玄関から戻って来たサエコの様子が変だ。

「そんなにひまなら、何か話題を振ってみろよ。無駄話のネタがあるなら乗ってやっても良いぞ」

 兄が言った。

「話題って言われても……」

 僕は、さっきキヨシに言われたことについて兄に聞こうと思った。チラリと台所のほうを見た。

(低い声で話せば女性たちには聞こえないか……でも……)

 そのまま露骨に話すのはリスクが高い。ここはキヨシに模倣ならって例え話でもするか。

 問題は、聞き手である兄がに関しては物凄くかんにぶい事だけど……

「なあ、兄貴」

「何だよ? 無駄話のテーマでも見つかったか?」

「さっきキヨシに言われたんだ……『男はみんな、探検家だ』って」

「探検家? 何の話だ?」

「男である以上、しっとり濡れたジャングルをかき分けて、その奥にある洞窟を目指すべきだって」

「良く分からないが……ガキの間で流行っている遊びゲームの話か? まあ良いや。続けてみろよ」

「うん。それでキヨシが言うには、ジャングルの奥にある洞窟には、入り口が二つあるらしいんだ」

「入り口が二つ……ね。それで?」

「一方は『正しい入り口』で、もう一方は『間違った入り口』……で、正しい入り口を選べば宝物は全て僕の物で、でも、もし間違った入り口を選べば、全てを失うって……」

「へえ、面白そうな遊びゲームじゃないか。あとで俺にもルールを教えてくれよ」

「ああ、いや、それはそれとして……キヨシは『女を楽しませるには色々なバリエーションが必要だ』とも言うんだ」

「なんだ? 急に『女』の話か?」

「今までのも『女』の話だったんだけど」

「ええ? そうなのか? 『しっとり濡れたジャングルをかき分けて進んだら、穴が二つあった。どっちの穴に入るべきか』って、これの何処どこが女の話なんだ?」

「分かんないかな?」

「分からんな。けど、まあ良いや。先を続けろよ」

「ええと、どこまで話したっけ」

「キヨシくんに『女を楽しませるには色々なバリエーションが必要だ』って言われた所まで」

「ああ、そうそう。それでキヨシが言うには、女にバニラ味のアイスクリームばっかり食べさせる男は能無のうなしって事になるらしい。る男は、チョコレート味や、ストロベリー味のアイスを食べさせるテクニックを持っている……て」

「そりゃ、女だってバニラばっかりじゃ飽きるだろ。でも別に男が自分でアイスを作らなくても……」

「まあ、とにかく、色々なバリエーションで女を楽しませなきゃいけないらしいんだけど……そうすると、さっきの『洞窟の話』と矛盾するんじゃないかと思うんだ」

「何でだよ。洞窟とアイスは違う話だろ」

「同じ話なんだよっ。僕が思うに……色々なバリエーションで女を楽しませるって事は……その……た、たまには『間違った入り口』の方へも入って行かなきゃ駄目って事なんじゃないかと……」

「何で、ストロベリー味のアイスを女に食べさせる事が、いつもと違う洞窟に入っていく話につながるんだ?」

「いや、だから……」

 その時、台所からダイニング室へヨネムス夫人が入って来た。その後ろから両手に鍋を持ったサエコが現れる。

「さあさあ、温め直しましたよ。サエコお手製のシチュー。鍋敷きは何処どこかしら?」

「へええ、サエコさんが作ったんですか?」

 戸棚から鍋敷きを出しながら兄が言った。

「私の生まれた街ではよく食べられているレシピなんですけど……お口に合うかどうか……」

「美味しいに決まっているよ」

 すかさず僕はサエコに言った。

「サエコの作る料理なら何だって美味しいに決まってる」

「まあ」

 ヨネムスの奥さんが僕を見てニヤリと笑った。

「食べる前から、ごちそうさまっ」

 それから四枚の皿にシチューをよそって、全員テーブルに座って「いただきます」と言って夕ご飯を食べ始めた。

「そう言えば、旦那さんはどうしたんですか?」

 兄が奥さんに聞いた。

「今日は、街でお友達と飲んで来るんだって。いわゆる『男の付き合い』ってやつ」

「ああ、なるほど」

 そこで奥さんが、何かを思い出したように手を叩いた。

「そうだ、そうだ、忘れる所だった。リューイチくん、書類にサインを一つ貰えないかしら?」

「サインですか?」

「サエコ、例の書類、クルマから持ってきて」

 ヨネムス夫人の頼みに、サエコは「はい」と答えて立ち上がり、ダイニング室から玄関に向かった。

 サエコが出て行くと、奥さんは話を続けた。

「サエコがらみで、ね。未成年者を下宿させるときには、大家は保護者から承諾のサインを貰って、役所に提出しなければいけないのよ。それで調べたんだけど、サエコの場合、どうやらリューイチくんが保護者の代理って事になるらしいの」

「ええ? 俺がですか?」

「まあ、形式上ね。どう? サインを頂けるかしら?」

「それは、まあ、良いですけど……まさか俺がサエコさんの保護者とは」

 それから気温のこととか、種まきのタイミングの事とか、色々な事を話しながらサエコの作ったシチューを食べた。

「それにしても、変わった味のシチューですね」

 兄がヨネムスの奥さんに言った。

「サエコさんの故郷の味だっていうけど……」

「美味しくない?」

「すごく美味しいと思いますよ」

 僕は奥さんと兄の両方に言った。

「大体、兄貴は他人に合わせようって気持ちが無さすぎるんだよ。相手の味覚、相手の趣味、相手の嗜好……そういうものを尊重するべきだと僕は思うんです」

「まあ、コウジくん。さすがねぇ。それを聞いたらきっとサエコも喜ぶわ」

 やった! ポイントが上がった! ここで僕がヨネムス夫人に言ったことは、いずれサエコの耳にも届く。僕は、そんな打算をしていた。

 さらにポイントを稼ぐため、たたみかけるように言う。

「それから……これは、サエコにも言ってあるんですけど……夫婦というのは、やっぱり協力し合うものだと、僕は思うんですよ。お互い協力し合って、相手のために行動する、っていうか」

「んまー、コウジくんったら、ますます立派ねぇ。いまの言葉、世の男どもに聞かせてやりたいわ。とくに、ウチの旦那さんに、ね」

 さらに僕のポイントが上がったな、と内心ホクホクした。

「それにして、サエコさん遅いな。玄関とクルマの間を往復するだけなのに」

 兄が玄関の方を見て言った。

「本当ねぇ……ところで、前々から思っていたんだけど、男二人所帯にしては、この家、いつ来てもキレイにしてあるわね。もちろん、あなたたちで掃除しているんでしょ?」

「はい。基本的には交代で担当する日を決めて掃除しています。俺は軍隊生活で掃除や身の回りの整理整頓は徹底的に叩きこまれましたからね。自分で言うのも何ですが、得意な方だと思います」

「兄貴、その割には、いつも裏口周辺の掃除が行き届いてないようだぜ」

「うるさいな。裏口付近は普段使わないから、たまに掃除するだけで良いんだよ。だいたい、コウジはキレイ好き過ぎるんだよ。何事も度が過ぎるのは良くない。完璧主義の男は、女に嫌われるぞ。……ねえ、そうですよね? ヨムネスの奥さん」

「ま、まあね。それにしても、この家に裏口があったなんて初耳だわ」

「建物の構造上、どこへ行くにも正面玄関からの方が便利ですからね。俺は全く使いませんよ」

 その時、クルマへ書類を取りに行っていたサエコが、やっと帰って来た。

 何だか、様子ようすが変だった。

 書類のファイルを持った両手を後ろへまわしている。

「まあ、どうしたの? サエコ」

 奥さんが言った。

「両手でみたいにして。さあ、書類をちょうだい」

 サエコがファイルを奥さんに渡す。

「じゃあ、リューイチくん頼んだわ」

「分かりました。あとで読んでおきます。二、三日中で良いですか?」

「良いわ。私の家に届けてちょうだい」

「はい」

「さあ、食事に戻りましょう。サエコも突っ立ってないで席に座りなさい」

 サエコは、なぜかカニのように横歩きをして席に着いた。

 ……まるで……

「サエコったら、何でそんな歩き方をしているの? まるで、コウジくんにみたいじゃない」

「え? そ、そんな事、ありません」

 シチューのスプーンを取り上げながら、サエコが言った。

「楽しいお食事とおしゃべりを再開しましょう。……ええと、何の話だったかしら?」

「夫婦はお互いに相手のを尊重すべきだ、って話でした」

 僕のその言葉を聞いて、サエコは何故なぜか体をビクッと震わせた。

「ああ、そうだった。サエコ、コウジくんは将来りっぱな旦那さんになるわよ。ええと、それから……」

「夫婦はお互いに協力し合うべきだ、とも言いました」

「ねえ! コウジくんて、ほんと理想的な旦那さんだと思わない?」

 サエコの手がブルブルと震え出した。スプーンが皿に当たってカチカチと音を立てた。

「あ、相手の趣味に……きょ、協力する……」

「そうよ! なんて素晴らしいんでしょ。お互い相手の趣味や嗜好このみを認め合い、協力し合う……あら、どうしたの? サエコ、顔色が悪いわよ」

「で、でも、やっぱり夫婦と言っても、どうしても合わない趣味もあるし、協力できない事も……」

「まあ! サエコったら! 今からそんな弱気でどうしますか。駄目よ! そんな事じゃ。せっかくコウジくんが、そう言ってくれているんだから、ちゃんとサエコも

「えっと、で、でも……」

「サエコ!」

「は、はい!」

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