資性を溜めて

第五部 一章 -変わる自分、変わらぬ他人-

 コラルから船に乗ってまずはアーンクラへ。そこからはもうボルンタ大陸だ。俺は船縁で頬杖をついて磯臭い夜の海を眺めてぼんやりとしている。呆けてる場合じゃないのは分かってた。でも、何も考えられないんだよな。

 海は魚だかプランクトンの死骸が腐った臭いらしい。それはこのオリソンティ・エラでも変わらないみたいだな。……俺、内陸育ちであんまり海水浴とかした事ないんだけどさ。人間よりも伸びた鼻をひくひくさせても懐かしさはあまり感じない。

 海水浴かー……。ザナとかカルディナさんも泳ぐ時は水着とか着るのかな。そもそも遊びで泳ぐなんて文化あるのか?ビアヘロが危ないからそんな無防備な事できない、とか……。

 「フジタカ?そこにいたんだ」

 「おう」

 一人で噂をすれば。甲板に出てきたのは長い髪を揺らして足をふらつかせたザナだった。

 「大丈夫か?」

 「うん。ニクス様のおかげで。揺れる足元ってやっぱり慣れないや」

 言ってザナは俺の隣へとやって来る。手に持っているのは契約者、ニクス様の羽だった。

 本当はトーロに巻き付けてた羽なんだが、傷は塞がったからって俺とザナが貰った。この羽が実は優れもので、効能に癒しだけでなく酔い止めも含まれてたらしい。だから船酔いが酷い俺とザナもこうして船旅を楽しんでいられる。

 「少し気持ち悪いけどね」

 「……だな」

 ……楽しむ、ってのは大袈裟だった。具合は悪いが吐く程じゃないってくらい。それでも俺達からすれば大躍進だ。俺もニクス様の羽を取り出し、指先でくるくる回す。これ、いきなり効果が切れたりすんのかな……。

 「落としちゃうよ」

 「大丈夫だって。俺達が話すの久し振りだな?」

 「うん。……歩いてる時、皆静かだったもんね」

 旅の道中、黙って歩いていた理由は俺達が一番よく分かっている。俺達はフェルトを出発してから口数がぐんと減っていた。なんとなく、気まずかったんだ。

 「しばらく歩かないし、こうなると話すか寝るかしかないんだよね」

 ザナの表情はあまり落ち込んでいない様に見えた。……まぁ、あれから気を静める時間はあったもんな。

 「……気にしてないわけじゃないよ」

 「えっ?」

 なのにこっちは未だにくすぶってる。それを見抜いた様にザナが俺に言った。

 「……フジタカも、ライさんみたいになってないかなって。聞きたかったけど話せなかった。で、今日は絶好の……チョイス?」

 「チャンス、な」

 思わず表情が緩んじまった。顔が緊張してたんだ、って気付いて一度自分の顔に触って確かめる。こんなに強張ってたんだな、俺の顔……。

 「フジタカ語は難しいね」

 「俺語じゃないんだけどな……」

 ある意味、良い言葉のチョイスだったかもな。そう思い直して俺は少しだけ話してみようと思った。

 「……ココが僕に他にできる事はないもん、って言ってたの覚えてるか?」

 「うん」

 ココ、って名前を出すだけでまた何かが込み上げてくる。一息、海を嗅いで深呼吸。

 「そんな事を言ってたやつだったが、俺達を助けてくれたのは間違いなくココだった。……それを殺したあのベルトランが許せなかった」

 「……ナイフ」

 刃を畳んだナイフを手に持つ。この重さを掌で感じていると妙に落ち着いた。

 「あの時……自分でやったの?」

 「そうだ。……できる、ってどうしてか分かんないけど確信してた」

 言葉でどう表現するのがいいんだろう。自信ではなくて、もっとこう……気持ちで言えばこのナイフで何ができるか分かっていた。ナイフで斬れば、相手に何が起こるか……知っていた上で俺はアルコイリスを使ったんだ。

 「その後、ナイフを放ったよね」

 「あぁ……だな」

 ザナと話していてもやもやしていた思考がクリアになっていく。

 「殺す気だった。ナイフを使ったのは、確実にベルトランを殺してやろうと思ったからだ」

 物騒な考え方をする様になったな、俺……。今でも貫いた時の感触や、ベルトランが吐いた血の臭いも思い出す。……あの気持ち悪い笑顔もだ。

 「……復讐する相手、もういないんだよね」

 「そうなるのかな」

 本当はアマドルとレジェスは生け捕りにしてやりたかった。アルパを潰した償いを……俺の手でさせたかった。もっと罵って、責めて、そして……。どうしたんだろうな、刑務所にでも入れたかったのかな。それすらも今となっては分からない。

 だって、アイツらはもういないんだから。テルセロ所長が呼んだゴーレムが埋めたってのもあって、その辺は俺も受け入れている。

 「デブの言った通り、しばらくは静かに暮らせるのかな」

 「そうしたいね」

 だけど、そうもいかないんだろうな。このナイフを使う日はまた、きっと来る。きゅ、と握り直して俺はナイフをしまった。

 「デブで思い出した。最近アイツとはどうなんだよ?」

 俺が聞くとザナの口が震えた。

 「れ、れれレブ!?別に、どうもしないよ!」

 「ふぅん?」

 歩いてる間は二人もそんなに喋っていなかったが、何かあったな。あったとしたら……フェルト支所か?

 ……いいなぁ、恋人がいるって。いや、この二人の場合は違うのか?

 「フジタカ?違うからね?」

 「はいはい、分かってるよ」

 「う、嘘だ!」

 この際どっちでもいいな、見てて面白いから。俺にはそういう話、当分巡って来そうにないし……。


 静かな日常が少しずつ取り戻せた。だったらあとは平和に暮らすだけ。

 ……それでいいのか。自問自答しても、結局答えも正解も見えてこなかった。


 トロノを離れて一年も経っていないのに、戻ってきて広がる既視感に心が落ち着いた。もう出発したのが随分前の様に感じる。

 道を行き交う人々は知り合いではないけど、何度か見た事がある人も混じっていた。本当に帰ってこれたんだ……。

 「お疲れ様。あとは……」

 「あらぁ!」

 カルディナさんも町に入ってやっと一息吐いた。召喚士育成機関トロノ支所までもう少しで帰れる。

 その矢先、歩いていると道の角から大きな声が聞こえた。ふと、聞き覚えがあると思って見ると相手はこちらに屈託ない笑みを向けている。

 「ルナおばさん!」

 「ザナちゃん!ザナちゃんじゃない!」

 小走りでやって来たのはトロノの果物屋を営んでいたルナおばさんだった。無防備に抱き着かれて私は身を固くする。

 「いつ戻って来たの!?言ってよぉ!」

 「た、たった今なんです。だから私達、ちょっと……」

 「あらほんと!汗臭い!」

 鼻を摘まむフリをしてルナおばさんが離れる。……臭いのは認めるけど少し切ないよね。

 「レブちゃぁぁぁん!会いたかった!」

 「健勝の様だな」

 ルナおばさんの抱擁を、抱き返さないがレブは受け入れ成すがままにさせている。レブも会いたかった、って言えば良いのに。

 「この素っ気なさ!変わってなくて安心!」

 「ザナさん、こちらの方は……?」

 置いてきぼりのカルディナさん達に私が向き直る。その背後で今度はフジタカがルナおばさんに抱き着かれていた。

 「トロノで果物屋さんをやってるルナおばさんです。私とレブはよくブドウを買いに行っていて……」

 「英雄フジタカのご帰還ね!お久し振り!」

 「うっ……」

 紹介している背後でフジタカの短い声が聞こえてしまった。抱き締められるのが嫌で呻いたとは違う。……自分に向けられた言葉に反応してしまったんだ。

 「うーん、ちょっとケモノ臭いわね。これは本当に今着いたばっかりじゃない。……あら、どうかした?」

 「……いえ」

 フジタカの態度が少し変わってしまった事に気付いたのかルナおばさんも表情が曇る。

 「長旅だったのね……。ザナちゃん、元気だった?」

 「あ……」

 こんな風に声を掛けてくれる人がいてくれる。私達が置かれていた状況を知らないから出る言葉でも、酷く胸が温かくなってきた。

 「……はい、レブのおかげで」

 「相変わらず仲良しみたいでおばさん、安心したわ。今日はゆっくり休んで、明日にでもまたおいで」

 ルナおばさんの厚意に力が抜けそうになる。でも、まだ最後の仕上げが残っている。頼りにするのはそれからだ。

 「ありがとうございます。……今日はお休みなんですか?」

 「今日は個人的な買い出しで早めに店じまいしたのさ。でも、明日はちゃーんと朝からやってるからね」

 「必ず行こう」

 レブが勝手に返事をしたけどもういいや。……きっと今日、ルナおばさんに会えなくても行ったと思うから。

 「英雄……そんなんじゃ、ないのに」

 ルナおばさんの背中を見送る一方、フジタカの消え入りそうな呟きが聞こえた。

 歩いていて気付いた事がある。それは、エルフの姿を見る機会が無かった事だ。それは以前のトロノとは明らかに違う光景だった。前は……アルパが破壊される前はエルフも平然と歩いていたのに、今はいない。ほとんどが人間で、たまに遠くにインヴィタドらしき獣人が見えただけ。今、アルパの復興はどうなっているのだろう。

 トロノ支所の扉を開けて一歩。建物の匂いも変わっていなくて私は胸を撫で下ろす。言ってもまだ二か月とそこら。そこまで変わる訳もないんだけど。

 「さぁ、報告に行きましょうか。貴方達は来る?」

 廊下を歩きながらカルディナさんが私とチコ……の向こう、レブとフジタカ、そしてトーロの方を見た。

 「気は進まないがな」

 「俺が行かないと」

 「話すなら俺もいた方が早い。そうだろう、カルディナ」

 皆してあまり会いたくない様だったけど、事情が事情だ。この場に居る誰か一人でも欠ければフェルトで起きた事件の話の全貌は理解してもらえない。

 「失礼します!」

 インヴィタド達の返事を待ってからカルディナさんは歩き出し、所長室の扉を開ける。中にいた男性は私達を見るや、目を大きく見開いた。

 「おぉ、戻ってきたね」

 低い声を掠らせて、ブラス所長は私達に笑顔を見せた。

 「そして、随分と大所帯だこと。座る?」

 「………」

 いつもと変わらないブラス所長に私達はどう反応すれば良いのだろう。そう、何も知らないブラス所長に私はどんな顔をして向き合えば良いのか、この場に立って分からなくなってしまった。

 「さぁ、どうぞ?全員分はないけど」

 長椅子に召喚士達が座り、余った肘掛けにレブとフジタカがお尻を乗せる。ニクス様と若干本調子ではないトーロは個別に椅子に座った。

 「こういうのは大抵、カルディナ君一人なのにね?どうしたの」

 話を聞く雰囲気作りをブラス所長はしてくれたが、私達の方は気が重い。……報告書はアマドルとレジェスを放っておけないのでカンポの契約者へ警告へ向かう旨を記述して提出したと思う。

 「報告書の直後より、話を始めます」

 言って、カルディナさんは全てを自力で語ってくれた。所々、私達の証言を交えながらだけど、話の組み立ては任せっぱなしになっていた。当然、カンポの契約者と出会い……死なせてしまったことも。

 話を聞かせるに連れてブラス所長の表情はどんどん険しくなっていった。それでも、私達の言葉へは最後まで相槌を打って聞いている姿勢を示すのみ。話に割って入って中断させる事は一切なかった。

 「……以上と、なります。この度は……申し訳、ありませんでした……」

 立ち上がり、深々と頭を下げるカルディナさんに私とチコ、フジタカも続く。

 「いいよ。……もう、起こってしまった事だ。覆らない」

 責められもせずに私達は脱力してしまう。……本当に、どうしようもない事をしてしまったのだから怒る事も許されない。どうやっても……ココもサロモンさんも生き返ってはくれないのだから。

 「……カルディナ君の判断はニクス様の命を脅かしただけでなく、カンポの契約者の命を奪ってしまった。事実、だね?」

 「はい」

 ブラス所長の確認にカルディナさんは迷いなく頷く。

 「これ以上、君にニクス様の護衛を任せる事は……」

 「待たれよ」

 何かを言いかけたブラス所長の言葉を遮ったのは、ずっと話題の中心にいた契約者ニクス様だった。

 「ニクス様……」

 「彼女は何もしていない。自分の言葉を尊重したまでだ」

 カルディナさんがゆるゆると首を振る。しかしニクス様も引かない。

 「自分がカンポの契約者コレオ・コントラトへの警告を進言したのは出発する前から話していた通り。そこに彼女の意思は介在していない」

 「……ご自分が何を仰っているのかお分かりですか?」

 この混乱の非は自分にあると言っているんだ。カルディナさんは何も悪くない、と。

 私達召喚士にとって契約者は手放す事ができない存在だ。だから今回の話もニクス様が被ればカルディナさんが契約者を死なせた、という事にはならない。もちろん……事実だって殺したのはフエンテの召喚士だ。

 「責任を追及する相手を間違えるな。その連中なら我々の手で断罪した」

 言ったレブを含め、裁く権利なんて私達が持っているとは思っていない。だけど、これ以上あの三人に償わせる事もできなかった。

 「これからも自分には彼女達の助けが必要だ。意向を汲み取らぬのならば、自分も身の振り方は考える」

 「………」

 ニクス様をブラス所長は睨むでもなく見詰めていた。

 「……変わられましたね、以前よりも」

 「老いた……否、落ち着いただけだ」

 「そうだ」

 レブが勝手に同意するけど、昔のニクス様を私達は知らない。それでも以前よりも目に見える変化が起きていたニクス様に私も目を丸くしていた。

 「カルディナ君には、下手をすれば今よりももっと風当たりが強くなる事も覚悟してもらわないといけないよ」

 「……もう、とうに承知しております」

 契約者を失う理由を作った召喚士が今も契約者の隣に居る……なんて噂が立つのかな。だったらそんな事、私達がさせない。

 「ブラス所長!ニクス様……契約者の護衛を増やすのはいかがですか」

 「ザナ君……」

 私達も一緒なら、あるいは。

 「その案は良いね、落ち着くらしいとは言え、フエンテへの対策も本格的に講じないといけないし。だけど、それは君でもチコ君でもない」

 「えっ……!」

 考えは悪くない。そう言ってもらえても、提案した私自身は受け入れてもらえない。

 「当たり前だよ。今回、君達には勉強の一環として同行してもらった。だけどこれ以上は分不相応だ」

 「………」

 チコは何も言い返さない。フジタカも、レブすらも。

 「フエンテを仕留められたし、話も聞けた。……今、手元に残っている物から次にできる事を探そう。そのために君達にはまた声も掛けるかもしれない」

 もうブラス所長は私だけを見てはいなかった。それが所長として、感情に振り回されずにしなければならない対応、なのかな。

 「疲れているのにすぐ来てくれたんだろうけど……一度休むべきだ、君達は」

 所長に言い返せる者はいなかった。いたとしても、今の私達に聞く耳は持ってもらえそうにない。だから今日はまずブラス所長に言われた事も含め、考えを纏め直そうと決めて部屋に戻った。

 「うぁー……。ただいま、って言いたくなるね」

 「そうか」

 ……おかえりってレブに言ってもらいたかったな。贅沢をいうわけにもいかないので、荷物を置いてベッドに腰掛ける。あぁ、当番の人がちゃんと使っていない部屋でも掃除してくれてたんだ。毛布もふかふかだもん。

 「帰ってこれたんだ、無事に……」

 「そうだな」

 レブが椅子に飛び乗る。いつもの定位置だ。

 無事に帰還した、のは私達。……なのに達成感がないのは、帰らぬ人となった者達が海の向こうにいるからだ。

 「整理する時間はあった。ならば、急ぐ事でもない」

 窓の外を見ながらレブが言う。……落ち着いているならまずは早く休め、って事かな。

 「うん。じゃあ、お風呂入ってくる」

 「………」

 レブの首が微かに動いた。目が私の方を向く。

 「どうしたの?」

 「こういう場合、“背中を流そうか”と尋ねるのが常識と聞いたが」

 洗おうか、って言いたいの?でも私の背中を……って!

 「誰に!?間に合ってるから!」

 「……そうか」

 少し声の調子が落ちたよ。……何を考えてるんだか、まったく。普通男女が同じ浴室にいるなんて……夫婦でもなきゃ、無いでしょ。

 「レブはお風呂入らないの?……個人的に」

 「鱗を磨くくらいは嗜むか」

 「………そっか」

 思えば、竜だし汗とか掻かないんだもんね。……少し羨ましいな。

 「翼とか大変じゃない?手伝おうか」

 レブの目付きが少し鋭くなった。

 「ならば私も手伝うが?」

 「そういう問題じゃありません……」

 寧ろ、乗り気なんだ。って、言ったのは私だもんね。

 「私だけやってもらうというのも問題ではないか」

 「いいから。じゃ、行ってくるからね」

 女体に興味ある、って宣言してから私とお風呂に入ろうだなんて下心丸出し……なのかなぁ?なんだか、レブの場合は変な知識を教えられて本当に善意で言ってくれているのかも。とりあえず、教えたのはフジタカなんだろうな。

 信用してるんだよ、これでも。そんな事を考えながら私は先に一人で入浴し、お湯を桶に張って部屋に戻った。

 「お待たせ」

 髪は乾いていないので頭は布で包んでいる。レブの替えの服も幾つか用意してもらった。

 「待ってはいないがな」

 「はいはい」

 桶を置くとレブがこちらへやって来る。大きめの手拭いを湯に浸すと熱さで手が痺れた。少し湯温を上げ過ぎたかな?冷たいより良いと思ったんだけど……レブなら関係なさそう。

 「背中見せて。前は自分で」

 「うむ」

 レブが私に背中を向けて座ってくれる。先に持っていた手拭いを渡して、自分用にもう一枚を絞った。水気も程よく含ませておかないと。

 「違和感とかあるの?」

 「右の翼の付け根に何かないか」

 拭きながらレブに尋ねると答えはすぐに返ってきた。見てみると、小さい石ころが挟まっている。

 「……これ?」

 「あぁ、ずっと気持ちが悪かった」

 「わっ!」

 石を取り除くと、レブが一度右側の翼を広げた。急に動くものだから私は避けて尻餅をついてしまう。

 「む?」

 「む、じゃないってば……。もう、いきなりは動かないでよ」

 「承知した」

 分かればいいんだけど。……でも、川に飛び込むレブは見た事があっても、こうして磨いてあげるのはなんだかんだ初めてだ。

 「……痛くない?もっと力入れろとか」

 「このままで良い」

 これで良いんだ。じゃあこのままやらせてもらおう。

 翼の膜は汚れていないし、畳んだままで広げないからそのままにしておく。膜を支える側骨に当たる部分の鱗を先に磨いてから、背中を拭き始めた。

 「良い香りがする」

 「香り……石鹸かな?」

 レブが鼻を動かしながら腕の鱗を磨く。私の残り香、かな。

 「やっぱり鱗も石鹸とか使った方が良いのかな……」

 節約するつもりで惜しんだとかじゃない。普通に忘れてしまっていた。

 だけどこうして見ると本当に綺麗だ。土埃でくすんでいるというのはもちろんあるけど、そんなものこうして軽く拭き取ればすぐに紫の光沢を取り戻す。よく見れば、私の顔が鏡の様に反射して映っていた。こうして見ると並の鉱石よりも強度があるなんて思わない。本当に全身から宝石を生やしている様だった。……宝石よりもずっと価値があるんだろうな。どうして今までもっと見たいと考えもしないで無関心だったのかな、って思うもん。

 「……はぁ~」

 思わず。本当に何も考えずに顔を近付けて吐息をレブの背中に吹き掛け、曇らせた。鏡や窓硝子の汚れを落とすのと同じ要領のつもりで。

 「ふぁ……あ……っ!」

 「へ、あ、ご、ごめん!」

 自分の腋を拭いていたレブが声を洩らし背中をビクンといきなり跳ねさせたので、私は咄嗟に顔を離して謝った。……あれ?

 「……レブ?」

 「………」

 今、何かとっても変な声を聞いた気がしたんだけど……。本人は腕を上げたまま固まってしまう。

 「あの……」

 しばらく動かなくなってしまったレブに触る事もできずに私はおずおずと声を掛ける。

 「……効いたぞ」

 「どう効いたの……」

 やっと腕を下ろしたレブの返答に私は更に疑念が募った。呼吸を乱すレブを見るってそうそう無いし。

 「あ、お詫びに尻尾も磨くよ。付け根とか届か……」

 言いかけてレブの首が動き、目を大きく見開く。

 「そこは……!い……いや、貴様がそうしたいと言うのなら……」

 なんかもごもご言ってるけど好きにしていいのかな。だったらついでに磨いとくよ。

 尻尾を持ち上げたところで廊下が騒がしくなる。人の声ではない、足音だ。レブも聞こえたのか舌打ちして部屋の扉を見やる。

 「アラサーテ様ぁぁぁぁぁぁぁあ!失礼しまぁぁぁ………あ?」

 私達の部屋の前で足音が止まった。直後に扉が盛大に開け放たれる。開けたのはこれまた緑の鱗が輝かしい竜人。

 「ティラドルさん……!?」

 「あ、お嬢……様」

 大声で部屋を開けて挨拶……と、思ったら竜人は私達を見て一歩も動けなくなる。そこにいたのはレブを追ってオリソンティ・エラにやって来たティラドルさんだった。

 「………」

 「レブ?」

 私の腕の中からレブの尻尾がそっと抜け、三歩だけレブがティラドルさんに向かって歩く。ティラドルさんが短くひ、と声を上げた。

 「ふんぬぅ!」

 「ぐはぁぁぁぁ!」

 レブが翼を広げ横へ飛び、壁を蹴って旋回。遠心力も加わった尻尾の殴打がティラドルさんの頬に直撃した。壁に叩き付けられてずるずると立派な服を着た竜人が早々に沈む。

 「も、申し訳ありません!ですが、この痛みも含め懐かしゅうございます!よくお戻りくださいました!」

 「決してお前の為ではない」

 冷たく見下ろすレブに頬を腫らせて倒れたままでも笑顔のティラドルさん。音を聞き付けやって来たのはフジタカだった。

 「ドタバタうっさいと思ったら……何してんの?」

 「自分を雑巾に見立てて部屋の掃除をしに来たそうだ」

 無理があるってば。

 「アラサーテ様……よもやお嬢様とそこまで関係が進展していたとは思いませんでしたぞ。これは不肖ながらこのティラドル、お祝いに……」

 「ちょ、ちょっと待ってよ」

 フジタカの前だからか立ち上がったティラドルさんが話を進める。しかし私が話に追い付けずに止めてしまう。……前もこんな事あったな。

 「どうしたんだよ、だから」

 こういう時、フジタカの様に中立で話を聞いてくれる人はありがたい。

 「私がレブの鱗を磨いてたの。それで、尻尾を磨こうとしたらティラドルさんが来て、レブが叩いて……」

 「え……。磨くって……尻尾、握ったの?」

 フジタカの顔色が明らかに変わる。

 「う、うん……。だって、付け根とか自分じゃ磨けないかな、って……」

 「……うわぁ……」

 レブがフジタカの目線を避けて顔を背ける。その反応、妙に効果あるみたいだけど意味が分からない。

 「ねぇ!私、磨いてはいないんだよ!ちょっと持ち上げただけ!」

 「そこにティラがやって来た」

 背を向けるレブにティラドルさんは跪いて額が床に接地するまで深々と頭を下げる。

 「……なんとお詫び申し上げれば良いか」

 「部屋に来ただけなのにどうしてそんなに……」

 ……いや、聞くだけじゃダメだ。推理しないと。

 「まさか……見られたくなかったの、レブ?」

 「尻尾の意味も理解しているか」

 四足歩行の動物とか鳥にあって、体勢を整える役割を持ってるお尻から生えた……あれ、お尻?

 「お尻の延長線とも言うべき尻尾を触られる、って危険なの?」

 「危険と言いますか……」

 頭を下げたままのティラドルさんを見かねて私はレブを肘でつつく。

 「顔を上げろ」

 「はっ!あぁ、やはりお美しい……!」

 ティラドルさん、しばらくレブに会えなくて欲求不満だったのかな……。気が滅入っていたのもお構いなく踏み込んでくる。

 「ティラ。お前の様な存在を人は“けぇわぃ”と言うそうだ」

 「流石はアラサーテ様……造詣が深い!」

 「うーん……」

 堂々と言うレブに目を爛々と輝かせるティラドルさん。それを横目で見て唸るフジタカという構図。まだレブに余計な事を教えたんだ。

 「否定はできないかな、今回は」

 フジタカも言って肩を落とす。意味は知らないけどあまり良くない言葉みたい。レブとは口喧嘩が絶えないのに、いつ普通に喋ってるのかな。

 「……あれ、フジタカもお風呂入ったの?」

 フジタカの恰好が変わっていた。鎧を脱いだだけかと思ったが、着ている上着がやけに白い。そして何より、フジタカからも石鹸の香りが漂っていた。

 「おうよ。どうだデブ、ふわっふわだろ?」

 「……そうだな」

 私の時は良い香り、って言ってくれたじゃん。フジタカの方が毛も多いから余計に香ると思うのに。

 「鱗磨きという気分ではなくなったな」

 「どうかお許しを……」。

 「あの……ザナ。俺が背中流すとか変な事言ったせいなら悪かった……」

 なんで二人ともそんなに謝ってばかりなの……。私の行動が軽率だった……?

 「やっぱり尻尾を握る、ってのはそっちの世界でも……」

 「うむ。間違いない」

 「お前達、いい加減その話を止めろ」

 私が聞く前にレブが二人の話を止めさせる。置いてきぼりにされて言い出す機会を逃してしまった。聞いてももはや教えてくれなさそう……。異世界の文化とか風習?尻尾を持った人種がそもそものオリソンティ・エラにいないから分からないよ……。繊細な話題だったのかな、レブの背中への反応も含めて。

 「……失礼しました。アラサーテ様がお戻りになられたと聞き、つい遠征先での武勲を早く耳に入れたいと思いまして……」

 レブとフジタカ、そして私もティラドルさんを見る目が変わる。

 「おや、どうされました?勿体ぶらずに聞かせてくださいませぬか!」

 どうする、と顔を見合わせる私達を順番に見られてもどうしようか迷う。部屋に入ってもらうとレブから口を開いた。

 「……武勲等とは言えない」

 「………?」

 そこまで言うと、ティラドルさんの表情からも浮かれるだけではなくなる。椅子に座ってもらってからは私がぽつりぽつりとトロノを出発してからの事を話し出した。カルディナさんの様には上手くできなかったけど。忘れなくてもこの話をするのは……最後にしたい。

 「契約者の死……ですか」

 「お前にとってはただの契約者だ。だが、私や他の連中にとっても同じではない」

 話終わってもティラドルさんはブラス所長と同じだ、何を感じるでもない様だった。フエンテの三人を倒した部分だけを取り上げると思ったけど、レブが先に封じる。

 「アラサーテ様にそこまで言わせる者だったのですね」

 「契約者だからじゃない。ココも、サロモンさんも……殺される様な人じゃなかったんだ」

 フジタカを見てティラドルさんも言葉を選んでいる様だった。

 「戦いの中で発現した力、それは使える物か?」

 敢えてフエンテの名前は出さずに言ったのかな、と思った。

 「胸の中にあったつっかえが取れた様な感じがした。頭にきて、考えてることが本当に一つだけになってたからかな。とりあえず……同じ事はできる」

 断言するフジタカを見てあの日の事を思い出す。スライムに足を取られたベルトランに突進して、ナイフが相手の細剣に触れた。すると剣ごと相手の腕も消し去ってしまう。……いつもなら剣だけか、全てを消していたのに。 試しに何か消してみてもらおうかと思ったけど、話している間に陽は落ちてしまっていた。

 「夜消せないのは変わらないんだよね?」

 「そうだな」

 ココが言っていた。時が来ればできると思う、と。……魔力の調整ができるようになったのも、よりによってあんな時でなければ。フジタカは耳を力無く畳んでいる。

 「……一方で、お嬢様とアラサーテ様は……」

 「私が魔法使ったのはロカの途中だったね」

 そう言えば、ティラドルさんには見せた事がないんだ。フジタカのナイフと同じ、あまり人に大っぴらに見せる代物でもないけど。

 「レブもいつの間にか飛べるようになって……」

 「元々は飛べていた。魔法以外でも力を取り戻しているという実感は日々持っている」

 召喚されてすぐは飛べなくてトーロに笑われてたもんね。この前の戦闘を見れば、速度は分からないけどティラドルさんと同じ様にしっかりと飛べていた。空から放つ魔法……妨害は受けにくいのかな。狙い撃ちにされてもレブは平気そうだったし。

 「それぞれが成長して戻られたのですね」

 「代償が大き過ぎるがな」

 魔法が使え、身体も鍛えられたのだろう。その代わりに、私達は決して取り戻せない大切な人を失った。それはあの場に居た全員が感じていた事だ。

 そう、ティラドルさんに言われてやっと私達は自分達の中で起きた変化に気付けた。今日までは自分達の身の周りの変化にしか目を向けていなかったから。……はっきり言えば、少なくとも私には余裕が無かったんだ。

 「ティラドルさんは、私達が出発してからどうしていたんですか?」

 「敬語は結構ですよ、お嬢様」

 そっちが敬語を使ってくるからこっちも身構えるんだけどな。久し振りに会うとどう接したら良いか分からないよね。出発する少し前の調子、取り戻せるかな……。

 「我はソニアの研究の傍ら……アルパに何度か復興の手伝いで訪問していました」

 アルパ、と聞いてフジタカの長い耳が跳ねる。

 「とは言っても、触らせてはもらえない。遠目から見学するのを黙認されていた程度です」

 「それでも良いんで、聞かせてください」

 フジタカが前に身を乗り出す。私も聞きたかった、あれからアルパがどうなっていたのか。

 「トロノでエルフの姿を見なかったが」

 「はい。ほとんどの者は避難後すぐに散らばりました。……アルパに戻って、復興を始めたのは三割程度です」

 百世帯に届かないうちの三割と言ったら、ほとんどいなくなってる。

 「残りはセルヴァやアラクラン、もしくはピエドゥラを越えた先の集落を目指したと思われます。全てはトロノ支所も把握できていません」

 「……そうか」

 レブも腕を組んで何か考えているようだった。

 「復興はどの程度進んでいるの?」

 私からの質問にティラドルさんはゆっくりと首を横に振った。

 「ほとんど進んでおりません。大工の手伝いもできない状況に加え、召喚術を使えるエルフも……」

 「ゴーレムは使いたくない、か」

 「仰る通りでございます」

 結論を言い当てたレブにティラドルさんが軽く頭を下げる。

 「ソニアも含め、召喚士達が数人で説得に行っても応じませんでした」

 物は使い様、とよく言うが使う人が道具を好きになれなければ使える物も使えない。まして、私達が手伝う、なんて言っても使う人を信用できるかは相手次第。そして……恐らく答えはまだ覆らない。

 「しかしフジタカ。君のおかげで随分片付けは捗ったそうだ」

 「………」

 アルパで大勢が見ている前で消して見せた事を言っているんだ。フジタカからすればその力との向き合い方が分かってきたところ。……切っ掛けは本人も嫌がってるだろうな。

 「エルフも分断する程度にはいざこざが起きていました。本人達からすれば長い時を過ごしたあの地を何も無い土地に変えられたのが余程堪えたのでしょう」

 エルフの種族的特徴と言えば、まず一番に挙げられるのが寿命の長さだ。森と寄り添う様に生きて、悠久の時を植物や樹木と共に過ごす。その長い暮らしの中で魔力に目覚めても、それを何かに悪用する様な者は少ないと聞いた。腕力が秀でているという話は聞かないが、寿命の長さから来る知力や魔力ならば人間の比では無い。

 「感情を向ける相手がいないのだろう。ただでさえ内向的な種族だからな」

 レブの推測は当たっているのだと思う。でなければ、トロノなんて便利な町から離れた森の中に集落を作って住んでいる訳ないのだから。

 「それも変わっていくでしょう、フジタカが戻ったのですから」

 「俺……?」

 名前を出したティラドルさんはゆっくりと言ってくれる。

 「お前はアルパを潰した張本人とそそのかした者を倒したのだ。それを知れば、エルフ達の召喚士を見る目は変わる。……時間は必要だろうがな」

 「でもアマドル達を捕まえるって言って結局逃がした……。それに直接殺したのだって……俺ではない」

 フジタカが殺したのはインヴィタド達とベルトラン。本人はティラドルさんに言われても納得できていない様だった。

 「過程は我も聞いた。だがエルフ達には結果、事実を伝える事が最も重要なのだ。お前の過程を考慮するなど、今の連中にはできない」

 「………」

 いなくなってしまった人達を後回しにさせるのが本当に得策……なのかな。言っている事は分かるのに、認めたくないんだ。

 「フジタカ達は契約者自らが囮となり旅に出発。一度は取り逃がしたが、次に遭遇した際に犠牲を払いつつもアルパを襲撃した二人に加えて更に二人をまとめていた者も処断した」

 「要約すると身も蓋もないものだな」

 話をかいつまんで言ったティラドルさんにレブは鼻を鳴らす。そんな一言や二言で纏められないのに、当事者でない人達にはその程度以上に理解してもらえないんだ。相手の聞く耳にも依るのだから。

 「他の人間の町に暮らすエルフ達には効果があるかもしれません。おそらく、あの男かソニアがすぐに手配するでしょうから話は広まります」

 ブラス所長がフエンテの事は伏せて、か……。召喚士達の中でしかできない話になっていくんだろうな。

 「戻ってきてくれる、かな」

 「エルフは故郷を大事にすると言います。……あとは復興に尽力できる態勢が整えば、あるいは」

 エルフの人達が協力させてくれれば。……そう思うけど、それって善意の押し付けなのかな。それか、私達が招いた事件へのせめてもの贖罪のつもりか。

 直れば良い、許されるわけではない。直った暁には私達を許してほしいとも言えない。失った物は必ずある。命さえあれば、と言えるのは本人だけだ。

 「おい」

 「え?」

 そこにレブが片目だけ開けて私を見上げていた。

 「思い詰めるな。取り戻せるものは、取り戻すだけだ。平和な日常、他愛ない世間話、でもな」

 「……うん」

 アルパの人々の暮らしを取り戻す力。失わせたのも召喚士だけど、元に戻せるのもまた、召喚士でなくてはならない。だったら私が……私達が頑張るだけだ。

 「しかしティラ。しばらく見ぬ間に変わったな」

 「そうでしょうか?」

 レブが見るティラドルさんの見た目に変化はない。あるとしたら中身なのだろう。

 少し言っている事は分かる気がする。前はアラサーテ様の一辺倒だった。今も久し振りに会ってとても気が高まっているのは伝わってくるし。

 でも、要所要所ではソニアさんやアルパの人々を気にしている。その変化に自覚はないみたい。

 「アラサーテ様だけでなく、お嬢様の事も考えるようになったからでしょうか」

 お世辞も上手くなった、のかな。

 「そんなの……」

 「気持ち悪い」

 「ちょっとレブってば……!」

 気にしない、って言おうとしたのに。あぁ、ティラドルさんが肩と羽を落としちゃう。

 「あ、あの……ティラドルさん!」

 「我の行いは……アラサーテ様だけでなくお嬢様にもウザいと思われていたのですね……」

 ああ、もう。こっちにまでフジタカの言葉が伝染してる。本人も気まずそうに目を逸らすし。

 「聞いて……くれないかな」

 「はい、なんでしょうか……」

 ……ここからは、率直に聞いてもらおう。

 「今日、ティラドルさんと話せて少し元気をもらえたと思う。ありがとう」

 「お嬢様……」

 上手くは言えない。でも正直な感想だ。

 今日まで私達は自力では立ち直れていなかった。正確に言えば、まだ全快とは言えないかもしれない。それでも、今日会ったルナおばさんやティラドルさんは何も知らないからこそ私達に変わらず接してくれた。

 ……それが、冷え切った心に火を灯してくれた。レブと二人ならともかく、私達全体は……傷の舐め合いだったのかも。

 「俺も。まだやる事はある。終わってなかったって分かっただけでも進めた気がする」

 「レブは?」

 フジタカも続くので、私が尋ねるとレブは頬を掻いて咳払いをした。

 「……ティラ」

 「はっ」

 「……今日までご苦労だった。引き続き自身の任に励め」

 ティラドルさんが椅子を鳴らして立ち上がる。

 「ああ……アラサーテ様……!もう一度、お聞かせ願えませぬか……!」

 「聞き逃したのであれば、そこまでだったという事だ」

 「いえ!このティラドル・グアルデ!誠心誠意今後もアラサーテ様、お嬢様をお守りする為に尽力致しますぞ!」

 守る為の命ではない。だけどこう言ってくれる相手がいるのってとても心強いんだな、って感じられた。君もそうだったのかな、ココ……。

 話が終わり解散してすぐに休んだ翌日、私とレブは早速朝から買い物に出掛けていた。買う物は当然、決まっている。

 「あらぁ!本当に来てくれた!ザナちゃぁん!レブちゃん!」

 「おはようございます!」

 気晴らしする事が大事、と言うのは乱暴だけど……落ち込むよりも動いていた方が前を向けると昨日思えた。

 だから昨日の口約束を果たしにルナおばさんの果物屋へやって来ていた。

 「ブドウはあるな」

 「もう、当たり前でしょ!レブちゃんの分、ちゃんと押さえてあるんだから!」

 レブが小銭を渡し、ルナおばさんが笑ってブドウを手渡してやる。こんな日が頻繁にあった事も昨日まで忘れてたのに、目の前にするとやっぱり覚えているものだ。

 「そうだ。昨日の買い出しって、何を買ってたんですか?」

 「うふふ、気付かない?」

 ルナおばさんが首を軽くゆらゆらと振る。少し目を凝らして、私はある事に気付いた。

 「あ、耳飾り?」

 何かが揺れ、きらりと光りを反射した。見れば、ルナおばさんの耳に赤く光る石でできた耳飾りが光っていた。

 「そう!昨日は雑用もあったけど一番はこれを買いに行ってたの!」

 言って、よく見える様にとひし形に加工された耳飾りを押さえて見せてくれる。綺麗……。

 「よく似合ってますよ!」

 「ありがとう!ザナちゃんはそういうのは興味ないの?」

 「うーん……」

 装飾品かぁ。……あまり気にした事が無いんだよね。でも、この召喚士の腕輪ぐらいしか自分を飾るものが無い、ってのも女の子としてはどうなんだろう。

 「素が美しいから望みは薄いな」

 「ちょ……っと!」

 「あっはっはっはっは!レブちゃん、冗談が上手になったじゃない!いや、ザナちゃんは可愛いよ?でも……あっはっはっは!」

 レブは本気で言ってるつもりだろうし、ルナおばさんにはお腹を抱えて笑われてるし!人前では少し自重してよ!

 「私はそんなにおかしい発言をしたのか」

 「あのね!そもそも私は……!」

 自分の事を可愛いとか言った事、無いから!言い返す前にルナおばさんが笑いをなんとか堪えた。

 「あっは……。笑い過ぎちゃったね。ふぅ……」

 おばさんはおばさんで笑い疲れちゃってるし。

 「冗談を言ったつもりはないぞ」

 「その目を見たら正直に言ったってのは分かってるよ。でもねレブちゃん。女の子を恥ずかしがらせる様な事を人前で言っちゃあいけないよ」

 こっち見ないでよ。顔赤いのバレるでしょ。

 「……配慮が足りなかったか」

 いつもの様に……二人の時に言って欲しかったかな。……人前で言うか、二人でいる時ならの話ね。可愛いって言われて浮かれてはいられないんだから。

 「私も笑ったからハイリョができてなかったね。ごめんよザナちゃん」

 「いいえ」

 ルナおばさんのこういう思った事をすぐに声に出せる人は尊敬する。だから私も素直に話をしていられるんだ。

 「お詫びに、これあげる。ザナちゃんと分けて食べるんだよ?」

 「む……これは」

 ルナおばさんが棚から果物を取り出しレブに渡してやる。

 「白ブドウじゃないですか」

 白、と言うが見た目は淡い緑色のブドウだった。

 「伝手で仕入れたんだよ。お得意様に、もっとお買い上げ頂ける様にこっちだって工夫してるのさ」

 レブは渡された白ブドウを睨んでいる。

 「熟していないではないか」

 「これは熟しても緑色のままのブドウなんだよ」

 私も詳しいわけではないけど知っていた。ブドウは元々未熟なうちは緑色だが、成熟するに連れて紫がかってくる。しかし中には緑色のまま房を大きくし成熟する品種もあるのだ。

 「……ね」

 ルナおばさんが穏やかに私達に微笑んでいる。

 「見てごらんよ。ブドウはレブちゃん、白ブドウはザナちゃんに見えないかい?」

 言われて二人で顔を見合わせる。……レブはまんま紫色だけど……私の髪はもう少し青みがあるかな。そう言うと、未熟な部分が目立つ感じ。

 「確かにな」

 レブが陽の光に白ブドウをかざす。

 「……綺麗だ」

 「だからそういうのは……!」

 「白ブドウの話だぞ」

 くっ……!自分で言ってしまった。

 「誤解させてしまったか」

 「ううん……。私が悪いの」

 綺麗だ、って言われて少し浮かれたのかな……。思い違いして情けない。

 「レブちゃん、気に入った?」

 「味は確かめておく。気に入れば、次は買わせてもらおう」

 「頂いて良いんですか……?」

 なんだか前から良くしてもらってばかりだ。しかも、話を聞くにレブの為に白ブドウを仕入れた様な口振りだったし。

 「ブドウは買ってもらったんだし、いいんだよ。また元気に戻ってきてくれたからね。あぁそれと」

 ルナおばさんが更にリンゴを渡してくれる。

 「これを、フジタカに。あの子……落ち込んでたんでしょ?たぶん、二人よりも」

 「あ……」

 フジタカが英雄なんて言われて気を重くしてたの……おばさんも気付いてたんだ。

 「……ありがとうございます」

 私は最後に頭を下げて果物屋を後にした。

 普段のレブなら場所も構わずブドウを一粒一粒もいで食べ始めるのに、今日は食べようともしない。ただ白ブドウを持って眺めているだけだった。

 「レブ、食べないの?」

 「食するなら部屋に戻る」

 「言われなくても戻るよ。でも、いつもなら……」

 言って、人気の無い街路の外れを二人で歩いてトロノ支所への近道。この道はレブと早朝デートを繰り返して見付けた道だ。……デートってやっぱり教えてくれないけど。

 「ここまで来れば人はいないな」

 レブが立ち止まる。

 「外での食い歩きがお行儀悪いって、気付いたんじゃなかったの?」

 「違う。……先程の話だ」

 ルナおばさんとの話で……って、これ以上何かあったっけ。

 「白ブドウもだが、貴様も美しいぞ」

 「ぶ、ブドウと一緒にしないでよ!」

 例えが失礼でしょ!自然の恵みと同じくらいに美しいとか言ってるんだったら、もう少し詩的な表現に変えるとかさ!

 「……それで貴様の美しさを引き立てる方法を思い付いた」

 「えっ?」

 レブが私にブドウを渡す。すると彼は自分の腕の鱗を一枚、勢い良く剥がした。

 「……受け取れ。そしてブドウを返せ」

 「……はい」

 言われた通りにレブの鱗とブドウを交換する。手に収まった鱗は爪よりも少し大きい程度。だけど……。

 「わぁ……」

 とてもじゃないけど、私の髪なんか比較にならないくらいに綺麗だった。

 「首飾りや耳飾りでも、好きに使えば良い。黄色い嘴の方が好みかもしれないがな」

 「だから好みとかじゃないってば。いいの?」

 あぁ、とレブは言って歩き出す。

 「どうせ数日で生える。もっと必要なら言え。鎧を作るとなればしばらく時間が要るが」

 「それはいいかな……」

 ……でも、と私は掌で光る鱗を見詰める。

 「ありがとう、レブ。……大事にするから」

 「ふん」

 レブは言葉で返事はしてくれなかった。

 「ねぇレブ。白ブドウ食べたいから頂戴よ」

 「食い歩きは行儀が悪いと言ったのは貴様だ」

 「ケチ」

 竜の鱗なんて貴重品を何の気兼ねも無くくれる人物が白ブドウは頑なに渡さない。その構図におかしいと思いながらも私の表情はどこか緩んでいた。こんな暮らしをしてまた過ごせる。それがどんなに儚いか、どんなに大事か知ってしまったから。

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