第4話

3


 その現象は唐突に起こった。

 これまで右手にあった感覚が何故かいきなりなくなり少年はバランスを崩して転けそうになる。

「えっ」

 思わず声を漏らした少年は何事かと周囲を見渡してみるが、特に変わった様子はない。星が小さく輝く夜空に、静かに月明かりが照らしていて、後ろを振り返れば道端の街灯がしっかりと道しるべになっている。

 正面の静寂に包まれた中で茶色い壁に黒い屋根の家にも変化はない。

 ――いや、違う。その逆だ。家は山の近くにあるため、この季節には様々な虫の鳴き声がよく聞こえてくる。今では鳴き声だけで虫の種類を言えるようになったが、さっきからその声が聞こえてこない。つまり、静かすぎるのだ。

 なぜだろう。嫌な胸騒ぎがする。これから起こるであろう不吉な出来事を知らせてでもいるような感覚が静哉の中に居座ってるのだ。

 その正体はすぐに分かった。

 友希のことを思い出して隣を見ると、妹は完全に動きを止めていた。

「友希?」

 ほんの数秒前まで鍵を出して家に入ろうとしていたのだ。どこにも凍りつくような必要はない。

 誰が見てもあからさまな異変に静哉は妹に近付いた。

「おい、どうしたんだよ」

 妹の肩を揺すろうと手を伸ばしたとき、彼の手は空を掴んだ。

「――――!」

 にわかに信じ難い現象に目を瞠った。そして妹に触れられなかった右手をまじまじと見る。

 だが、これで確証を得ることができた。日中に見た謎の映像と同じものだ。あの時見た光景と同じく、友希は姿形が変わることなくその場に固まっている。

 しかしどうして。

 過去二回は景色が変わる・・・前に視界が一瞬ブラックアウトした。そして、その状態は長くは継続せずすぐに元に戻った。

 これが前回、前々回と同一の現象であるならばすぐに戻るはずだ。けれども静哉は薄々勘付いていた。


 ――これまでとは違う、と。


 今の一瞬、静哉の視界には予兆がなかった。夢のようなものと、現実が繋がったとでもいうのだろうか。

 有り得ない。何が何でもそんなことは起こりうるはずがないのだ。現実とは、例え仮想や夢の延長戦上にあっても、決して混同することはない空間だ。

 静哉は心臓の鼓動が早くなるのを感じた。

何が起こっているというのだ。

 時間が止まっているとでもいうような現象が起こっている事実をどう説明しろというのか。しかも今、少年の手は妹をすり抜けた。現状、現実離れした事態に陥っているのは紛れもない事実なのだ。

 信じられないが、受け入れるしかない。

「そんなこと、できるはずがないだろ」

 異変は本当に突然だった。いきなり友希を支えていた手が友希の体をすり抜けてバランスを崩したのが最初だ。この時には既に変化は起こっていた。その数秒前、友希の声が聞こえたような気がした。

 だから異変は静哉の方で起こっているのではなく、友希のいる側で起こっているのかもしれない。

 ああ、それならば説明がつく。昼間の二回といい、現在進行形で起こっている事態といい、全て静哉の夢なのだ。きっと自覚のないうちに疲労が溜まって、昨日の友希のように倒れてしまったのだろう。つまり、これは意識を失っている間の夢なのだ。

 意識さえ戻ればまた普段の生活に戻れるに違いない。しっかりしている友希ならちゃんと対応してくれる。

 それよりも友希の方が心配だ。友希だってもともと体力がないうえに一日中歩き回った疲労が限界まで達しているはずだ。静哉と同じようにいつ倒れたっておかしくない。そんな状態で放っておくのはいくらなんでも不安がある。

 できるだけ早く向こう側・・・・に戻らなくてはいけない。

 だが、ここに来てまたしても新たな不安材料を発見してしまう。

 右手では友希を捕まえられなかったが、彼の左手にはまだ街から持ち帰った買物袋を提げたままなのだ。

 非情な現実が静哉の脳内に突きつけられる。

 これが夢だというのは、ただ静哉が現実から逃避するための口実にすぎないということぐらい薄々分かっていた。まだ友希に触れられず、物にも触ることができないのなら夢だと思い込むことだってできた。しかし、袋を持ったままだということが意味する事実、それは物には触れるということ。夢にしてはリアルすぎるのだ。

 考えれば考えるほど恐怖心が隠しきれなくなり、脈が強く打ち始める。

「…………」

 混乱する静哉から汗が滲み、僅かに足も震える。自分の脈動の早さと強さを感じながら静哉後退る。

 結局のところ、ここが何なのかということと、元に戻る方法は分からない。もう数分は経ったはずだが未だに元に戻らないということはしばらく戻れない可能性がある。

 つまり、孤独。

 自分の思考の中でその単語が出てきたとき、静哉の脳内で昔の光景がフラッシュバックされた。



「パパ、ママ、ゆき、どこ?」

 乗っていた車が峠の崖から転落して意識を失ったたものの、奇跡的に無傷だった少年は意識を戻すなり家族の名を呼んだ。

 辺りは暗く高原となるものはない。月明かりですら山の木々に遮られて届かない。一体どれぐらいの高さから落ちたかなど、考えることすら当時の静哉にはできなかった。

 家族からの返事は来ない。

 時間が経つのと比例して、少年の胸中を寂寞が支配していった。こんな時に限って虫の音も、風が木の葉を揺らす音すら聞こえない酷薄な現実が六歳の少年に突きつけられる。

 それはとても、幼い少年には受け止められないものだった。孤独という不安が、自分の中で恐怖へと変わり足が竦み始める。

 込み上げてくるものを堪えることすら知らない幼い静哉は、大声を上げて泣きじゃくった。

 この声が静寂に包まれたこの山に響き渡って親に届き、聞きつけた親が自分の場所に駆けつけてくれればと、それが六歳の少年のせめてもの抵抗だ。

 しかし、皮肉にも現実は静哉にとことん牙を剥く。

 大声で泣きながら自分からも歩いて親を探していると、少年は自分たちが乗ってきた車が落ちているのを発見した。その近くの地面には車内から同じく投げ出された両親の姿がある。

「パパ! ママ!」

 静哉は鼻をすすりながら顔を明るくして二人の元へと近付く。

 ――助かった。

 まだ妹は見つかっていないが、一先ず光の差し込んできた希望に静哉はすがり付こうとした。

 が、その光に向けて手を伸ばそうとした途端に、まるで静哉を嘲笑うかのように光は闇へと変化する。

 両親に近付いた少年はここにきて二人の様子がいつもと違うことに気付く。

「パパ? ママ?」

 やはり、返事はない。普段なら笑顔で抱き上げてくれるはずの親が目を閉じたまま倒れている。

「パパ、ママ」

 二人の体を順に揺すってみる。

 反応はない。

「ねぇ、パパ、ママ、早く起きてよ」

 二度、三度と体を揺すったとき、少年の小さな右手に生温かい滑りけのようなものを感じた。

 ゆっくりと右の掌を見てその正体を確認すると、真っ赤な液体が付着していた。

 少年は一瞬思考が停止した。右手の付着物が何なのか、そして何を意味しているのか。ただ本能的な恐怖だけが彼を支配した。

 なのになぜか右手から視線が外せない。

 赤い液体が手から滴り、背中に寒気が走る。

 この場から逃げ出したい。叫びたい。でも、体が動こうとしない。

 六歳の幼い力ではどうしようもなく、微々たる力で少年は必死に抗い続けたが、結局しばらくはその場から動けなかった。

 その少年を救ったのは、よく聞いていた少女の声だった。

「お兄ちゃん」

 たった一言なのに、聞くだけで不思議と気持ちが落ち着き、彼を拘束していた金縛りが解けた。

 振り向くと同時に、緊張の糸も解けて静哉は無事だった妹の胸に飛び込む。

「助けて……。助けてよ、ゆき……」

 年下だとか、妹だとか、そんなことはどうでもいい。ただ彼は誰か人の温もりを感じていたかった。

「大丈夫だよ、お兄ちゃん。お兄ちゃんは、ゆきが守るから」

 五歳とは思えない妹の優しい言葉に静哉は堪えていたものを全て吐き出した。



 あの事故の日、静哉は絶望を感じた。夜の木々は不気味に感じ、誰もいない恐怖は彼の精神を蝕んだ。

 あの時は友希がいてくれたから助かったが、もう話せない。どういうわけか知らないが、この場所には静哉一人しか存在しないのだ。

「友希……」

 妹の華奢な体や、疲労しきってはいるがどこか幸せそうにしている顔がそこにはある。さっきまでと何一つ変わらずに家の前に立っている。なのに触れることのできない距離の遠さが静哉を喪失感で包み込む。

 今の時間は、事故が起こったときと同じく夜。暗がりで一人という現状が事故当時と重なって彼を恐怖に駆り立てる。

 忘れようとしても忘れられない過去。友希がいる間は妹が心の支えとなっていたが、一人になった今、脳裏に焼き付いた記憶が何度も繰り返し再生される。

「助けて……助けてよ、友希……」

 その場に座り込んで静哉は十一年前と同じ言葉を口にした。

 止まっている友希が動き出す気配はない。

 塞ぎ込み、現実から逃避するために五感の全てを断ち切ろうとした。その時だった。

 彼の耳に、いや、脳内に直接声が聞こえてきた、ような気がした。

「大丈夫だよ、お兄ちゃん。お兄ちゃんは、ゆきが守るから」

 おにい、ではなくお兄ちゃんと呼ぶあたり、これは静哉の記憶だということは分かった。

 事故の時と同じく状況に陥った静哉が、無意識のうちに自分の都合のいい記憶を呼び醒ましたのだろう。

 それで今回も恐怖は落ち着いた。またしても友希に助けられたことになるが、まだ気持ちの整理を付けることはできていない。

 誰かに縋りたい。誰かと一緒にいたい。その思いだけは一層強くなる一方で、恐怖ではない似た何かは彼の中に居座り続けた。

「そうだ……あそこに行こう」

 呆然と呟いた静哉は未だ放心状態だったが、それでも立ち上がって自分のお気に入りの場所を目指して歩き出した。


 その場所だけは世界が変わっても健在だった。

 遥か下方に見える街には光が灯り、今も人々が生活しているように思える。夜にここへ来るのは初めてだが、昼間とは違った雰囲気があり、これはこれでいいかもしれない。

 やはりここに来たのは間違いではなかった。家や山に変化はないが、それ以外の全てが変わってしまった中で、唯一変わらない自分の居場所が混沌に陥った自分自身を落ち着かせてくれる。

 もう、しばらくはこのまま横になっていたかった。あれやこれや考える、無心で時間を過ごし、気がつけば世界が変化したことすら忘れられればどれだけ楽なことだろう。

 ――ああ、空がきれいだ。

 夜空だけは汚れを知らず、穏やかに月光と星光が輝きを放つ。

「あれ?」

 突然視界がぼやけ出して目頭を擦る、彼の目から水滴が零れ落ちた。

 孤独から不安へ、不安から恐怖へ、そして今度は恐怖から悲哀へと静哉の情緒は移っていったのだ。

 少年は涙を拭うことなく、光の筋を作る。

「父さん……母さん……俺、どうしたら……」

 今は亡き肉親にこの声は届いているのだろうか。

もし、届いているならばなんとなく言うだろうか。


『しっかりしなさい。あなたお兄ちゃんなんだから』


 昔から静哉よりも妹の友希の方がしっかりしていて、よくそう母に言われてきた。自分で思い返しもその通りだと思う。

 そしてなぜ、生まれつき病弱な妹に頼りきりだったのかと、当時の自分を責めたくなる。

 ――俺には無理だよ。

 小学校に入り、中学に上がってからは静哉が友希を守ってやらねばという責任感が生まれたこともあった。

 でも、実際には何も変わってなかったのかもしれない。ずっと心のどこかで友希に頼り続けている自分がいたのだ。

 だから孤独な状況になれば何もできない。どうすればいいかも分からない。

 彼が途方に暮れていると、近くの木の葉が揺れる音がした。

 ――おかしい。

 初めは聞き間違いかと思った。この場において人為的な何か以外で物が動くことはないから。当然風も含めて。

 しかし、木の葉の音は一度に留まらず二度、三度と聞こえてくる。

 さすがにおかしいと感じた静哉は涙を拭って立ち上がった。最初こそまだ残っている疲労感や喪失感からよろめくが、堪えてバランスをとっているうちに身体に力が入るようになってくる。

「誰かいるのか?」

 静哉の問いかけに返事をするものはいない。気が付くとこの葉の音は止んでいる。

 彼は音のした方へ進んでいった。刹那、当然背後から素早い動きで何者かによって組み付かれ、行動を封じこまれた。

 抵抗しようとした静哉に耳元で声がかけられる。

「いい? 動かないで」

 無機質な、女の声だった。

 感情を押し殺したような無機質な声に静哉は戦慄して振り向くのを止める。

「あなた、宝について知ってるの?」

「何のことだ」

 恐怖すら覚える間もない出来事に何も考えることもできず、大人しく答える。

「とぼけないで。あなたがこの元凶。知らないはずはない」

 相変わらず抑揚のない語調で話す女は組み付く力を緩めない。

「だから宝なんて知らない……」

「いい加減なことを言ったら、刺すわ」

 平然と恐ろしいことを口にして何かを首筋に当てられた途端、静哉は心臓が跳ね上がった。

 逃げなければ。命の危険を感じた静哉は直感的にそう考えた。

 しかし、背後で顔も見えない女は付け入る隙がない。首元に突きつけられた冷たい何か、この状況から察するに一瞬で彼を殺してしまえるものだろう。

 そう自分で考えておきながらその思考が彼自身を恐怖の淵へと追いやっていく。

 脳裏には事故当時の車が転落する時の映像が繰り返し再生され、幼い十一年前に味わった死の恐怖が鮮明に蘇る。体の震えが大きくなり、次第に思考すらできないほどになった。

 静哉が正気を失ったのは一瞬だった。

「宝はどこ?」

 最終通告だと言わんばかりに感情を殺したまま強めた語気だったが、もはや静哉にその声は届かない。

「うぅ……」

 代わりに出たのただの呻き声。傍から見れば彼の慄き方は異常だった。

 ――怖い怖い怖い怖い怖い。死にたくない死にたくない。

 目からは生気が消え、狂乱しきった少年の姿を見た者がいれば誰もが関わりを持とうとはしないだろう。

 これは一度死への恐怖を知った者のみにしか分からない、決して他の者には理解できない感情だ。

 そして、決して乗り越えるのは容易ではない。

 頭が真っ白になり、意識が無くなるのも時間の問題だ。自己の命がもう数秒後に絶たれるかもしれないという現実など、考えることすら不可能だった。

「答えないのなら……」

 女の手に少しずつ力が込められるのを感じた。

 だからと言って今更どうにもならない。

 徐々に迫るナイフはついに彼の首に触れた。そこからいつの日か見た赤い血が滲み出す。

 痛みやナイフの冷たさは何も感じなかった。

 さらに月光を反射させるほどの光沢を持つナイフは静哉の首を深く貫き、少年を絶命させる……その直前だった。

 なぜか女が静哉の体を横に投げた。

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