となりの徹平くん
真冬
1 いい加減な幼馴染
何もかもが嫌になったあの時。
差し伸べてくれたその手をつかもうと思ったのはなんだったんだろう。
突然吹き付ける北風に、あたしは思わず息を止めた。
あああああーっ! もぉっ! なんでこんなに寒いかなーっ!
学校指定のブレザーの胸元を手で抑えながら、あたしはひたすら息を止めて自宅までの道を歩き続けていた。
今朝、玄関を開けたら十一月末にしては意外と暖かくて、その暖かさに油断してコートとマフラーを置いてきたのが敗因、なんだろうなぁ。
でも、一日の寒暖差激しすぎない?! 夕方にこんなに冷え込むとか誰が予想できんのよーっ!
「あああああああ。さむいさむいさむい」
周囲に誰もいないのをいいことに、あたしはひたすらブツブツと呟きながら足を進める。
さ、この角を曲がればおうちだーっ。早く帰ってストーブにあたろーっと。
「だいっきらいっ! ばかーっ!」
そんなあたしの耳に、突如キーンっと響く女の子の叫び声が飛び込んでくる。
その声は、明らかにこれから曲がる角の向こうから聞こえてくる。
「お、おいっ! 優花っ」
「もう知らないっ! じゃあね、バイバイ!」
その声とともに角を曲がってきたのは、うわぁ、かわいい子。
走り出そうとしたそこに人がいたことに気付いて少し驚いた表情で立ち止まった彼女は、次の瞬間あたしを睨み付けてすぐ隣を走りぬける。
ふわふわの茶色い髪から漂う甘いバニラの香り。
うーん……。これって、もしかして。
「あ、やっぱりそうだ」
「あれ? 今日子サン」
角を曲がればそこには、左ほほを押えたままでニヤリと笑う幼馴染の姿があった。
「おかえりー。今日はまた一段と寒いけど、そんな薄着で大丈夫?」
「ほんっと、失敗したわーっ。って違うわよっ」
間違いなく先ほど修羅場を味わっていたはずのこの男は、何事もなかったかのようにあたしに笑顔で話しかけてくる。
ほんっと、そういうところがサイテーなのよね。
「あんたね。さっきの子って彼女でしょ。追いかけなくてもいいの?」
「あー。いいのいいの。たった今カレカノの関係は解消したから」
「……いつか絶対に刺されるよ。ほんと」
「あれーっ! 今日子サンってば俺の心配とかしてくれちゃうわけ?」
「はぁ? んなわけないでしょーがっ。あたしはただお隣で何か事件が起こったら嫌なだけよ」
「うっわーっ。相変わらずツレナイなぁ。まぁ、それが今日子サンの魅力だけどねー」
そう言って史上最低の幼馴染こと橘徹平は、にっこりととびっきりの笑顔をあたしに向ける。
うっわぁ。相変わらずキレイな顔だなー。小さいころから見てきたけど、ほんっとに整ってるんだよね。
しかも、上品なんだよなぁ。笑い方とか。話し方とか。
身長だって平均より高めだし、無駄な肉全然ついてないモデル体型だし、てか、手足長すぎでしょ。
「あれ……」
今更のことだけど妙に整ったイケメンである目の前の幼馴染をしみじみとみていると、その整った容姿がぐんぐんと近づいてくる
ってか、な、なによーっ!! 近いっ! 近すぎるから!
「今日子サン……」
「な、なによっ!」
「もしかしてさー」
そこで言葉を止めて、あたしの顔を覗き込むように整いまくったその顔を近づけてくる。
うわーっ!! ちょっ!
「――太った?」
ドギマギしながら徹平の次のセリフを待っていたあたしに、この史上最低男はメガトン級の爆弾を投下する。
「うっ……うるさいわねーっ」
あー。そうよね。あんたがあたしにまじめな顔していうセリフってそういうもんよね。そうよ。確かにちょこっと太ったわよ。仕方ないじゃない。食欲の秋なんだからっ。
「ま、俺的にはそれぐらいぽっちゃりのほうが好みだけど」
だーかーらーっ! 誰もあんたの好みは聞いてないからっ!
「今日子サンは少し細すぎるからもうちょっとお肉付けたほうがいいと思うよ。それに髪型も。絶対に短いほうが似合うと思うんだけどなー」
背中の真ん中ぐらいまであるあたしの髪の毛を触りながら、目の前の幼馴染はしれっと言葉をつづける。
いやいやいやいや! あたしとあんたはカレカノでもなんでもないんだから、関係ないでしょーがっ!
「徹平には関係ないでしょーっ! あたしの髪型までイチイチ文句つけないでよっ」
「文句つけてないよ? 髪が長い今日子サンももちろんかわいいけど、短くしたらきっともっとかわいいんじゃないかなーって思っただけ」
「なっ……! かわいいとかほんっともういいからっ!」
しれっとほめ言葉を口にする徹平に、あたしは乱されたペースを取り戻しながら言葉をつづける。
「とにかく。あんたのその女癖の悪さのせいで起こるゴタゴタに、あたしを巻き込むのだけはやめてよね」
先ほどすれ違った女の子の視線を思い出し、あたしは思わず首を振る。
よみがえる過去の記憶にぞくりと悪寒が走る。
ほんっと、過去何度徹平にフラれた女の子から嫌がらせを受けたことか。家が隣っていうだけでほんっとに理不尽すぎる。
「冷たいなー。今日子サンと俺との仲なのに」
あんたとあたしの間にあるのは、家が隣で幼馴染っていうだけの関係でしょうが!
そう叫ぼうとしたあたしは、目の前のニコニコ笑顔をみて一気にその勢いをなくす。
あーダメだ。この笑顔にいつも負ける。いつだってこの男のペースなんだよ。
「もういい。んじゃね、バイバイ」
それだけ言い捨てて、深いため息とともに肩を落としながらあたしは徹平の前を横切って自宅の門に手をかける。
そんなあたしの醸し出す空気に全く頓着しないこの男は、まるで何事もなかったかのように声をかけてくる。
っていうか、気づけよっ! さとれーっ! 話しかけるなっていってるでしょーがっ。あたしの背中が!
「あ、そうそう。今日子サーン。明日一緒に学校行こうねー」
「はぁああ?!」
鉄製の門を開いて玄関のドアに手をかけたあたしは、お隣さん家の最低男のこの呼びかけに、思わず女とは思えないような低音のツッコミをいれてしまう。
はい? なんで一緒に登校? え? さっきのあたしの頼みはスルーですか?
「え、だって明日日直でしょ? 今日子サン。俺と一緒に」
あああああ。そうだった。
うちのクラス、日直の時は早めに登校して教室のカギとか日誌とか取りに行ったりしなきゃなんだ。
え、でもそれってどっちか一人でよくない?
「あ、じゃぁあたし一人で先に行ってるよ。徹平は後でゆっくりおいでよ」
「えー。別にいいじゃん。一緒に行こうよ。せっかく家が隣同士なんだから」
「いやいや。家が隣ってそれ関係な」
「んじゃ、明日の朝迎えに行くねー」
そう言い捨てて、隣の徹平君はニッコリ笑顔で手を振りながら、我が家の隣にあるご自宅にスッと消えていく。
うっわー。はやーい。何それ。
今の、完全に言い逃げだよね。え? あたしの返事は聞かない感じですか? っていうか、あたしの拒否権とかそういうのってないの?
「ちょっ……あたしまだ一緒に行くって言ってないんですけどー」
一人残されたあたしは、木枯らしが吹き抜ける自宅玄関前で呟くその言葉は、だれに拾われることもなく風と共に消えていった。
翌朝。
ええ。ええ。もちろん朝から相変わらずのイケメン幼馴染はまぶしいぐらいの笑顔で迎えにきましたよ。
うちの母と爽やかに挨拶を交わし、朝からげっそりと疲れた雰囲気を醸し出すあたしにはまったく気づかないふりを決め込んだ彼に、引きずられるように通学しましたよ。
ああ。いつもより早くてよかった。通学路にクラスメイトの姿がなかったのがせめてもの救いだわ。
「あ、今日子サン。俺先に職員室でカギと日誌取ってくるから、用務員室お願いねー」
「あ、はいはーい」
昇降口について靴箱で一息ついていると、先に上履きに履き替えた徹平のその言葉にため息ついでに返事する。
あー。疲れた。なんか朝からどっと疲れた。
っていうか、相変わらず女には優しいよなぁ。職員室って教室とは逆でちょっとめんどくさいもんね。
用務員室はあたしたちの教室へ行く道沿いにあるから全然手間じゃないもんな。
そういう気遣いがさらっとできるのが、あいつがモテる理由の一つなんだろうなぁ。
まぁ、あたしには関係ないけど。
そんなことをうだうだ考えながら用務員室でストーブのカギを受け取り教室へと向かっていたあたしは、前から歩いてくる女の子の集団に首をかしげる。
あれ? こんな朝早くにどうしたんだろ。
「あ、ほら」
「え?」
「ああー」
見たことのない子たちだから、別のクラスの子なんだろうなぁと悠長に考えつつ横を通り過ぎろうとすると、そのうちの一人があたしを見て隣の子とくすくすと笑う。
「えー。たいしたことないじゃん」
「だよねー。幼馴染っていうだけでカンチガイしてんじゃないの?」
「優花のほうが百倍かわいいって」
「いえてるー!」
聞き覚えのある名前に、背中がこわばる。
あー。そういうことか。
この子たちは昨日のあの女の子の友達なんだ。
「ああいうカンチガイ女が一番イタイよねー」
「ほんっと、徹平くんかわいそーっ」
「言い寄られたりしてんのかなぁ」
廊下を歩き続けるあたしの背中に、攻撃的な言葉が次々と突き刺さる。
気にしない。気にしない。
聞こえないふりをしていれば、いつかは通り過ぎるから。
「聞こえないふりー?」
「この距離で聞こえないとかほんっとマジナゾだよね」
「シカトとかナニサマ? って感じー」
そのまま通り過ぎるかと思った彼女たちは、明らかに足を止めてあたしの背中を見ている。
たぶん、あたしに直接文句言いたいんだろうなぁ。
でも、無視。立ち止まったらおしまい。また面倒なことに巻き込まれる。
背後で聞こえる悪意のある言葉すべてに耳をふさぎ、あたしは足を速めて教室に向かう。
聞こえない。聞こえない聞こえない。
あたしには何も聞こえない。
あたしは何も悪くない。
何かの呪文のように心の中でそう唱えながら最後は走り出していたあたしは、息を整えながら通いなれた教室の扉に手をかける。
と、その瞬間。
スッと開いた扉の向こう、まだ誰もいないと思っていた教室から聞こえたその言葉に、あたしは思わず息をのむ。
突然襲う、激しい吐き気。
ぐるぐると回る、目の前の景色。
ヤバい、倒れる! と思ったあたしは、とりあえずその場にうずくまろうと膝を折って――。
ふと気づくと、目の前には白い天井が広がっていた。
少し視線をずらすと、薄いピンク色のカーテンが目に入る。
音のない空間。鼻をつく消毒液の匂い。
ここは……。
「今日子?」
誰もいないと思っていた空間に、聞きなれた声が聞こえてくる。
くやしいけど、すぐに誰かわかってしまう、慣れ親しんでいる声。
「てっぺー……」
普段とは違う呼び方であたしを呼んだ声の主を見ると、そこにはいつもとは違う不機嫌そうな表情を隠そうともしない幼馴染がいた。
「今朝、ちゃんと食ってきたのかよ」
「あー……」
いつもの茶化すような柔らかいトーンとは明らかに違う、真剣な声音。怒った表情。
いつもへらへら笑っているからか、そういう顔をすると徹平はすごく怖い。
こんな怖い顔した徹平、いつ振りに見ただろう。
ぼんやりとそんなことを考えていたあたしに、徹平は言葉をつづける。
「貧血だとよ。ほんと、マジ勘弁してくれよ」
そこで言葉を切って、ふいっとあたしから視線を逸らす。
「心臓、止まるかと思った」
それは、普段の徹平が絶対に言わないトーンの声音。
思わず漏れてしまった心の声と思ってしまうほど真剣な雰囲気に、あたしは思わず息を止めた。
「あ……ご、ごめんね?」
「いや、別にいいんだけど。でもなんであのタイミングで倒れたんだよ。走ってきたのか?」
「うん。まぁ」
徹平のせいで廊下で嫌味を言われて、それを避けるために走ってきたとも言いにくく。
挙句の果てに、教室に入る瞬間に聞いた言葉が引き金だったような気もするんだけど、それが何だったのかはあたし自身も思い出せないわけで。
結果、あたしは徹平の問いかけになんともあいまいな言葉を返す。
「ちょっと、運動? 寒いから走るとあったまるかなーって思って、ね」
ゆっくりと体を起こしながらそう言うあたしに、深々とため息をつきながら徹平は口を開く。
「お前、馬鹿かよ。朝食ってねーのにそういうわけのわからない運動するなよな」
「あはは。そうだよねー」
ものすごーく理にかなった徹平の言い分に、あたしはもう笑うしかなくて。
っていうか、徹平のテンションがいつもと違うくて、なんだか座りが悪いというかなんというか。
なんでこんなに男っぽいの?
え? 普段のちゃらんぽらんないい加減チックになってくれないと、あたしの調子が狂うんですが。
「ほんっと、心配するこっちの身にも」
「あーっ! 徹平ってば何やってんのよーっ」
男っぽさ全開のままの徹平の対処に困っていたあたしの耳に、激しく開くカーテンの音と女子力全開のかわいい声が聞こえる。
「あ、あゆみちゃん……?」
「もぉっ。今日はあゆみと一緒に食券買いにいこーって約束してたじゃんっ。すっごい探したんだからねーっ」
「あ、え? そ、そだっけ……?」
「そうだよーっ! 二組の子に聞いたら、倒れた子の付き添いに行ってるとかいうからさぁー」
徹平に向かってかわいく抗議を続けていたその子は、そこで一瞬あたしを見て大きな瞳を細める。
ひぃっ。すっごい怖いんですけど!
間違いなくあたしに対して何か文句を言おうとしたその瞬間。
「ごめんごめん!」
それまで怒りモードを一気に沈めた徹平が、にこやかな笑顔であゆみちゃんとやらのほうに体を向ける。
「そう言えばそうだったね。今から行っても間に合うかな?」
「まだ間に合うんじゃなぁい? ほらほら、早くいこーよーっ」
「そだね。間に合うよね。うん。行こう」
そう言いながら徹平は何気ない風を装ってあゆみちゃんの体をカーテンの外に追いやる。
「あ、今日子サン。先生には話してあるからゆっくり寝ていても大丈夫だよ」
そして、ベッドに座って二人の様子をぽかんっと見ているあたしに、いつもと同じ柔らかい口調で、でもいつもよりは早口に言葉をつづける。
「本当なら俺が送ってあげたかったんだけどねー。そうもいかないみたいだし」
「なっ! べ、別にあんたに送ってもらわなくても大丈夫だしっ」
いつものいい加減でちゃらんぽらんな徹平の雰囲気に、あたしも思わずいつものように言葉を返す。
「それでこそいつもの今日子サンだねー。安心した」
「徹平? 何やってんのー?」
「ううん。なんでもないよ」
カーテンの向こうから問いかけてくる不満げな声に応えながら、あたしに対しては別に不要だと思うお決まりの徹平スマイルを残して、天下無敵の幼馴染は保健室を出ていく。
ガラガラッと閉まる扉の音に、あたしは何となく止めていた息を吐き出す。
保健室に残る余韻は、いつものいい加減な幼馴染が起こした騒がしい空気だけれども。
でも――。
目を覚ました時にあたしが感じた空気は、おそらく真剣にあたしを心配してくれていたであろう昔からそばにいる徹平のものだった。
懐かしい、懐かしい空気。
いつだっただろう。遠い昔もあんな表情で真剣にあたしのことを考えてくれたことがあったような気がするんだけれども。
カーテンで覆われた、薄暗い室内。
冷たい毛布の感触。
何も聞こえないあたしの耳に、確かに届いたたった一つの声音――。
「痛ッ」
徹平の真剣な表情から何かを思い出そうとしたあたしは、その瞬間襲われた激しい頭痛に思わず顔をしかめる。
なんだろう。なんか引っかかるんだけど。
ズキズキと痛むこめかみを押えながら、あたしはゆっくりとベッドに横になる。
そう言えば昨日はあんまり眠れなかったんだ。
徹平が先生にうまく言ってくれてるみたいだし、とりあえず寝ようかな。
冷たいシーツに横になって、あたしはゆっくりと瞼を閉じる。
瞼の裏にはいつものいい加減な幼馴染がへらへらと笑っていて。
その様子になんだかほっと安心しながら、あたしはゆっくりと眠りに落ちた。
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