蓬莱のシーフー

毒島伊豆守

ようこそ蓬莱軒へ



 背景の蒼穹の色を薄く透かした雲が飛んでゆく。

 その空の姿を水面に映して滔々と流れる川に沿う河原。夏の間に勢いよく伸びるがままに育った草むらに覆われている。

 9月も下旬になれば真夏の陽光によって熟成された濃緑の勢いは薄らぎ始めて、色味に涼を含んだ風に撫でられるままに左右に揺れている。



 青い空と緑の大地。両者の恩恵によって育まれ、時には奪われる。

 狭間を間借りして生きるものの不変のことわりである。



 例外はある。

 ことわりを突き詰めた果てに森羅万象と合一を果たした者、またはことわりと細やかな折り合いをつけながらその枠外に自らを置くことを遂げた者。



 この物語にて、その『例外』ならんとことわりの征服に魂を賭けた者と、『例外』でありながらことわりを快なりとした者を描かん。





 帰宅途中で発生した生理的欲求には勝てず、丈高い草むらを発見した福原啓介は人目につかない位置で放物線を描く解放感に包まれていた。

 「雨だろうがしょんべんだろうが水は水。いっぱい吸って大きくなヒィッ」 

 自分の行為を正当化する独り言の語尾は小さな悲鳴に変わった。

 顔がひきつり、脈打ち始めて12年の心臓も驚きに飛び跳ねた。


 誰もいなかったはずの草むらの中から、突然音もなく人間が出てきたのだから仕方ない。

 一目散に逃げ出すべき状況だったが、勢いよく出続ける事情がそれを許してくれなかった。

 ヌゥッと草むらから出てきた人影は、啓介のつくった水たまりの端をよけることなく踏破した。

「あ、踏んだ」

 自分の進行方向だけを見てスススと通り過ぎようとした人影は青年の姿となって足を止めた。


 容易にはとめられない緊急放水中の啓介は、恥ずかしさとバツの悪さを貼りつけた顔を向けて

「あ……ごめんなさい」

 と頭を下げた。

 この言葉が正しいかどうかはわからなかった。河原は私有地ではなく、青年にわけでもない。踏んだのは青年自身だ。

 公衆モラルに違反しているかもしれないが、これは緊急避難というやつだろう。

 しかし、啓介は日本人のDNAにしっかりと刻まれている『まず謝罪』プログラムに忠実な少年だった。

 青年の顔からは感情は何も読み取れなかった。怒ってはいないようだ。

 謝罪してひとまずそれが受け入れられたようだと安堵すると、青年がこちらに向けている背中に啓介の気はとられた。


 青年の背中は大きな布にくるまれた何かでこんもりと盛り上がっており、右肩に接している部分からは30センチ程の黒い鉄の棒が斜め上に向かって突き出ている。

 啓介は前に見た忍者になった亀の映画を思い浮かべた。

 青年がこちらに体を向けた。右肩から左わき腹にかけて布がたすき掛けにされていて、背中の何かの塊を固定しているのがわかった。


 青年は右腕をだらんとあげると、啓介が草むらに注いでいる水流を指差す。

「それが」

 指先は次に草むらに向けられる。

「それを生かす。水生木すいしょうもく。良い循環だ」


 すいしょうもく?

 啓介の知らない言葉である。

 

「木が燃えて火が生きる。火が燃やした灰は土となり、土は裡に金属きんを宿し、

金属きんは露を結び水を生じ、水は木を育む。五行は相生そうじょうする。木生火、火生土、土生金、金生水、水生木」


 その内容の半分も理解できない。

「世の中のすべてはその時その時のかりそめの姿だ。君がしている『それ』はいずれ木、火、土、金とかたちを変えてまた水―――飲み水になって君のところへ戻ってくる。すべては巡り巡る。そう考えると自分もこの世界の一部なんだって思わないか」

 啓介は青年の例えの酷い話に共感するどころか、『自分の作業』に集中して早くここを去ろうと思った。

 こいつ頭おかしい、と啓介が思ったのも無理はない。


 青年は啓介が自分に対して警戒心を強めたと知るや、

「気にせず続けてくれ。こっちも『竜探し』を続けるから」

 と体を翻して河原の下流の方へ歩き去っていく。


 竜探し、と確かに聞こえた。

 啓介にとって竜退治はゲームやマンガの中でなじんだ言葉だが、

現実リアルでそれをやってる人間には初めて会う。そして、今後は会いたくない。

 クスリでもやってるのかな?一歩間違ってたら殺されてたかも、と背筋がうすら寒くなった。

「やばかった……」

 放水が収束しつつあり、啓介は数回小刻みに体を上下に揺らせた。


 ふと青年の方へ目をやると、ほんの数秒しか経っていないにもかかわらず、青年の盛り上がった奇妙な背中は、200メートルは離れたところでどんどん小さくなっていってすぐに見えなくなった。


「うそ……うわっ」

 草むらをガサガサと揺らすほどの強い風が最後の数滴を啓介の手に押し戻した。

 慌てて手をぶんぶんと振って滴を飛ばした。

「汚ねっ」

 手の甲の残滓を見て、ふと青年の言葉を思い出した。

 

 君がしている『それ』はいずれまた水になって君のところへ戻ってくる


 気の遠くなるくらいの距離と時間をかけて『すべて』はリサイクルされるってのは、そうかもな。

 しょんべんが川に流れて海に混じって蒸発して雲になって雨になって。

 そう考えるとさっき飲んだミネラルウォーターも昔は誰かの……。

 そこまで考えて思考を打ち切った。

「おえっ。馬鹿じゃねえの。キモい想像させんなよ、あいつ」




 青年は河原に走る『竜の痕跡』の真上をひたすら辿っていた。その行く手に岩があろうが汚物があろうがお構いなし。

 この痕跡をなぞっていくことだけが『竜』を探し当てる手段だ。

 『竜』がいるところが現時点の目的地。

 痕跡が徐々に明確化してきている。


 河原を上がり、彼岸花が咲く公園を抜け、住宅地を突っ切り。


 近い。


 近い。


 竜の痕跡―――枯れた気脈―――の先に、生きている竜=力の流れが現れた。


 見つけた。


 その竜の頭にあたる部分―――竜穴りゅうけつという―――は今は店舗となっている土地の下にあった。



 その店の看板と入口を見て、彼は無意識に右肩の後ろから突き出ている黒い鉄の棒―――鍋の把手を撫でた。

 


タオは我をこの名の店に導いたか。奇なるものだな」 



 青年は店のガラス戸に手をかけた。  

 


(続く)



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