賊食い詰め傭兵がヒャッハーしていて(きっとモヒカン頭に違いない)、しかも身分すら曖昧で気がついたら農奴化一直線とか、どこの世紀末伝説だよ、おい。


 結局、一般人が多少なりとも文明的で文化的な生活を送るには軍に留まるしか術がなかったこの三十七年。

 いやだって、軍って、この世界で一番の先進的組織だよ? 月月火水木金金、戦時の一般部隊は、どこの居酒屋チェーンないし牛丼チェーンだよって突っ込み入れたくなるブラックっぷりだけど、近衛ならブラックな世界のホワイト企業。東証一部の正社員か公務員なイメージよ。


 給与はキッチリにこにこ週末支給。遅配何それ御伽の世界。しかも下士官だったら、基本給は都市部の熟練職人並みで、いざという時の蓄えだって貯められないこともない。

 思い返せば下請け雇われ織工以下の一般兵卒の頃は悲惨だった。ヴォルテール曰く、日当一スーのアレクサンドロスって、おいコラ、文学風に誤魔化すな。ジャン・ヴァルジャンも真っ青だよ。


 まぁ相も変わらず実質賃金の概念がないのか、無視しているのかは前記の通り。装備費やら聯隊拠出金やらよく分からん費用が色々差し引かれるのもご愛敬。結局いつの時代どんな世界どんな会社でも、サラリーマンの給与明細なんぞこんなもの。

 それでも、住居は宮城外苑に兵舎が用意され、衣服も官給品で事足りるとなれば無問題。パン代も給与に含まれて専属の医者がいて健康管理もしてくれる。しかも親方日の丸つぶれる心配なし。あっちの世界で公務員が人気だったのがよく分かる。


 しかし流石に長かった。幸か不幸か後遺症が残る戦傷を負うこともなく、だからこそ廃兵院に入居もできず、気づけば儂もう実年齢五十歳。

 毎朝日の出起床とか若いうちならいいけど、マジ疲れた。


 あっちならまだ若いと思うかもしれないけど、こっちの栄養事情からしたら、庶民なんて本気で人生五十年外天の某な時代です。

 第一、儂の精神年齢八十越えよ。もう十分でしょ、お腹一杯。しかし辞めたくても辞められない。辞めたら数年で路頭に迷う孤独な老人とか、リアル怖い。


 そんな全てに、ハイ。さようなら。

 こんにちわ、楽隠居。

 こんちにわ、バラ色年金生活。苦節五十年。遂に、遂にこの爺も勝ち組だ!


 と、そんなことを考えていたのが、拙かったのか。


 ウキウキ、ルンルン(死語)とスキップしそうになる足取りを、寄る年波と羞恥心がスクラム組んで辛うじて押さ込み、さぁ別れの挨拶をと近衛隊長執務室へ。

 取り次ぎを経て無事に入室、直立不動。


 いざ、さらば! と言い掛けて。


 そこにいたのは、幼女であった。額縁入りの肖像画でしか見知らぬ御尊顔。兵卒用の粗末な濃緑の軍服を身に付けて、奇妙なほどに違和感が仕事をしていない。頼むから仕事して。


「慶び賜え。貴様の退職は、延期となった」


 後ろ手を組み、おもむろに近づくや、覗き込むように見上げてくるのは、この世の総てを嫉む荒んだ目つき。短く、肩より上で雑に断ち切られた色の薄い金髪がかすかに揺れる。


 なるほど画家というのは大したものだ。この狂った雰囲気を一切合切伝えぬその技術。ある種の諦めとともに天晴れと、今でないなら喝采もしてやろう。

 故に確かに、近衛兵が守るべきとされる家族を描いた絵画の中の人である。絵では、お上品にも着飾って、その長く絹のような金髪は気品を湛えて光り輝いていたが、まぁ服装も髪型も髪の色も変わるから許してやる。

 天使の如き顔立ちだって、死人のように蒼白い肌を除けば、まんざら嘘ではない。

 だから、絵の少女と眼下の幼女は一致する。だが、声を大にして言おう(言えないが)。


 この、大嘘つきめ。


 セルゲイの内心を知ってか知らずか、いや、きっと知っているに違いない。澱んだ碧い双眸を鈍く歪ませて、幼女こと、帝国皇女リュドミラ・フョードロヴナ・エル・ヴァランシュカ殿下おん年十歳は、悪魔の如く不気味に笑った。

 

「待ちに待った、君主最終討論のお時間だ」


 爺は知りたい。隠居まであと何マイル?


********

・コメンタリー


 時代は似非近世ヨーロッパ。内容の正確性は全く保証しません。と言うか、意図的にねじ曲げています。


 社会福祉:現代文明の恵み。例えば十八世紀、九二歳の老人が頼むから最後の日々は平穏に迎えたいと兵士の宿営負担義務からの免除を願い出ている。実に香ばしい。


 実質賃金と名目賃金:ブラック・キング、ルイ十四世が欧州最大の陸軍を作れたのは、これのお陰。最低な雇用主である。治世を通じて小麦の販売価格は三割上昇したにも関わらず、給与を二割カットした鬼畜。


 退役制度:またも登場、ルイ十四世。熟練兵は軍の根幹だから勝手に退役させるな、退役禁止と言い放った。ダメだコイツ。あと当時の動員解除ってそのまま現地解散退職金なしなので、お家に帰る途中でドエラいことに。


 ジャン・ヴァルジャン:ああ無情の主人公。日雇い労働で日給二四スーを得て一家を養っていたが、貧困の中でパンを盗んでミゼラブル。一方、従軍中の兵士の日給は1スー。アレクサンドロスとは言い得て妙。「私には幸運だけあればいい」←良くない。


 色々さっぴかれる:兵士日当1スーになる計算は次の通り、基本給5スーからパン代2スー。肉代1スー。部隊基金1スー。これに廃兵院維持分担金が少し。飯代はもう引かれてるからいいけど、それでも普通に生活したら溶けて無くなるよね、これ。都市在住の織工の一般賃金は8~10スー。有能な職人になると20スー・クラス。


 近衛隊:一番優遇されてるエリート部隊。君主の見栄も反映。ポツダムの擲弾兵ことプロイセンの有名な連中は特に優遇されていたことで名高い。高い給料。軍服無料で無料の一般教育。無料の健康診断、賄い付き。しかもこいつら、一度も戦場に立たなかった。正しく自宅警備員の走りである。


 兵舎:十八世紀になっても兵舎は一般的ではなく普通の兵士は、平時において一般人の民家に泊まっていた(ダルタニャンとか有名だよね)。色々問題。でも決まった守備隊や近衛みたいな連中用に作られてもいた。フランス近衛隊用の隊舎は1692年にパリで建設。途中戦争があったので完成は1716年。ピョートルも兵士と民間人を分離することに熱心だった。


 なお帝国のイメージは中近世欧州諸国の悪いところ取りの最低国家。フランスとロシアのイメージが強いかも。


 君主最終討論:Ultima Ratio Regis。戦争の優雅な言い回し。近世フランス軍の大砲に鋳込まれた文言。フリードリヒ大王も好んだとか。実に説得力がありそうだ。

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