僕の祈り
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僕の祈り
猛烈な頭痛で目を覚ました。
うっすらと目を開けると、ぼけた視界の中に輪郭のゆがんだ雑草が見えた。どうやら、僕は、地面にうつ伏せで倒れているようだ。
いったい、何があって僕は地面に倒れているのだろう。
何が起こったのか、さっぱり分からなかった。
思い出せないのだ。
体が石のように重く、思うように動かない。それなのに、伸ばされた右腕だけは、何かを掴んで離さないようだった。何か、細くて柔らかいものを掴んでいる。
僕は伸ばされた右腕の先に目をやった。
そこには、細い足首があった。紺色のハイソックスに包まれた細い足首。
こげ茶色のローファー。さらに視線を上に移動させると、紺とえんじ色のチェックが入った、プリーツのミニスカート。紺色のブレザー。制服である。女子高生の制服だ。紺色のブレザーはよく見ると、所々、赤黒く変色している。
さらに視線を上に移動させると、その制服に身を包んだ少女の困惑した顔が見えた。ショートボブの黒髪に、眉下で切りそろえられた前髪。大きな瞳に、小さな鼻。ファッション雑誌に載っていても不自然じゃないくらい、整った、可愛らしい顔立ちをしている。
――どういう状況だ、これ。
なぜ、自分はこんな所で女子高生の足を掴んだまま、倒れているのだろう。
その少女の顔に見覚えはない。知らない女の子だ。
少女は、僕に足を掴まれたまま、地面に座り込んでいる。怯えたような表情で固まっている。
僕はどうにか体を起こした。後頭部に大きなこぶができており、動くとひどく痛んだ。
僕は少女に向かって声をかけた。
「……君は、誰?」
少女は驚いたように目を大きく見開いた。そして、息を飲み、意を決したように口を開いた。
「……足」
鈴のような綺麗な声だった。
「足?」
「足、離して」
無意識だったが、僕は少女の足首を掴んだままだった。僕は慌てて彼女の足首から手を離す。
「ごめん」
少女は警戒するように、後ろにさがった。注意深く僕を観察している。
「そんなに警戒しないでくれる? 信用できないかもしれないけれど、怪しい者じゃないんだ……多分」
「多分?」
少女はいぶかしむように眉をひそめた。
「覚えてないんだ。自分が誰なのか分からない」
「記憶がないの?」
少女は驚いたように言った。
「そうみたいだ。頭に大きなこぶができてるから、もしかしたら、一時的に記憶が混濁しているのかも。君、何か知ってる? というより、君は誰? なんで、僕らはこんな所に」
僕は周囲を見回した。
周囲にはうっそうと茂った森があった。陽はすっかり沈んでおり、空には星が散らばっている。どこかの山奥のようである。そして、目の前には、古い大きな洋館がひっそりと佇んでいた。
どうして自分はこんな所にいるのだろう。さっぱり思い出せない。
少女は少し考え込むようにして、ようやく口を開いた。
「私にも分からないの。ここがどこなのか。私も君と同じように、さっき気が付いたばかりだから」
「君も?」
「うん。私も君と同じように、気付いたらここに倒れていたの。いつ、どうして自分がこの場所にやってきたのか、思い出せない。目が覚めたら、ここにいて、気付いたら、君に足首を掴まれていたの」
だから、あんなに困惑していたのか。無理もない。
しかし、妙な話だ。二人そろって、どうやってここに来たのか思い出せないなんて。
僕は改めて自分の格好を見た。白いシャツに紺色のズボン。靴は茶色の革靴。彼女の制服といい、僕自身の格好といい、とてもトレッキングを楽しむような恰好ではない。街中を歩くような格好だ。アウトドアの最中に遭難して迷い込んだわけではないようである。
という事は、何者かに連れてこられた?
――くそ、思い出せない。
僕はどうにか気持ちを落ち着かせようと、少女に話しかけた。
「君の名前は?」
「いのり。分島いのり」
「分島さんか。どこか怪我はしてない?」
「私は平気。お腹は空いちゃったけど」
「僕もだ」
僕はようやく笑う事ができた。どうやら、彼女は僕の気を和ませようとしてくれているようである。
いのりは、目の前の洋館を見上げた。
「この家、誰か住んでいるのかな?」
見たところ、電気はついていない。壁には蔦が張っており、所々ヒビが入っている。一見すると、廃墟のように見えた。
「どうかな。とても、そうは見えないけど」
しかし、だからといって、夜の森を抜けようとするのは自殺行為だ。ここがどこかも分からない以上、遭難するのは目に見えている。
「でも、もしかしたら、電話があるかもしれないよね」
「どうだろう。電話線、来てるのかな。こんな山の中じゃ、携帯も電波届きそうにないし」
「山なら無線があるかもしれないよ。それなら、助けを呼ぶことができるかも」
たしかにそうだ。
「入ってみようか。もしかしたら、水か食べ物があるかもしれないし。最悪、何もなくても、夜露はしのげるしね」
僕といのりは立ち上がった。
洋館の正面玄関の前に立つ。扉は木製の両開きで、くすんだ金色のドアノッカーが付いていた。インターホンはない。僕はドアノッカーでドアを叩いてみた。しかし、中からは何の反応もなかった。
「ごめんください。どなたかいませんか?」
声をかけても、返答はない。
僕はもう一度、大きく声を張り上げてみた。
「あの! ごめんください! どなたかいませんか!!」
返答はない。やはり、誰もいないのだろうか。
その時、隣にいたいのりが、何の躊躇もなく、真鍮のドアノブに手をかけた。
ガチャ。
扉は何の抵抗もなく開き、いのりは何事もなかったような顔で、傍らの僕を見上げた。
「開いたよ」
いのりはそう言うと、さっさと中に入って行った。僕はやや呆気にとられながら、いのりの後に続いて洋館の中に入った。
入ってすぐの場所は、広い玄関ホールになっていた。正面には2階へ続く幅の広い階段があり、階段の踊り場の壁には大きな肖像画が掛けられていた。陰鬱な目をした男の肖像画だった。顔の半分近くが、火傷痕で覆われている。
天井には大きなシャンデリアがさがっていたが、埃が溜まっているのか、その輝きは失われていた。
「かび臭い。やっぱり、廃墟なのかな。鍵も開いてたし」
いのりが顔をしかめながら言った。たしかに、人が日常生活を送っているような雰囲気はない。
しかし、それにしては、調度品などはそろっている。夜逃げでもしたのだろうか。あるいは、持ち主が死んでそのままになってしまったとか。
「でかい家だな。なんなんだろう、ここ」
「お金持ちの別荘かもね。変なの」
いのりは軽く肩をすくめた。少しも怯えた様子はない。僕の視線に気づき、いのりは小首を傾げた。
「何?」
「あ、ごめん。怖くないの? こんな不気味な建物なのに」
強がっているようには見えない。いのりは少し困ったような顔をした。
「……変?」
「変じゃないけど。どうしてそんなに落ち着いているんだろうと思って」
さっきだって、自分から扉を開けて、一人でさっさと中に入ってしまった。こんな訳の分からない状況下で、怖いとは思わないのだろうか。
いのりは少し考え込むように俯き、やがて顔を上げた。
「昔からなんだ」
「何が?」
「私、怖いって感覚が、よく分からないの。お化け屋敷とか、お墓とか、夜の学校とか。普通はそういう所は怖いものなんでしょ?」
「うん、まあ……」
「でも、私にはそういうの、よく分からないんだ。全然怖くならないの……やっぱり、変だよね」
いのりは少し寂しそうに顔を伏せた。僕は慌てて首を横に振った。
「別に変だなんて思わないよ」
「だって、普通の女の子は、こういう不気味な場所では怖がるものでしょ?」
「人によるよ。それに、今のこの状況じゃ、かえって心強いよ」
本音だった。いのりが落ち着いていてくれるからこそ、こんな訳の分からない不気味な場所でも、どうにか平静を保っていられる。
いのりは上目遣いで僕を見上げた。
「……本当?」
「本当だよ。分島さんがいてくれてよかった」
そう言うと、いのりは少し顔を赤らめ、照れ隠しのように目を逸らした。
「大げさだな」
いのりはふいっと後ろを向いた。
――やっぱり可愛いな。
こんな子と付き合えたら、最高だろうな。
そんな考えが頭に浮かび、慌てて首を振った。
――何考えてんだ。そんな状況じゃないだろう。
今はそんな事を考えている場合じゃない。一刻も早く、外部と連絡を取らないといけないのだ。
しかし、一つ引っかかることがあった。
――あれ? でも、記憶喪失なのに、昔のことは覚えているっておかしくないか?
僕はいのりの方をチラッと見た。僕の視線に気付いたいのりは、無邪気な顔で僕を見上げた。
「なに?」
「昔のことは覚えてるの?」
いのりは少し間をおいてから口を開いた。
「昔のことはね。でも、ここにどうやって来たのかは思い出せない。それがどうかしたの?」
「いや、何でもない」
僕はいのりから視線を外した。
――僕は、何一つ思い出せない。
どうやら、僕の記憶喪失はいのりよりも、よっぽど重症のようだ。とたんに気持ちが沈んでいった。しかし、今は落ち込んでいる場合ではない。
僕は自分を奮い立たせるように、元気よく声をあげた。
「じゃ、じゃあ、さっそく無線を探そうか」
「うん、そうだね。この洋館、すごく広そうだから、二手に分かれて探そうか」
「え?」
笑顔でそう言ういのり。僕は思わず青ざめる。
「……一人で探すの? バラバラで?」
「だって、その方が効率いいでしょ?」
いのりはキョトンとした顔でそう言った。悪気はないのだ。
僕は周囲を見回した。ホールの中は、窓から差し込む淡い月灯りで、かろうじて見渡す事ができたが、廊下の奥は、ほとんど何も見えないほど暗かった。いかにも何かが潜んでいそうな雰囲気だ。
「あの、お願いします。二人で一緒に行動しませんか」
なぜか、敬語になってしまう。
「どうして?」
「お頼み申します」
「喋り方、変だよ?」
「なにとぞ」
「分かったよ。分かったから、その喋り方やめて」
いのりは不承不承、納得してくれた。恐怖を感じる事ができない、というのは本当のようである。
僕達二人は、洋館の中をあちこち探索した。
「静かだね。やっぱり誰もいないのかな」
いのりが残念そうに一人ごちた。
「せめて、電気がつくといいんだけど」
僕は溜息を吐いた。
洋館の周囲に電柱や電線がない事から察しはついていたが、どうやら、外部から電気は来ていないようだ。廊下の壁には、所々に燭台が備え付けられており、中には溶けたろうそくが残っていた。
しかし、全く電気がない生活なんて、現代日本では考えにくい。もしかしたら、どこかに自家発電用の発電機があるのかもしれない。
「この館の持ち主、いったい、どういう人なんだろう。なんだか、中世の時代にタイムスリップしたみたい」
僕は軽く肩をすくめた。
「見当もつかない。でも、この際、どんな人でもいいよ。とにかく、僕達には情報が必要だ」
「そうだね。ここがどこか分からない以上、無暗に外を動き回っても迷うだけだし」
「せめて、地図でもあればいいんだけどね」
廊下を歩いている途中、僕ふと足を止めた。壁に掛けられている肖像画を見上げる。
「どうしたの?」
「この絵。玄関ホールにもあったよな」
絵の大きさは、ホールにあった肖像画より小さいが、描かれているモデルは、同じ男だった。絵の右下には、ローマ字でYOU AKAIとサインが入っている。
いのりは、僕の隣で絵を見上げた。
「もしかして、この洋館の主人の肖像じゃない?」
「そうかもしれない」
いのりはどこか神妙な顔をして、絵の男を睨み付けた。
「どうしたの?」
「私、なんかこの男の人、好きじゃないな。すごく冷たい感じ」
たしかに、絵の男は、ひどく冷たい目をしていた。歳の頃は、30歳くらいだろうか。しかし、見方によっては、20代にも、40代にも見える、不思議な顔立ちだった。容姿は整っており、かっちりとしたスーツを着込んでいた。表情に生気がなく、感情のない人形のように見えた。
どういう人間かは分からないが、こんな辺鄙な場所にこんな洋館を持っているくらいだから、かなり変わった人間なのかもしれない。
「この人は、今どこにいるんだろう。別の場所に住んでいるのかな」
「そうでしょうね。でも、今はそんな絵よりも、無線か地図を探す方が先じゃない?」
いのりの言う通りだ。
「そうだね。まだ探していない部屋もたくさんあるし」
「そうよ。例えば、この部屋とか」
いのりは、躊躇なく、すぐそばにあった部屋の扉を開いた。いのりに悪気はないだろうが、行動にためらいがないため、いちいち心臓に悪い。
僕達は、いのりが開けた部屋の中に入った。
その部屋は、どうやら倉庫のようで、たくさんの棚と、美術品があった。絵画や、石膏で作られた彫像、器など、多くの美術品が保管されている。倉庫の中は廊下よりもいっそう埃っぽく、息をするたびにせき込みそうになった。
「美術品の保管庫みたいだね」
いのりはケホッとせき込みながら、そう言った。
美術品の善し悪しはよく分からない。ただ、暗がりの中に浮かび上がる美術品のシルエットは、かなり不気味だった。
壁に掛けられた肖像画といい、この洋館の主人は、芸術関係に造詣が深いのだろうか。僕は壁に立てかけてあったキャンバスに目をやった。額装されていないむき出しの油絵で、右下には、YOU AKAIとサインが入っている。よく見ると、倉庫内にあるほとんどの作品に、YOU AKAIのサインが入れられていた。
「分島さん。これ見て。ほとんどの作品に同じサインが入ってる」
「こっちも同じだよ」
いのりは、別の作品を見ながら頷いた。僕は少し考えてから口を開いた。
「もしかして、これは」
「YOUは赤い。お前は赤い。何かのメッセージかな?」
いのりが神妙な顔をして言った。僕はガクッと肩を落とした。それを言うなら、You are red だ。
気を取り直し、僕はコホンと咳ばらいをした。
「メッセージじゃなくて、サインだと思うよ。この館の持ち主が、このYOU AKAI――よう あかい っていう芸術家なんじゃないかな?」
人里離れた芸術家のアトリエ。このどこか浮世離れした館も、それならば少し納得できる。
その時、一つの彫像が目に留まった。石膏で作られた、小さな少女の彫像。その顔に見覚えがあった。
「……分島さん?」
思わず口から出た言葉に、いのりが反応した。
「何?」
なぜか壺の中を覗き込んでいたいのりが、僕の方に振り向く。
「どうしたの?」
「これ……」
僕は目の前の彫刻を指さした。若く美しい少女を模した精緻な彫刻。
「この像……君に似てないか?」
そう。目の前の小さな彫像の顔は、紛れもなく、目の前の少女、分島いのりと瓜二つだった。
いのりは真面目な表情で、彫像の顔を覗き込み、やがて首を傾げた。
「う~ん、そうかな? 小さいし、暗くてよく見えないけど」
「よく見てよ。本当にそっくりだから」
「まあ、世の中、三人はそっくりさんがいるって言うし、私のそっくりさんがモデルなんじゃないの?」
「そんな偶然あるかな……」
「第一、 言うほど似てないよ。この彫刻、すごい美人だし」
そこまで言って、いのりはハッと何かに気付き、警戒した目で僕を睨んだ。
「まさか、遠回しに口説いてる?」
「ち、違うってば!」
そう言うと、いのりは少し拗ねたように目を逸らした。
「……そんなにハッキリ否定しなくてもいいのに」
「あ、ゴメン。君は美人だと思うけれど、今、口説くつもりはないって意味で」
なぜか、慌てて弁解をしている自分が滑稽だった。
いのりはクスッと笑った。
「じゃあ、こんな状況下から抜け出したら、私の事、口説いてみる?」
「え?」
僕は顔が紅潮していくのが分かった。
――もしかして、僕に気があるのだろうか。
しかし、その淡い期待はすぐに打ち砕かれる。
「冗談だよ。それよりも、そろそろ、この部屋出ない? なんだか、埃で喉が痛くなってきちゃった」
いのりはそう言うと、僕を追い越し、さっさと部屋を出て行ってしまった。
――もしかしたら、とんでもない小悪魔かも。
僕はやや身震いしながら、いのりの後を追って部屋の外に出た。
深い水底のような暗闇だった。
ズズ……ズズ……ズズ……
暗闇に体を引きずるような音が響く。
ゴツゴツした不揃いな石が組み合わされてできた、冷たく湿った床と壁。石造りの通路を、何かが這うように移動している。
た……けて……た……けて……
這う音に混じるのは、つぶれた喉から絞り出したようなうめき声。
まるで、全てを呪うような……あるいは救いを求める祈りのような。
うめき声は次第に怨嗟の色を濃くしていく。
――許さない。
それは、強くそう思った。
通路は延々と続き、終わりなどないように思えた。
しかし、諦めるわけにはいかない。決して、逃がしはしない。
そして、必ず。
「……してやる……殺してやる……‼」
「色々見たけど、何も見つからなかったね」
廊下でいのりは大きなため息を吐いた。顔に少し疲れの色が滲んでいる。
倉庫を出た後、他の部屋も調べたが、手掛かりになりそうなものは何も見つからなかった。一階の部屋はあらかた探索し尽くした。
「あとは、二階かなあ」
「情報収集と言ったら、やっぱり図書室よね。図書室を探しましょう」
いのりが自信満々にそう言い切った。
――そんな探索ゲームじゃないんだから。
「図書室なんて、普通の家にあるかな?」
「これだけ広い館なら、きっとあるよ。図書室とまではいかなくても、書斎とか」
たしかに、書斎ならあるかもしれない。
「そうだね。とりあえず、二階へ行ってみよう」
いのりはニッコリ笑って僕の手を取った。
「決まり。そうと決まったらさっそく行こう」
いのりは僕の手を取るとグイグイ引っ張りながら歩き出した。
「ちょ、ちょっと待って。階段はそっちじゃないだろ」
二階への階段は、玄関ホールにあったはずだ。
いのりの足がピタリと止まる。
「わ、分かってるよ。そんなの。さっき、別の階段を見たんだよ」
「そんなのあった?」
「あったよ。私、見たもん」
いのりは少しむきになってそう言った。
――あったかな? そんなの。
不審に思いながらも、いのりの後についていく。すると、たしかに目立たない場所に細い階段を見つけた。
「ほらね。言った通りでしょ?」
いのりは少し得意げに胸を張った。
「ほんとだ。僕は全然気付かなかったよ。よく、こんなの見つけたね」
「ふふん。探し物は得意なの。今まで私が探して見つからなかった失くし物はないんだから」
「そりゃすごいな」
「私、けっこう執念深いの。諦めが悪いのよ。だから……今回も、絶対見つけてみせる」
一瞬、いのりの目に冷たい光が宿ったような気がした。
「? うん、そうだね。早く無線を見つけないとな」
いのりは無言で頷いた。
二階に上がり、最初の部屋に入った。
そこは、図書室だった。
「ね? やっぱりあったじゃない。図書室」
いのりが得意げに言った。
「すごいや。本当に図書室だ」
たくさんの棚に、数え切れないほどの書物。ご丁寧に書見台まで置いてある。
「こんなにたくさんあるのに、廃墟に置いておくのもったいないね」
いのりはやや浮き足立っているようだった。
「本、好きなの?」
いのりは大きく頷いた。あんなに嬉しそうな彼女を見たのは初めてだ。
「じゃあ、さっそく調べましょうか。私は向こうの棚を調べるから、君はそっちの棚を調べて」
勝手にそう決めると、いのりはいそいそと棚の奥へ消えてしまった。
――やれやれ。脱線しないか心配だな。
僕はとりあえず示された棚の本を適当に取ってみた。
「画集、美術史、彫刻の写真集……美術関係の棚か」
ふと、棚の一か所に、無理やり雑誌や新聞紙の切り抜きが詰め込まれている箇所があった。僕は何気なく、新聞紙を引っ張り出してみた。その拍子に他の本も何冊か床に落ちた。
「あ、いけね」
僕は床に落ちた本を拾おうとしゃがみこんだ。本を手に取ろうとした瞬間、開いた本のページに目が留まった。本を拾い上げ、ページをまじまじと見つめる。
「これ……」
それは、芸術家を紹介した雑誌だった。開かれたページには、見覚えのある顔……あの肖像画に描かれた男の写真が掲載されている。記事の下には、「新進気鋭の天才芸術家、赤井羊。史上最年少で、○○美術館に作品を所蔵」と書かれていた。
「赤井羊……」
あれらの肖像画は画家自身の自画像だったらしい。という事は、この館は天才芸術家、赤井羊の家なのだろうか。
僕は本と一緒に床に散らばった新聞紙の切り抜きを拾い上げた。その時、思いもよらない記事が目に飛び込んできた。
僕は思わず声を漏らした。
「なんだよ、これ……」
切り抜かれた記事には、いのりの顔写真が掲載されていた。そして、その横に、太字でこう印字されている。
『15歳少女。行方不明』
また、別の週刊誌の切り抜きには、赤井羊の顔写真が掲載されており、その横にはこう書かれていた。
『猟奇殺人犯、未だ行方分からず』
――猟奇殺人?
記事には続けてこう書かれていた。
『○月○日、芸術家の赤井羊の都内自宅より、複数人の遺体が発見された。遺体はいずれも未成年で、防腐処理を施されていた。赤井羊は逮捕直前に逃亡。現在、捜索中である』
心臓が痛いくらいに脈打つ。
――嘘だろ、こんな、こんな。
僕は他の切り抜きをかき集め、食い入るように文字を追った。他の切り抜きには文字のみでこう書かれていた。
『都内の男子高校生、椎名響さんが、○月○日未明から行方不明。警察は、都内で頻発している連続未成年者失踪事件と関係があるとみて捜査をしている。なお、椎名響さんは、行方不明中の分島響さんと交際中だった』
『逃亡中の赤井羊が連続未成年者失踪事件に関与している疑いがある』
――椎名響。
突然、頭がズキンと痛んだ。
その名前には覚えがあった。
「椎名響……そうだ、僕の名前は……椎名響だ」
僕の名前は椎名響。都内に通う男子高校生だ。
しかし、それ以上は何も思い出せない。家族の顔も、どうやってここに来たのかも。
――落ち着け、落ち着け。情報を整理しろ。
この洋館は、天才芸術家で猟奇殺人犯の赤井羊の家。これは、おそらく間違いないとみていい。もしかしたら、赤井羊の隠れ家なのかもしれない。僕――椎名響と、分島いのりは、都内で頻発している連続未成年者失踪事件の被害者だ。そして、赤井羊は、この事件に関係がある可能性が高い。
つまり、僕といのりは、赤井羊によって、この洋館に拉致されてきたのではないか?
そして、何らかの手段で、僕達は記憶を失わされたのだ。
顔からサッと血の気が引いた。
「分島さん、分島さん!」
僕は思わず悲鳴のような声でいのりを呼んだ。
少しして、棚の奥からいのりが現れた。なぜか、手には大きな西洋刀を携えている。
「なあに? 大きな声出して」
「な、何それ」
「ああ、これ? 向こうの壁に飾ってあったの。装飾用みたい。いきなり呼ばれたから持ってきちゃった。それよりどうしたの? 何か見つかった?」
僕はいのりに、床に散らばった切り抜きを見せた。いのりは、厳しい目で記事を見つめた。
「これ……どこにあったの?」
「そこの棚に挟まってた。この記事に載ってるの、分島さんだよね?」
いのりは記事に載った自分の顔写真を見つめ、頷いた。
「そうね」
「何か覚えてないの?」
いのりは力なく首を横に振った。
「覚えてない、でも、これは間違いなく私だわ」
「やっぱり。僕は、おそらく、この椎名響だ」
いのりは大きく目を見開いた。
「……たしかなの?」
「記憶が戻ったわけじゃないんだけど、たぶん、そうだと思う」
「そう……」
いのりはなぜか、軽く目を伏せた。僕はハッとする。
――交際中って書いてあった。
記事には、僕こと椎名響と分島いのりは交際中である、と書いてある。途端に気まずい雰囲気が流れる。
しかし、今はそんな事を言っている場合ではない。
ショックな情報にまだ頭が混乱しているが、やるべき事はこれでハッキリとした。
「今すぐ、ここから逃げよう。まだどこかに赤井羊が潜んでいるかもしれない」
あるいは、今は外出しているだけで、いずれは赤井羊が戻ってくるかもしれない。その前に、何とかして逃げ出さなければならない。
僕はいのりの手を掴み、引っ張っていこうとした。しかし、いのりは頑として動かなかった。
「どうしたの? 早く逃げないと」
「私、行きたくない」
僕は驚いて目を丸くした。
「何言ってるんだよ」
「だって、もしかしたら、私達の他にも拉致されている子がいるかもしれないんだよ? その子を置いて自分だけ逃げられないよ」
「そんな事言ってる場合かよ」
思わず語気が荒くなる。
しかし、いのりはキッと僕を睨み据えたまま、一歩も引く気配がない。
そうだった。いのりには恐怖の感情がないのだった。だから、今がどれほど危険な状況なのか、実感できていないに違いない。
――どうする?
いっそ、いのりを置いて、一人で助けを呼びに行くか。
しかし、掴んだ手を離す事はできなかった。こんな危険な場所に、危険を理解できない子を一人で置いていくなんて、そんな事、できるはずがない。
かといって、頑として譲る気配のない彼女を説得できる自信はなかった。僕はガックリと肩を落とす。
「……分かったよ。僕も探すよ」
諦めたようにそう言うと、いのりの表情はパアッと明るくなった。
「ありがとう! そう言ってくれると思った」
いのりは無邪気に喜んだ。
――まあ、逃げたところで、こんな山深い場所で地図もないんじゃ、結局、遭難するだけだしな。
「でも、全部の部屋を確認して、他の被害者がいなかったら、すぐ逃げるんだぞ」
いのりは大きく頷いた。
「山を出るための地図も探さないとね」
そう言って笑ういおりの笑顔が、胸に引っかかった。何かを忘れているような気がする。しかし、それが何かは思い出せない。
僕達は、残りの部屋を調べるため、図書室を後にした。
僕達は、二階の部屋を一通り、全て調べたが、結局誰もいなかった。
「だから言ったろ。僕達しかいなかったんだよ」
僕はホッと胸をなでおろした。しかし、いのりはまだ納得していない顔である。
「まだ探していない場所があるのかも」
「ないよ、そんなの。部屋、全部調べたじゃないか」
「君は何か思い出した事とかないの?」
「何かって……」
僕は少し考え込む。実は、館の中を歩き回るうちに、断片的ではあるが、ときどき、何かの記憶が脳裏をよぎる事があった。
「真っ暗な……石壁がある場所があったような……」
「石壁? でも、この館にそんな壁がある所なんてなかったよね」
「うん。だから、たぶん気のせいだよ」
しかし、いのりは納得していないようだった。
「暗い、石壁……もしかして、地下室か何かかな?」
「でも、一階に地下への階段なんてなかったよ」
「隠してあるのかもしれないよ。よーし、じゃあ、まず地下への入り口を探そう!」
いのりはそう言って、西洋刀を振り上げた。僕は思わず顔を引きつらせた。
「なんで、それ、いつまでも持ってるの?」
「だって、殺人犯が潜んでいるかもしれないんだから、これくらいないとね」
いのりはそう言って、西洋刀を振り回した。しかし、全く様になっておらず、ふらふらとよろけている。
「あれ? あれれ?」
「……僕が持とうか?」
「い、いい。平気。私が持つから」
いのりは西洋刀を抱きしめるように抱えたまま、足早に歩きだした。
――けっこう意地っ張りなんだな。
でも、強がるところは、ちょっと可愛い。
――この子と恋人同士だったのか。
こんな状況にも関わらず、かすかな優越感が胸をくすぐった。
僕はいのりの後を追って、一階へ向かった。
一階に降り、ずいぶんと探したが、地下への入口らしきものは見つからなかった。やっぱり隠してあるのか、あるいは、そもそも、そんなものは最初からないのかもしれない。記憶があいまいなだけに、だんだん自信がなくなってきた。
「やっぱり、諦めて逃げないか? 他の被害者も、僕達みたいに、とっくに外に逃げているかもしれないよ」
「ダメ。そんなの絶対ダメ」
「そんな事言ったって、もう探す所なんてないだろ?」
「ダメ。見つかるまで探すの」
いのりはキッパリとした口調でそう言った。僕は溜息を吐いた。
何をそんなに意固地になっているのだろう。僕は次第に腹が立ってきた。
「じゃあ、もう勝手にしたら? 僕は行くよ」
そう言い、僕はいのりに背を向けた。その時、背後から服の裾を引っ張られる。振り向くと、いのりが俯きながら、僕の服の裾をつまんでいた。
「行っちゃうの?」
切なそうに僕を見上げるいのり。僕は思わずたじろいだ。
その時、何か、物音が聞こえた気がした。かすかな声のような。
――なんだ?
「分島さん。今、何か聞こえなかった?」
「え?」
「何か、声みたいな音が聞こえた気がしたんだけど」
「私には何も聞こえなかったけど……」
空耳か? いや、かすかだけど、たしかに聞こえたのだ。獣の咆哮のような叫びが。
「こっちだ」
僕は声の聞こえた方に向かって歩き出した。いのりは、怪訝そうにしながらも、黙って僕の後をついてきた。
僕は彫り細工が施してある壁の前で立ち止まった。一見すると、ただの壁。しかし、たしかにこの辺りから声が聞こえたのだ。
僕は壁の彫り細工に手を伸ばした。よく見ると、かすかに切り込みがある。僕は思い切って、その細工を押してみた。すると、細工はスイッチのように壁に押し込まれ、壁の一部が扉のように開いた。隠し扉だ。
「すごい! すごいよ‼ 本当に見つけちゃった」
いのりが大喜びで飛び跳ねた。僕自身も驚いている。まさか、本当に隠し扉があったとは。
扉の奥には、地下へと続く石の階段があった。僕はごくりと息を飲む。正直、行きたくないと思った。真っ暗な口の中に足を踏み入れるような気分だった。
「行こ! さあ!」
いのりは僕の手を引いて、扉の中に飛び込んだ。何のためらいもなく。
「わ、ちょっと待って。まだ心の準備が」
「大丈夫よ。いざとなったら、私がこれで響君を守ってあげるから」
いのりは、彼女の小さな手には余る西洋刀を掲げてみせた。
――いや、それは無理だと思うが。
しかし、彼女に初めて名前で呼ばれた事に、感動している自分がいた。
――まいったなあ。
彼女の思う壺だ。しかし、それが分かっていながら、それも悪くないと思ってしまっている自分がいる。かなり重症だ。
僕は、いのりに手を引かれるまま、暗い階段を下り始めた。
階段は暗く、じっとりと湿っている。開けっ放しにしてある入口から、かろうじて、わずかな光が入り、足元を照らしてくれるが、そもそも外光も月の光だけなので、ほとんど暗闇と変わりなかった。
いのりは、後ろから僕の服の裾をがっちりと掴んで放そうとしない。
「ねえ、ほんとにちゃんと前にいる?」
いのりは少し不安そうな声でそう言った。先ほどまでの威勢はどこへやらだ。
「いるに決まってるだろ。服、掴んでるじゃないか」
「だって、全然見えないんだもん。いつの間にか、誰かと入れ替わってたりしないよね?」
僕は思わずぷっと噴き出した。
「はいはい、ご心配なく。僕は椎名響ですよ。他の誰でもございません」
そう言うと、いのりは黙り込んでしまった。どうやら、階段を下りるのに必死で、返事どころではないらしい。
しばらく階段を下りると、扉らしきものが見えた。
「分島さん、あれ」
「え? どれ?」
「あそこに扉がある」
いのりは暗闇の中でジッと目を凝らしているようだった。
「……本当だ、扉がある!」
弾んだ声でそう叫んだ。
僕は息を飲み、扉に手をかけた。掌に湿った木の感触が伝わる。
――なんだ? 変な匂いが。
扉の奥から悪臭が漏れてくる。
「いい? 開けるよ」
僕はいのりに念を押した。いのりがコクリと頷く。僕は意を決して、ゆっくりと扉を開いた。
ギギギギ……
音をたてないように注意しながら開いたのに、古びた扉は大きな音を立てて軋んだ。
地下室は真っ暗で何も見えなかった。ただ、大量の肉が腐ったようなひどい悪臭が充満していた。思わず吐きそうになる。
「ひどい匂い。それに何も見えないわ」
いのりが、おそらく眉をしかめながら、そう言った。
「出よう。窒息する」
僕がそう言ってユーターンしようとすると、鼻声のいのりが僕の腕をつかんだ。おそらく、もう片方の手で鼻をつまんでいるのだろう。
「ダメよ。調べてからじゃなきゃ」
「だって、この匂いじゃ……それに何も見えないし」
「窓もない部屋だもの。たぶん、灯りになる物があるよ」
いのりは僕の手をつかんで離さない。僕は溜息を吐いた。
「……分かったよ」
僕といのりは壁に手を当てながら、ゆっくりと前に進んだ。
その時、僕の足が何かに当たった。硬い木材のような……。僕は注意深く手を伸ばし、それの形を探った。どうやら、木製の机のようだ。運のいい事に、上に燭台らしきものが置いてあり、燭台の上には、わずかだが蝋燭も残っていた。そして、数本のマッチも同じ場所に置いてある。
「机と、それに蝋燭とマッチがある」
「本当?」
「ああ。しけってなきゃいいけど」
僕は机にマッチをこすりつけた。しかし、やはりしけっているのか、何度やっても、なかなか点火してくれない。何本か失敗し、最後の一本でようやく火をつける事ができた。
「よし! ついたぞ!」
僕は、せっかくついた火が消えないよう、慎重に、火を蝋燭に移した。蝋燭に火が灯ると、ようやく、いのりの顔を見る事ができた。しかし、その表情は険しいものだった。
「分島さん? どうしたの?」
不審に思い尋ねると、いのりは険しい表情のまま、部屋の奥を指さした。
「……あれ」
いのりの指さした方向を見る。まだ暗すぎてよく見えない。僕はゆっくりと近付きながら、蝋燭の火を照らした。
次の瞬間、僕は思わず言葉を失った。
――なんだよ、これ。
部屋の中央には木製の長机があった。その上に、何か大きな塊が横たわっている。黒ずんだそれは、人の形をしていた。服は着ておらず、腹部は縦に大きく切り開かれている。腹部の切開創から、腸のような物がはみ出していた。
僕は呆然と立ち尽くした。あまりの衝撃に油断し、鼻から思い切り空気を吸い込んでしまった。僕は鼻腔を通りぬけた悪臭に吐き気を催す。
――どうなっている。
腹部を切り裂かれた死体。
頭に猟奇殺人という言葉が浮かぶ。やはり、間違いない。ここは、赤井羊の隠れ家なのだ。
赤井羊は拉致した人間をこの隠れ家に運び、殺人を行っていた。よく見ると、部屋の片隅に、肉の塊のようなものが積み上げられている。僕はそれを正視する事ができなかった。あの量から察するに、一人や二人ではない。
「ねえ、机の上」
いのりが落ち着いた声で囁いた。
よく見ると、燭台が置いてあった机の上に、所々赤黒く汚れている一冊の日記帳と、万年筆が置いてあった。僕はそのノートに手を伸ばし、震える手でページをめくった。
『○月○日 今日も理想通りのモチーフに出会えなかった』
『○月○日 創作意欲が湧かない。どいつもこいつもくだらない俗物ばかり。気がおかしくなりそうだ』
『○月○日 今日、美術雑誌の記者がインタビューに来た。おべんちゃらばかり並べる愚者だ。薄っぺらい笑顔を浮かべて、次回作の構想を聞いてきた。僕がスランプ中なのを知っているくせに』
『○月○日 すれ違った他人が、すれ違いざまに僕の顔を見て笑った。いつか、殺してやる』
それは日記だった。持ち主は言うまでもない。
僕はさらにページをめくった。
『○月○日 とんでもない事をしてしまった。ファンだと名乗り、どうやって調べたのか自宅まで押しかけてきた若い女を、勢い余って殺してしまった。とりあえず、冷蔵庫の中身を全て外に出し、女の死体を中に詰める。大型の冷蔵庫を買っておいて良かった』
『○月○日 女の死体をどうやって始末するか一晩考えたが、良いアイデアが浮かばない。思いつめて、冷蔵庫の扉を開ける。すると、生きていた時より、よほど美しい冴えた顔がそこにあった。僕は一瞬で目を奪われた。生きている時は、少しも魅力を感じなかったというのに。まるでビスクドールのような静謐な美しさだ。世俗から切り離されただけで、感情がなくなっただけで、俗物が至高の存在に昇華した。僕は神に感謝した。
考えを切り替えよう。処分などする必要はない。きちんとした処理を施せば、腐らせる事無く、この美しさを保存しておけるはずだ。
僕はさっそく死体の保存方法を調べた。剥製、エンバーミング、プラスティネーション。素人にできるだろうか。知り合いに剥製を作る奴がいる。そいつに材料をもらおう』
『○月○日 遅すぎた。やっと材料を揃えたが、その時には女の死体は既に膨らみ、水が出ていた。これでは腐った肉と変わらない。もうあの美しさはない。氷を使って冷やしていたのだが、遅すぎたのだ。
やむなく、深夜に車で死体を運び、郊外の山中に埋める。見つかる危険もあったが、今は、醜い肉塊のために割いている時間がおしい。このモチベーションが下がらないうちに、次の創作活動にとりかからなければならない。女が、僕の家に行くという事を、周囲に漏らしていなければよいのだが』
『○月○日 女の死体を始末してから数日経ったが、まだニュースになる気配がない。もしかしたら、家族や友だちのいない女なのかもしれない。そうであれば、事件が発覚するのには時間がかかるだろう。
僕は新しいモチーフを得るために、外で人間を物色した。めぼしい若者を見つけたので確保。家で殺し、準備しておいた材料で、さっそく処理を始める。全身を洗浄、消毒し、頸部を切開する。頸部の動脈から、水に溶かしたホルマリンを注入。静脈から血液を排出し、体の血液を入れ替える。続いて、内臓の処理だ。本来、この作業には中身を吸い出す特殊な器具が必要なのだが、残念ながら、我が家にそんな物はない。体に傷が増えるのは残念だが、腹部を切開し、中から内臓を取り出し、代わりに、石膏とボンドを混ぜた物を詰める。素人仕事だが、思いのほかうまくいったのではないか。長く持つかどうかが心配だ』
「コイツ、狂ってやがる……」
僕は日記を読みながら吐き捨てた。日記帳を閉じてしまいたかったが、僕やいのりの名前が出てくるのではないかと思うと、ページをめくる手を止められなかった。
『○月○日 先日、作品にした女の失踪が、ついにニュースになった。自宅で作品制作を続けるのは、そろそろ限界かもしれない。悩んだが、郊外の別荘に居を移す事にする。あの場所は、誰にも住所を教えていないし、しばらくは見つからないだろう』
『○月○日 ニュースに僕の名前が出た。別荘に移った後でよかった。僕はついてる』
その後、別荘に居を移した赤井羊が、たびたび、車で街に出ては、めぼしい人間を何人も拉致した事がつづられていた。
「車があるらしい」
僕がそう言うと、いのりは首を傾げた。
「でも、館の外に車なんてなかったよ」
それどころか、館の周囲は鬱蒼とした木々で囲まれており、小道らしきものすらなかった。
「あえて、館から離れた場所に駐車しているのかもしれない。無理に森を車で通ったら轍跡が付いて館の場所が外部にばれるかもしれないだろ。たぶん、街へ通じる道の近くに停めてあるんだよ」
車があればありがたい。ここがどこか分からない以上、運良く森を抜けられたとしても、人のいる所まで歩いて移動するのは、かなり時間がかかりそうだ。
僕はページをめくった。
『○月○日 僕はついにやった。最高のモチーフに出会えた。街で見つけた美しいその少女をさっそく確保し、睡眠薬で気を失っている間に、別荘に運ぶ。生徒手帳から名前が分かった。少女の名前は、分島いのり。彼女こそ、僕の探し求めていたミューズだ。彼女をすぐに殺すのはもったいない。彼女はじっくり壊す事にしよう』
僕は息を飲んで、傍らのいのりを見た。いのりは、ただ黙って日記を睨み据えている。
『○月○日 いのりには、特別に部屋をあてがった。調度の揃った美しい寝室だ。しかし、彼女は不安そうに怯えるばかり。これではいけない。女神はもっと超然としていなければならない。僕は先に拉致した人間を、彼女の部屋に運び、その人間を処理する所を彼女に見せる事にした。初めは泣きわめいて怯えていたが、何人か処理する内に、感情を手放したように何も言わなくなった。いのりの表情を見て僕は震えた。彼女は生きながらにして死体となった。死ぬ事なく、至高の存在になったのだ。これで、殺したり、面倒な処理などする必要はない。素晴らしい』
『○月○日 不愉快な事があった。いのりの恋人を名乗る男が、別荘にやってきた。別荘に侵入しようとしていた所を、僕が捕えたのだ。一体、どうやってこの場所を突き止めたのか。男の持ち物から、名前が分かる。椎名響。そいつは、僕に向かって「いのりはどこだ」と叫んだ。自分はいのりの恋人だと喚いている。忌々しい。よりによって、いのりの恋人を名乗るだなんて。彼女に、こんな俗物の恋人など、いてはならないというのに。こいつはすぐには殺さない。僕の作品にも加えない。こいつはじわじわ時間をかけて殺すとしよう。
この男の姿を見たいのりが、久しぶりに感情を露わにし、金切り声で男の命乞いを始めた。やはり、この男は毒だ。せっかく静謐な人形のようだったいのりが、人間に戻ってしまった。僕は、男を隠し部屋に閉じこめ、拷問を加えた。隠し部屋の場所は、いのりも知らない』
日記はここで終わっていた。
――拷問? 僕は拷問を受けたのか?
体から嫌な汗が溢れる。いったい、どのような拷問が行われたのだろう。頭部の傷も、その拷問で負ったのだろうか。
「……分島さん、すぐにここを出よう」
もう一秒たりとも、ここにはいたくない。しかし、いのりは頑として頷かなかった。
「でも、まだ奥があるみたい」
いのりが部屋の奥を指さす。指差された先には、奥へ続く通路があった。僕は首を横に振る。
「ダメだ。これ以上、深入りしない方がいい。それよりも、一刻も早くここを出よう。もうこれ以上は手に負えない」
「でも……」
僕はひどい悪臭と死体と、日記に書かれていた事に対するショックで、今にも狂いだしそうだった。僕は声を荒らげた。
「いい加減にしてくれ! もうこれ以上、付き合っていられないよ」
しかし、いのりは僕を見ておらず、その視線の先には、奥へと続く通路があった。
「ねえ、何かいるわ」
いのりが囁くような声でそう言った。僕は背筋を冷たい指で撫で上げられたような気がした。僕は通路を凝視する。通路はろうそくの灯りが届かず、塗りつぶされたような暗闇である。しかし、意識して見ると、たしかに、何かの気配を感じた。
――何かいる。
被害者の生き残り? あるいは。
僕は近くに落ちていた木の棒を拾い、構えた。
「誰かいるのか」
通路に向かって声をかける。しかし、返事はない。
動悸が激しくなる。僕はもう一度声をかけた。
「おい、誰かいるなら、返事をしてくれ」
次の瞬間、通路の闇が動いた。闇から飛び出したそれは、素早い動きで部屋を走り回り、驚いた僕がバランスを崩した。次の瞬間、それは僕に向かって飛びかかってきた。
「うわあああ‼」
そいつは僕に覆いかぶさり、僕の首を絞めた。僕は持っていた棒をむちゃくちゃに振り回し、そいつを引きはがそうと抵抗した。運良く棒がそいつの頭に当たり、そいつは後ろにつんのめった。僕はその隙に、そいつを思い切り突き飛ばし、後ろに後ずさった。僕に突き飛ばされたそいつは、壁にぶつかり、苦しそうにうめいた。
僕は改めてそいつを見た。ボロボロのカーテンのような物で体全体を包み、体中から悪臭を放っていた。布の隙間からわずかに顔がのぞき、その顔には大きな火傷痕があった。僕は、赤井羊の肖像画を思い出した。
「お前……」
男は布でサッと火傷痕を隠し、口の中で呪詛のように何かを呟いた。
「……してやる。殺してやる。殺してやる‼」
男はゾッとするような目で僕を睨む。僕は背後にいるいのりに言った。
「分島さん、こいつは赤井羊だ。君は急いで部屋から出て逃げるんだ」
いのりは言葉も出ないのか、返事をしなかった。
「急いで! 赤井は僕が引きつけておくから、その隙に」
僕は赤井に向かって棒を構える。
ドスッ
鈍い音と衝撃があった。
何が起こったのか分からず、しばし、呆然とする。
背中から腹にかけて貫かれた、激しい痛み。見下ろすと、僕の腹部から、そこにあるはずのない刃物の切っ先が飛び出ていた。僕は後ろを振り返る。一瞬、いのりが僕の背中に縋り付いているのかと思った。しかし、そこに怯えた顔はなく、いのりは鋭い目で僕を見上げていた。僕は声を出す事もできず、そのまま床に倒れこんだ。
状況を把握するのに少し時間がかかった。僕の体を貫いたのは、いのりが持っていた西洋刀だった。いのりの手には、べっとりと血が付いている。無論、僕の血だ。
「……どうして?」
なぜ、自分がいのりに刺されなければならない。意味が分からず、僕は呆然とした。
いのりは倒れた僕をまたぎ越し、驚いた事に、赤井羊に駆け寄った。
いのりは震える手で赤井を抱きしめた。
「よかった、生きてて。すぐに見つけてあげられなくてゴメンね。遅くなってゴメンね」
いのりは涙声でそう言うと、赤井羊を抱きしめる手に力をこめた。赤井は気がおかしくなっているのか、いのりの事が分からないようで、奇声を発していのりを威嚇した。
「怖がらないで。私だよ。いのりだよ。分かるでしょ?」
いのりは赤井をなだめながら、必死に訴えかける。僕は気が遠くなりそうになりながら、なんとか気力を振り絞って声をあげた。
「……何してるんだ。そいつから離れろ。そいつは殺人鬼なんだぞ」
いのりは、僕の言葉に振り返った。その目には、冷たい光が宿っていたが、気が動転しているようには見えなかった。いのりは冷めた口調で一言だけ呟いた。
「まだ分からないの?」
いのりはそう言うと、暴れる赤井を無理やり立たせ、抱きかかえるようにしながら歩き始めた。
――待て。どこへ行く。
なぜ、そいつを助ける。そいつは僕達を拉致した殺人鬼だろう。なぜ、僕を置いていく。僕は君の恋人のはずだろう。
「……待て」
僕の声をいのりは無視した。いのりと、彼女に支えられた赤井が、倒れた僕の傍を通り過ぎてゆく。
――行ってしまう。いのりが行ってしまう。
「……許さないぞ」
僕は低い声で言った。いのりが立ち止まって、僕を振り返る。
――そうだ、置いていくなんて許さない。僕を置いて、そいつと出て行くなんて。僕は君の恋人だ。君を殺人鬼から救い出しにやってきたヒーローだぞ。そうだ、いのりは気がおかしくなっているんだ。そうに決まっている。
僕は作戦を変えた。
「お願いだ……助けてくれ……」
目に涙を浮かべ、いのりに言った。いのりは、哀れに思ったのか、少しだけ目を伏せる。しかし、すぐに厳しい表情に戻り、再び、前を向いて歩きだした。僕はその後姿を見た瞬間、頭の中で何かが切れたような気がした。
「こんな事をしてただで済むと思うな。絶対に許さないからな。お前はぼくのものだ。僕のいのりだ。絶対、お前なんかに渡さない。いのりは僕のものだ」
呪詛のような言葉がよどみなく口から溢れる。まるで心の栓が外れたように、悪意が溢れて止まらない。
いのりはもう振り返らなかった。二人は僕を置いて、地下室から出て行った。部屋の扉は固く閉じられ、小さく揺らめくロウソクの灯りだけが残った。しかし、それもやがては消え、後には完全な暗闇が残った。
――なぜ、こんな事になったのだろう。
もう、自分が生きているのか死んでいるのかも分からない。
僕はただ彼女と一緒にここから出たかっただけだ。この暗く、冷たい世界から、暖かく、明るい外の世界へ。ただ、それだけだったのに。
もう扉は堅く閉じられてしまった。きっと二度と開く事はない。
――そういえば、彼女は僕を響と呼んだ事がない。
僕の意識はそこで途切れた。
数日後、行方不明中だった分島いのりからの警察への通報で、赤井羊の隠れ家が発見された。
隠れ家の地下室からは、行方不明者達の死体と、背中から腹部にかけて西洋刀で刺し貫かれた――赤井羊の死体があった。
エピローグ
私、分島いのりは、あそこで起こった事を、生涯、誰にも口にはしないと誓う。
しかし、何の記録もなければ、この先、私はあそこであった事を、都合よく夢か何かと思い込んでしまうかもしれない。時間が経つにつれ、あの異常な出来事が夢の中の出来事だったのではないかと、脳が錯誤するかもしれない。それくらい、強烈で異常な体験だった。
夢だったと思い込めるのであれば、それはそれで幸せかもしれない。しかし、私はあそこで起きた事を詳細に記録しておこうと思う。夢だと思う事は、命がけで私を救いに来てくれた椎名響君を裏切る事になる。そんな気がするから。
私が初めてあの男――赤井羊に出会ったのは、霧雨の降る夕方だった。相手は黒い傘をやや前傾姿勢で差しており、顔がよく見えなかった。
――傘を差すほどの雨でもないのに、変なの。
男は私に駅の場所を聞いた。私は不審に思いながらも、駅の場所を教えてやった。次の瞬間、男はトレンチコートのポケットから薬品か何かを染み込ませたハンカチを取り出し、私に嗅がせた。私は必死に抵抗したが、徐々に気が遠くなっていき、やがて、意識を失った。
次に目を覚ました時、私は見知らぬ部屋にいた。薄暗い洋風の寝室で、ふかふかなベッドに寝かせられていた。
自分で言うのもなんだが、私はわりと冷静な方だ。だから、一瞬で自分の置かれた状況を理解した。私は誘拐されたのだ。あの黒傘の男に。
その時、部屋の扉が開き、一人の男が入ってきた。背格好からして、あの時、私に声をかけてきた男だとすぐに分かった。男の顔には大きな火傷痕があった。私はその顔に見覚えがあった。そうだ、ニュースで見た事がある。巷を騒がせている、猟奇殺人事件。その犯人である赤井羊と同じ顔だ。
私は怯えを悟られないよう、赤井を睨み付けた。赤井は私をじっと見つめると、やがて溜息を吐き、まだ足りない、と呟くと、部屋から出て行った。
拉致監禁されてから数日が経過した。今のところ、殺されるような気配はない。赤井は朝昼晩、私に食事を運び、たまに、無言でクロッキー帳を広げ、私をデッサンした。
部屋には鍵がかかっており、部屋の外には出られなかったが、部屋の中にはトイレもシャワー室も付いていたので、その点に関しての不自由はなかった。しかし、不自由はないとはいえ、所詮はかごの鳥だ。窓には鉄格子がはめられており、窓から逃げるのは無理そうだった。
ある日、赤井は私の部屋に一人の女性を連れてきた。一目で私同様、どこからか拉致されてきたのだと直感した。
赤井の肩に抱えられたその女性は、ピクリとも動かなかった。よく見ると、目も口も半開きになっており、顔にも生気がない。その女性は既に息絶えていた。私は恐怖で声も出ず、部屋の隅に移動した。
赤井は死体を私のベッドの上に乗せ、死体の服を脱がし始めた。赤井は全裸になった女性の首筋を確かめ、やがて鋭利なナイフで首を切り裂き、そこから、何か液体を注入し始めた。そして、しばらくすると、女性の腹部を切り裂き、中から臓器を取り出し始めたのだ。
私は恐怖のあまり、悲鳴をあげ、涙を流しながら、必死で許しを乞うた。「お願いだからやめて」と繰り返す私。それでも、赤井は作業の手を緩めなかった。
最後まで作業が終わると、赤井は私の前にしゃがみ、私の顔をじっと見つめた。そして、まだ足りない、と呟くと、処理した死体を抱えて部屋を出て行った。
次の日も、その次の日も、この地獄のような作業は続いた。ベッドには哀れな人達の血と体液が染みついているため、私は毎夜、床の上で夜を明かした。眠れないのは床の堅さのせいではない。赤井が見せる異常な行いが脳裏に焼き付いて離れないのだ。
――明日は自分がああなるかもしれない。
そう思うと、気がおかしくなりそうだった。
ある日、赤井は一人の少女を連れて、私の部屋にやってきた。私はその少女を見て愕然とした。その少女はまだ生きていたのだ。おそらく、私と同じくらいの年齢で、後ろ手に縛られ、口にはさるぐつわがはめられていた。涙を流しながら、必死に抵抗しようとしている。彼女は私と目が合うと、喋れない口で必死に私に助けを求めた。
赤井は少女を血だらけのベッドに寝かせると、サバイバルナイフを取り出した。少女の目に絶望的な恐怖の色が宿る。少女は部屋の隅で硬直している私に、目で助けを求めた。私は彼女に手を伸ばそうとした。しかし、次の瞬間、赤井が静かな声で言った。
「そこで見てろ」
私は氷のように動けなくなった。頭では少女を助けたいと思っているのに、恐怖で体が動かない。
次の瞬間、少女の薄い胸にナイフが振り下ろされた。少女は何度か痙攣し、やがて動かなくなった。赤井が少女の体からナイフを引き抜くと、傷口から噴水のように血が溢れ、部屋の壁まで血しぶきが飛んだ。私の顔やブレザーにも。
私は狂ったように悲鳴をあげた。少女の目は、私の方を見たまま、やがて死人のそれになった。その目を見た瞬間、私の頭の中で何かが途切れた。目の前の景色が画面に切り替わり、私は、真っ暗な部屋でその画面を見ている一人の観客になった。まるでテレビでも観賞するかのように。そうすると、不思議とあれほど恐ろしかった光景が、怖くなくなったのだ。恐怖の感情を伝える回路が切断されてしまったように、私はそれ以来、恐怖を感じる事ができなくなった。
少女の処理が終わると、赤井はいつも通り、私の顔を覗き込んだ。赤井は私の顔を見るなり、「素晴らしい」と呟き、少女を連れて部屋を出て行った。
数日後、大変な事が起きた。
恋人の椎名響君が、私を助けに、私が監禁されている館にやってきたのだ。鉄格子のはまった窓から、彼の姿が見えた。彼は館に侵入しようとしていた。しかし、私の歓喜もつかの間、彼は赤井に捕まってしまった。私は必死に赤井に彼の助けを乞うたが、赤井は響君に拷問すると言い、彼をどこかに連れて行ってしまった。
響君を救わなければならない。私は赤井が食事を運んできた時に、部屋に置いてあった花瓶で赤井の頭部を殴りつけた。赤井が気を失っている隙に部屋から脱出し、赤井が出られないように外から鍵をかけた。ドアには外側から南京錠が掛けられていた。
私は館中を走り回り、響君を探した。しかし、響君の姿はどこにも見当たらなかった。赤井は響君を拷問すると言っていた。それならば、すぐには殺さないはずだ。しかし、全ての部屋を探しても、響君はどこにもいない。もしかして、どこかに隠し部屋でもあるのだろうか。
私は迷った末、一度外に出て、外部に助けを求める事にした。もちろん、不安はあった。もしかしたら、既に響君は大怪我をしているかもしれない。瀕死の状態かもしれない。時間が経ちすぎると死んでしまうかもしれない。しかし、今は無事である事を祈るしかない。
私は館の外に飛び出した。その時だった。突然、何者かに足首を掴まれ、私は地面に倒れた。私の足首を掴んでいたのは、部屋に閉じこめたはずの赤井羊だった。焦っていたせいか、使い慣れない南京錠の錠前が、ちゃんと掛かっていなかったのだ。私は自分の詰めの甘さを呪った。
赤井は意識が朦朧としているようで、私の足首を捕まえながら、地面を這うようにしてにじり寄ってきた。私は必死に彼から逃れようとしたが、彼の手が足に食い込んでどうしても振りほどく事ができなかった。
万事休すと思った次の瞬間、赤井は意識を失った。私は赤井が気を失っている間にどうにか赤井の手を外そうとしたが、気を失ってなお、赤井の手は私の足を離さなかった。
やがて、赤井が目を覚ました。赤井は私の顔を見て、開口一番にこう言った。
「君は、誰?」
赤井の言葉に、私は驚いた。赤井は私の事が分かっていないようだった。
しかし、もしかしたら、こちらを油断させるために、錯乱しているふりをしているのかもしれない。私は試しに、足を離して、と赤井に言ってみた。正気なら、絶対に手を離さないはずだ。しかし、赤井はあっさりと手を離した。
赤井は、自分が誰なのか分からない、と私に言った。どうやら、彼は頭部に受けた衝撃で記憶を失っているようだった。私はそれを聞いた瞬間、ある考えがひらめいた。自分も記憶喪失のふりをして、赤井に取り入り、赤井を館の中に誘い込むのだ。もしかしたら、記憶を失っている状態でも、深層心理に残る記憶で、無意識のうちに隠し部屋の場所が分かるかもしれない。何も知らない赤井に、隠し部屋の場所を案内させる。もちろん、危険は承知の上だ。途中で赤井の記憶が戻ったらこちらが危ない。しかし、今は一刻の猶予もない。少しでも早く響君を救い出さなければならない。私は一か八かの賭けに出た。もし、途中で赤井の記憶が戻っても、戻ってすぐは赤井も混乱するに違いない。混乱した赤井が相手ならば、隙を見て逃げ出す事も難しくはないはずだ。
きっと、以前の私ではこんな事は思いついても、恐ろしくてできなかっただろう。しかし、今は幸か不幸か恐怖の感覚が麻痺している。どんな危険な事だってできそうな気がした。いや、自分の身の危険など、もうどうでもいいと思った。自分がどうなっても響君だけは逃がす。そのためなら、どんな危険な橋だって渡ってみせる。
私はできるだけ人畜無害の、少し天然っぽい女の子として振る舞う事にした。その方が赤井も油断するはずだ。
私はうまいこと赤井を館の中に誘い込み、二人で館の中を探索した。記憶を失った赤井はまるで人が変わったように穏やかで、あの異常者と同一人物だなんて、とても思えなかった。赤井自身の肖像画を前にした時も、彼はそれが自分自身の姿だと、全く気付く気配がなかった。
しばらく館の中を見て回ったが、隠し部屋はなかなか見つからなかった。少し、赤井を刺激した方が良いかもしれない。私は、赤井を部屋に閉じ込めていた間に、館中をくまなく探し回ったので、館の内部構造は大体把握していた。そうした中で、私は図書室を見つけた。図書室には赤井の起こした事件の記事の切り抜きがまとめて突っ込まれている棚があった。私は、赤井を図書室に連れていき、不自然にならないよう、赤井にその棚を見るよう誘導した。これは大きな賭けだった。事件の記事を読むことで、赤井は赤井としての記憶を完全に思い出してしまうかもしれない。私は用心のため、図書室に装飾品として飾られていた西洋刀を拝借した。いざという時のための護身用だ。
赤井はすぐに事件の記事の切り抜きを見つけた。しかし、記憶は戻らなかったようだ。その代わり、赤井は自分の事を、よりにもよって椎名響だと思い込んでしまった。
自身の起こした事件にすっかり怯えた赤井は、この館から逃げようと言い出した。冗談じゃない。私はどうにか赤井を踏みとどまらせ、館の探索を続けた。そして、ついに隠し部屋の入り口を発見したのだ。
隠し部屋の中の様子は、思い出したくもないので、ここには記さない。とにかく、そこはこの世の地獄のような場所だった、とだけ記しておく。そして、そこで本物の響君を見つけたのだ。響君は体全体をぼろ布で覆い、顔には大きく生々しい火傷の痕があった。赤井からひどい拷問を受けたのだ。痛みと暗闇の恐怖ですっかり錯乱していた響君は、私の事も、すぐには分からなかった。しかし、赤井の顔を見るや、鬼の形相で赤井に襲い掛かった。恐怖よりも赤井への憎しみが勝ったのだろう。赤井は襲い掛かる響君を突き飛ばし、棒で彼に殴りかかろうとした。私は、持っていた西洋刀で、赤井の背中を刺し貫いた。
その後、私は響君を連れて、あの館から脱出した。どうやって、館を囲む深い森を抜けたのか、今ではよく分からない。どうにか国道に出て、国道沿いを歩いていると、たまたま通りかかった車が私達を保護してくれた。そのまま、最寄りの交番に駆け込み、事情を説明した。私達はようやく人間の世界に帰還する事ができたのだ。
警察は私の通報で赤井の隠れ家を発見し、赤井と他の被害者達の死体を発見した。私は、赤井に殺されそうになったため、身を守るために、近くにあった刀で赤井を刺した、と警察には説明した。明らかに他殺であり、西洋刀には私の指紋がべったりと付いている。私が殺した点に関しては、隠しようがない。しかし、その前後のやり取りは、あくまで黙秘した。言っても信じてもらえるとは思えない。記憶喪失の殺人鬼と一緒に、館を探索していたなんて。
響君はすぐ病院に搬送された。幸い、命に関わるような傷はなかったが、心に受けたダメージが大きく、彼はその後、精神病院に入院する事になった。
私はと言うと、しばらくはカウンセリングを受けていたが、特に異常は見られず、今では以前通りの生活を送っている。カウンセラーには恐怖心の欠落の事は話さなかった。この欠落のおかげで、今、私は生きている。いわば、この欠落は私にとって命の恩人に等しい。だから、この胸にぽっかりと空いた穴も、背負って生きていくのが正しいと思った。今では愛おしささえ感じる。
しかし、それとは別に、私の中で確実に何かが変わっていた。何がどう変わったのかは、自分でもうまく説明できる自信がない。ただ、赤井の体を刺し貫いた瞬間、私はもう以前の私ではなくなってしまっていた。あの時、おそらく赤井と一緒に以前の私も死んでしまったのだろう。今、ここで生きているのは、表面だけの抜け殻だ。空虚。私の中は空っぽ。針で突かれただけで爆発してしまうくらい、脆く危うい。その自覚があった。
赤井が人を殺してまで何を満たそうとしていたのか、以前の私には分からなかった。今はその事をできるだけ考えないようにしている。考えると、理解できてしまうような気がして、それが恐ろしいのだ。
赤井は最後の最後まで、自分を椎名響だと信じて疑わなかった。そもそも、なぜ彼は自分を響君だと思ったのだろうか。それを考えた時、赤井の最後の言葉が脳裏をよぎる。
――いのりは僕のものだ。
そこまで考え、いのりは靄を払うように頭を振った。考えるのはよそう。赤井はもうこの世にいないのだ。
しかし、今でも、時折、あの音が聞こえる。
暗闇を這うような音。
赤井は今でも、あの地下室を彷徨っているのではないか。そんな気がするのだ。
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