砂礫の夢
猫乃砂那
第1話
湿った石畳の廊下は、静寂に包まれていた。
ひとりの青年が、暗い地下道を足早に歩いていく。
銀色の髪をした魔導師だ。
洞窟を掘り進めたかのような荒い造りの壁には、地下水が天井から滴り落ちている。
時折、彼の足音に混じって聞こえる水音。独特の湿った空気。
その中を、彼は躊躇いのない足取りで進んでいく。
手元に灯りはない。けれど彼の歩みにきっちりと合わせて、その周囲だけが明るく照らされている。
長い石畳の廊下の奥には木製の小さな扉があった。
背の高い者ならば屈まなければ潜れないだろう。扉には魔方陣のような物が刻まれていて、淡く紫色に光っている。
魔法によって施錠されているようだ。
彼はその魔方陣に手を掲げて小さく解呪の言葉を呟くと、言葉は魔方陣に吸い込まれ、扉は溶けるように消滅した。
銀髪の魔導師は、その中へと入っていく。
そこは暗い地下道からは想像もできないくらい広い部屋へと繋がっていた。
四方を本棚で囲まれ、古びた本が上から下まで整然と並んでいる。中央には大きめの机があり、数冊の本が無造作に積み重ねられていた。
この部屋には窓も入り口の扉もない。他者の侵入を防ぐために入り口を別の場所に作り、魔力で道を繋げているのだろう。
彼はその部屋の中央まで進むと、目深に被っていた術衣のローブを外す。
長い銀髪がさらりと流れた。白い肌に、深い緑色の瞳。整った容貌だが、その表情は晴れやかではなかった。何か重大な秘密を背負っているかのような、憂いを帯びた表情。
慎重に、机の上に一枚の古びた紙を広げる。
そこには複雑な魔法文字が書き込まれていた。
何度も頭の中で繰り返してきた呪文を辿るように、彼はその翡翠色の瞳を閉じる。
緊張しているのか、机に置かれていた掌が震えていた。
どのくらいの時間が経過したのだろう。
彼は目を閉じたまま、心を惑わせる迷いが消えるまで、そのままの体勢で佇んでいた。
外界から隔離されたこの部屋では太陽の沈む様子もわからない。けれどもうとっくに日は暮れているだろう。
やがて彼は、覚悟を決めたかのように瞳を開き、両手を前に掲げた。
「必ず」
必ず成功させる。
彼はそう言いたかったのだろうか。
その短い言葉には強い意志が宿っていた。
もう迷いは微塵も感じさせない。
高まる魔力。
慎重に、次元の扉を構築していく。
異世界へと通じる扉を開く。それが彼の使命だった。
もう猶予はない。
だからこそ絶対に成功させなければならない。魔力はまるで吸い取られるように、この扉へと引き込まれていく。
けれどまだ足りない。まだ安定していない。
(……失敗するわけにはいかない)
唇を固く噛み締め、すべての魔力を出し尽くそうと意識を集中させる。命までも吸い取られていくような極限の中、ようやく掴んだ確かな手応え。
異次元への扉が構築されていく。
たくさんの人間がいる。
何十億もの命の気配を感じる。
その中からたったひとりを探し出さなければならない。慎重に気配を探る。
固く閉じた瞳。
彼の白い額に汗が滲んでいる。
探しているのは、ひとりの女性。
この国にとって特別な存在になる女性だ。
何度も途切れそうになる意識を必死に繋ぎ止め。持てる魔力をすべて出し尽くし、とうとう、運命の娘を見つけ出す。
その足元に魔方陣を構築し、次元を越える扉を作り出した。
彼女が確かにこの世界へと移動するのを感じた。後は吉報を心待ちにしているだろう、王のもとへ移動させるだけだ。
あと少し。
だが気力も魔力も、そこまでが限界だった。
途切れそうになる意識を必死に繋ぎ合わせようとするが、限界を超えた身体は急激に闇に沈んでいった。
「……、……」
何故父は、これを実行しなかったのだろう。
魔力も体力も自分よりも勝っていた父ならば、自分よりも成功率は確実に高かっただろう。
それなのに、なぜ。
意識を手放す瞬間に感じたのは、途中までとはいえ目標を達成したのだという満足感ではなく。何故か取り返しのつかないことをしてしまったかのような、罪悪感だった。
砂礫の夢 猫乃砂那 @nekonosunana
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