手術修了

58.帰還【完結】

 こうしてヅッソ達の長い旅は、一旦幕を下ろすことになる。


 歴史的な話をすれば、王国の危機がこれですべて去ったわけではない。

 七星列島の三年の租借は締結されたままであるし、友好条約を結んだとはいえ新興国はフーゼル・アードベック国王の元、その国力は伸張の一途を辿っており、万が一敵国となった場合は厄介な事になるであろう状況は続いている。また、南方では小国同士の対立が燻っており、ひとたびバランスが崩れれば、平和に慣れきった百年王国にとって脅威となる可能性は存続している。

 だが、百年王国が次の百年を迎えるにあたり、この時期に盟約を結んだ竜を失わなかったことには大いに意義があったと言えよう。


 下山後、ヅッソ一同は城へと戻り、百年王国の三代目国王であるブルイック・ウェイブスに手術成功の報告を行った。

 国王は大げさに喜び、労をねぎらってくれた。同行したメンバーにも相応の報酬が支払われることを約束してくれた。

 宴と称し、皆に食事と酒が振る舞われた。箱組やドゥクレイを筆頭に宴は盛り上がり、長旅の疲れを癒してくれた。

 ヅッソは早めに切り上げ、皆を残して書斎へと戻った。酒は相変わらず飲めなかったし、大勢でわいわいとやるのがやはり好きにはなれなかった。

 三方の壁が本棚で埋め尽くされた書斎の見慣れた風景は、少し離れていただけなのに懐かしさと安心感を与えてくれた。

 椅子に座り、一息つくヅッソの前に淹れたての紅茶が置かれる。

「長旅、お疲れさまでした」

 従者であるスチルマンがそう言って頭を軽く下げた。彼の淹れてくれる紅茶はいつもながら香りが良い。

 ヅッソには残された仕事があった。

 今回の顛末を、書き残さなければならなかった。

 古代種の竜の手術とその顛末を。

 羽根ペンの先をインクに浸し、紙の上を滑らせる。

 記録は大切だとヅッソは思う。国の存亡のかかったこんなに重要な事件でも、十年もすれば思い出されることもなくなり、まして百年も経てばすっかり忘れ去られてしまうだろう。

 大切な事は書き記さなければならない。誰かが記録し、記憶し、語り継がなければならない。

 ――あんたは世界で一番分厚い本になりな。

 山に登る前にクレナに言われた一言が、ヅッソのペン先を走らせる。書かなければならない。本になるために。忘れられないために。


 森の奥。

 大きな石を積み重ねて作られた大きな建造物が建っている。

 百年王国では見られない建築様式であった。新大陸独特のものである。窓に硝子はなく、石壁をそのまま刳り抜いたようにぽっかりと空いている。風が吹き抜ける構造がからりとした気候に合っていた。

 窓の向こうには上弦の月が静かに輝いている。

 窓の内側は広間であった。

 奥にある大きな玉座に、背の高い男が座っている。

 端正な顔立ち。さらりとした柔らかな銀髪。

 男は微笑んでいた。

 新興国の王、フーゼル・アードベックである。

 その傍らに、屈強な女戦士と目つきの悪い猫背の男が立っている。百年王国との交渉のため船で大陸へと渡っていたプルトニーとタリスカだ。

「……報告は、以上です」

 ローブを纏った魔術士シェリーが、国王の前に傅き、竜の手術妨害の不首尾を報告し終えたところである。

「まあ良い。十分に楽しませてもらったよ。お疲れシェリー」

 作戦失敗の報告を受けてなお、男は微笑んでいた。


 シェリーは下を向いたまま、唇を噛んでいた。

 ただただ悔しかった。

 竜の手術を妨害しきれなかったことが。

 大役を命ぜられたにもかかわらず、功績をあげられなかったことが。

 もし、次の機会があるのであれば必ずものにしなければならない。

 この人の一番であり続けるためには必要とされなければならない。

 ずっとそばに置いてもらう。

 最初に魔法を教わった時に誓ったのだ。

 六才の時、そう誓ってオンルちゃんと決別し、フーゼルを取ったのだ。

 誰にも渡すわけにはいかない。手放すわけにはいかない。 

 唇から血が滲み、顎を伝う。

 それを親指で拭い、気丈な態度で広間を去る。

 唇の痛みは心の痛みだ。

 この痛みを忘れない、絶対に。

 シェリーはそう思った。


 プルトニーはこの局面さえも楽しんでいる国王に心を奪われていた。

 いつも思うのだ。この人の頭の中はどうなっているのだろう、と。

 部族にいた頃は獣を狩る生活をしていた。

 それは生きていくために必要な仕事であり、皆で狩りを終え、成果を持ち帰ることは十分に達成感を得られたし、自分が役に立っているという自負もあった。

 だが、その生活は単調で単純で、今となれば色褪せてさえ見える。

 フーゼルの頭脳に惹かれる自分を感じる。いや、きっともう全てに魅せられてしまっているのだろう。

 フーゼル・アードベックの腕となり足となることがプルトニーの望みであり、自分の存在を証明する唯一無二の手段だと信じて疑わない。

 プルトニーは微笑むその涼しげな眼に吸い寄せられるように見入っていた。

 戦士の顔が綻び、乙女の横顔が覗く。

 慌てて首を振り、緩んだ頬を引き締めた。


 タリスカは盤を思い浮かべていた。

 この局面で小さな駒をいくつか失うことは特に問題ではない。陣形は乱れておらず、むしろ強固になったと言えるだろう。接触。経験。実績。自分自身でいえばいくつもの大きな駒を手に入れたと言えなくもない。

 ただし、ランガと違って世界という盤は広大だ。定石が常に通用するとは限らない。大駒も使い道を誤まれば石ころと同じだ。 

 面白い。

 面白いと感じる。

 タリスカは思い出す。交渉の局面で背中に走ったあのぞくりとした感触を。場を支配する緊張感と優越感を。世界を舞台に駒を進める快感は、ランガで勝つ時よりも甘美で、他のどんな快楽も敵わない。

 この盤の上で戦い続けることをタリスカの本能が望んでいた。

 ならば次の一手に備え、爪を研いでおかなければならない。

 タリスカは口元を歪ませる。

 きっとすぐに出番はやってくる。そうに違いない。

 彼は確信に近い予感を噛みしめた。


 去ってゆくシェリーを見届け、フーゼル・アードベックは呟いた。

「……楽しくなりそうだ」

 フーゼルは指先を宙でくるくると回した。

 考え事をする時の男の癖であった。

 こうでなければ面白くない。

 フーゼルは未来を夢想する。

 五年後のことを。十年後のことを。

 計画は順調だ。今回の失敗も言ってしまえば次の計画のための布石でさえある。

 このまま計算が狂わなければ次に大きく動くのは三年後、七星列島の租借期間が終了する時になるだろう。その時にはまた彼が自分の前に立ち塞がることになるかもしれない。

 ――ヅッソ・ラフロイグ、か。

 その名を覚えておくとしよう。

 窓から風が入りこむ。

 風は男の前髪を軽く揺らし、月の光がその銀糸をきらきらと照らした。


 どうどど。どどうど。

 滝の音が響く。

「よかったです……本当によかったです」

 洞窟の中。その巨体に滝を浴びる大きな竜を見上げ、少女は言った。

 百年王国より派遣されている十七人目の生贄、アイラである。生贄に相応しい黒髪の美少女は安堵の表情を見せ、竜の大きな足にもたれている。

 古代種の竜、デ・ロ・ラシュは、少女にグロロと喉を鳴らしてみせた。

 腹部はかなり痛むものの(肉を喰われているのだから当然と言えば当然なのだが)内部に響くような鈍痛はすっかりと消えていた。

 ヅッソより説明を受け、“絶望アぺル”のことを聞いた。

 遠い昔、同胞が大量に喰われた話はおぼろげに覚えてはいたが、まさかこの“陸の時代”において我が身に降りかかることになるとは夢にも思わなかった。

 健康を取り戻したことも喜ばしいが、傍らの少女が自分のこと以上に喜んでくれることが何より嬉しかった。これまでの生贄たちは竜の姿に怯え、なかなかこうして心を通わすことはなかった。しかしアイラは違っていた。最初から人懐っこく、自分の姿に臆することなく通じ合うことができた。

「早く傷口、塞がるといいですね」

 恵みの滝の恩恵をうけ、手術痕はすでに回復の兆しを見せている。

 あのか細い魔術士には大きな借りが出来たな、と思う。

 この借りはまたいずれ返すことにしよう。

 そのためにも長生きしなければならない。

 古代種の竜として、人とともに、陸の時代を生きる。

 それが自分に与えられた役割なのではないかとデ・ロ・ラシュは感じていた。


「この鎧、どうしましょう?」

 スチルマンに不意に声を掛けられ、ヅッソはペンを止めた。トルソーに掛けられた革鎧に目をやる。

「また随分と汚れてしまったようで……ニルーコに頼んでみましょうか? それとも処分されます?」

 旅を共にしたヅッソの革鎧はキャメルの光沢を失い、大半を竜の返り血で染めてしまっていた。まだらにくすみ、最初の芸術的な美しさはすっかり損われている。

 聞いたところによると、職人に任せればある程度汚れを取りワックスを掛け綺麗にしてもらえるそうなのだが。

「いや、そのままでいいんだ。そのままそこの隅に飾っておいてくれないか」

 ヅッソはスチルマンの提案を断った。

「え、あ、はい……。ヅッソ殿がそう仰られるのであれば」

 血に染まり染みだらけになった不格好な鎧。ヅッソにはまるで鎧が自分自身のように思えてならなかった。でもそれは全力でぶつかった証でもあった。その汚らしさはヅッソにとって誇らしくさえ思えた。

「みぃーつけたっ!」

 不意にドアがバンと開かれ、大きな声が響いた。そこには一人の少女が立っていた。

「こんとこにいたのかこの唐変木っ!」

 少女はずかずかと書斎に入ってきた。浅黒い肌。切れ長の目。魔術士クレナである。かなり酒が入っているのかテンションが高く、頬も赤い。酒気を帯びた姿が妙に色っぽくさえ見える。

 座っているヅッソの背後に回り込み、おもむろに首を締めあげる。

「かっかっかっ、早く戻ってこないとお仕置きだぞっ」

 言いながらもうすでにお仕置きは決行されている。

「ぼ、ぼぐはいいよ……みんなが楽じんでぐででば、ぞれで……」

 喉を圧迫され、声が濁る。

「ばーか、あんたがいなきゃになんないだろっ! ごちゃごちゃ言ってないでさっさと来んのっ!」

 酔っぱらいはヅッソを強引に椅子から引きずり下ろす。

「ちょ、スチル、助けて……」

 不安定な姿勢のまま、魔術士が従者に助けを求める。 

「行ってらっしゃいませ」

 スチルマンはそう言ってクレナに頭を下げた。彼女には図書館での大きな借りがある。逆らえるわけがない。

「さっすが。分かってんじゃん」

「恐縮です」

 スチルマンがにこやかに二人を送り出す。

「こらっ! まだ途中までしか書けてな、わっ、たたっ」

 こうして痩身の魔術士は少女にいいように引きずられて行くのであった。

 彼が本になるにはまだまだ時間がかかるわけだが……それはまた、別の話だ。


 -Fin-

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