叫ぶ声
手術室の扉の上に灯る赤い光を、どこか夢の中の出来事のように眺めていた。
今朝はいつもどおり起きて、いつもどおり登校して、いつもどおりに学校を出て、そして今、俺は病院にいる。
その一連の記憶の中につながりを見出せず、失われた箇所をパズルみたいに埋めようとしてあがいている。
もちろんそんなものはない。
ただ俺が、いつまで経っても現実を受けとめ損ねているだけだ
だが事実として、俺の隣には病院に到着してからずっと黙ったままの追風が座っている。
「……あれ、なんで朝田がいるの……?」
ぼんやりと、不思議そうに俺の顔を見つめてくる。
どうやら今まで俺が隣にいた事さえ認識できていなかったらしい。
俺は少し考え、口を開く。
「子分は親分の危機には駆けつけるもんだろ」
俺の言い分に、追風は唇だけで笑った。
「まだ覚えてたんだ、そんな昔の事」
そして再びの沈黙。
病院での人の営みが、足音や電話の音、職員の声という形で俺の耳を通過する。
「……お父さんの時もこうだったんだ」
追風の口からそれを聞くのは、初めてだった。
「いきなり病院に呼ばれて、いまみたいにずっと待たされて、それで……ダメだったって聞こえて……」
……そうか。
こいつ、そこにいたのか……。
追風の肩が震えだす。
膝の上で握りしめる拳の上に、ぱたぱたと涙が落ちていく。
「どうしよ……、おかあさん、ダメだったら……っ」
「追風……」
俺は何か涙を拭くものがないかカバンの中を探すが、普段持ち歩いていないものが今日に限ってあるはずもない。
せめて慰めの言葉をかけてやろうとするが、それさえも出てこない。
ああクソ、くそったれ!
なんで今、気休めだろうとなんだろうと、なにか言ってやれないんだ俺は!
散々考えて悩み尽くして出てきたのは、結局こんなどうしようもない言葉だ。
「大丈夫だ、信じろ。病院の人だってがんばってくれてるんだ。ダメなわけねえだろ。あんまり思い詰めるな」
「――ふざけないでよッ!」
「っ」
ものすごい力で襟元を締め上げられた。
燃え上がりそうなほどの熱を帯びた顔が間近に迫る。
激情としか言い表しようのない表情に、息を飲む。
「あさっ、朝田はいいわよ! テキトーで! キラクでッ! お父さんもお母さんもいるし、神社の子でもないし! 無責任なことが平気で言えるわよ! けどっ、けど私は私なのっ! 私はそんなカンタンに考えられないのっ! 怪我したのは私のお母さんなのっ! そもそもっ、医者でもないのになんであんたが大丈夫とか言えるわけ!? なにか大丈夫だって保証でもあるの!? あるなら教えてよ、言ってみてよ!」
地雷の破片みたいな痛みと熱を真正面から叩きこまれた。
額がぶつかるほどの距離でぼろぼろ涙をこぼし続ける瞳の底には、見たこともない色をした光が灼と煮えたぎっていた。
決して分かち合うことのできない違いを突きつけられ、俺は隠しようもなく怯んだ。
その通りだ。
俺には父親も母親もいるし、先祖代々の言い伝えみたいなものもない。
本当の意味では、俺にはこいつの気持ちは分からない。
だけどそれでも一つだけはっきりしてることがある。
「ンなもんあるわけねぇだろバカッ!」
俺は今、心の底からこいつの力になりたいって思ってる。
だから全力で、一歩も引かずに怒鳴り返す。
「それでも、信じなくてどーすんだよ! お前が助かるって信じてなくてどーすんだよ! この部屋の中ではおばさんがいまも戦ってるんだろ! 先生たちだってがんばって治してくれてんだろ! それなのに俺たちが信じないとかありえねーだろ!」
「――あの、すみません。他の患者様のご迷惑になりますので……」
声をかけてきたのは若い看護婦だった。
見回すと、フロア中の人々から注目を浴びていた。
俺は軽く目を閉じて呼吸を落ち着かせ、すみません、と頭を下げる。
すぐに注目は消えていく。
……もしかしたら、ここではよくあることなのかもしれない。
追風の手が襟元から力なく離れる。
隣を見ると、うなだれた頭が見えた。
様々な人が目の前を通り過ぎる。
やがて、水面を揺らすような声で追風がつぶやいた。
「…………ごめん、サイテーだった」
「気にすんな。俺も無神経だったし」
そこで俺は細心の注意を払い、がらりと声の調子を切り替える。
「仕方ねえよ。追風はアマゾネス系女子だもんな。血が騒いでひとの首を締めたくなることぐらい、たまにはあるだろ」
「――――は、はぁっ!? ちょっとなによそれ!」
先ほどまでとは明らかに別種の怒りで彼女の顔が赤くなる。
「ええええおまえ冗談だろ? いやぁまさか自覚がないとはねぇ。いいかぁ、この際だからハッキリ言っとくけどなぁ。通りすがりの人間にいきなり木の上から飛びかかってくる女なんて、日本広しと言えどお前ぐらいのもんだからな?」
「ちょっとやめてよ朝田! こんな所でそんなこと言わなくてもいいじゃない!」
「そんなこと言われてもなぁー。事実は事実だし、あんなもん忘れようがないからなぁー」
「……アンタ、覚えておきなさいよ。ここが病院の中じゃなかったら、」
そこまで低い声で続けたところで、追風は何かに気づいたように視線を落とす。
「…………ありがと」
俺はそれには答えず、黙って手術室の灯りを見つめる。
どれぐらいの時間が経った頃だろうか、不意に手術室の灯りが消えた。
立ち上がった俺たちの前で、ゆっくりと扉が開かれる。
一台のストレッチャーが運び出されてきた。
幾つも点滴をつけられ、口に呼吸器をつけられたおばさんを載せて。
俺たちの姿を認めた壮年の医師が口を開く。
「ご家族の方ですね? 危ないところは乗り越えました。あとは感染症に注意しながら病棟で様子を見ていきましょう」
ほぅ、と自分の口から息がこぼれるのを聞いた。
ああ――良かった。本当に。
「ありがとうございますっ、よかった…………っ」
瞳を潤ませる追風の隣で俺も頭を下げる。
ストレッチャーに付き添って歩きだす追風を見送って、俺はひとり病院の外へ向かった。
おばさんの無事を久住に伝えなければならないし、雅比とも話をする必要がある。
――そう思っていたのに、歩みがゆっくりと遅くなり、ついには一歩も前に踏み出すことができなくなる。
なんだ。
なんだよこれ。
なんで俺、こんなに動揺してるんだ?
……いや、理由なんかわかりきってる。
追風だ。さっき見た追風の姿に、俺は動揺してるんだ。
想像したこともなかった。
あいつがあんな風に泣くなんて。
あんな風に感情をぶつけてくるなんて。
もっと豪胆なヤツだと思ってた。
未だに信じられない――
――じゃない。違う、そもそもそこから間違ってる。
俺は。
ただ単純に、あいつを自分が考えている通りの豪胆なヤツだと決めつけてた。
幼なじみだからって、あいつが何を考えてるかなんて想像もしないで、分かったような気になってた。
よく見ることを避けて、怠けて、印象で捉え、理解の手抜きをし、レッテルを貼り、そうして今日偶然目の当たりにしたアイツの素の感情にビビった。
ただそれだけの話だ。
――――バカか俺はっ!
今だってそうだ。俺は本当にあいつのことをよく見てたのか? よく見ていたと言えるのか? ただ自分に酔ってただけじゃないのか?
わからない。マジでわからない。わからないけれど、このままなかった事にしていいことじゃない。
今のことは、絶対忘れないようにしよう。
自分は何を見たのか。何が見えてなかったのか。落差の中で埋れさせていたのはなんだったのか。同じことを繰り返さないための努力を、これからはしなきゃダメだ。
俺は一度自分自身へ再起動をかけるように深呼吸すると、再び病院の外に向かって歩き出す。
エントランスから表に出ると、辺りはもう暗くなりはじめていた。
スマホを取り出すと、メッセージがかなり溜まっている。全部久住からだ。
最後に届いたメッセージが「終わったら連絡よこせ」だったのでひとまず「今終わった。おばさんは無事」とだけ返しておく。
続いてG3Sを起動。
「おい雅比、いるんだろ」
だが、いつもならすぐに返事があるはずなのに、一向に姿を現す気配がない。
まさか逃げたんじゃないだろうなアイツ。そう思った矢先、
『――――フン、あやつめ。人間を補佐に選んだという話は真実だったか。まったく酔狂な真似をする』
突然、知らない男の声がスマホから響いた。
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