虚ろな瞳にうつるもの
夏目 環
ロドミー研のカイダン
キノコを登ったことがあるだろうか?
あぁいや、それは正確な表現ではないか。
キノコの階段で樫の木を登ったことはあるだろうか?
そんな妙な質問を繰り出す僕も、ここソフィア魔術学院に来るまで、キノコの螺旋階段がついた樫の木などという、いかにもメルヒェンなものは聞いたこともなかったし、ましてやそれを毎日のように登り降りするなんて、思ってもみなかったんだけれど。
そう、今まさに僕は、そのメルヒェン階段を登っているところだ。
登った先にはツリーハウスでもありそうなものだけれどもそうではなく、枝を通じて樫の隣に建つ研究棟の三階へと続いている。
何故こんなルートで出入りするのかは、おいおい説明していこうと思う。あ、それと僕が何者なのかも、そのうちわかってくると思うから、自己紹介は省かせてもらいたい。苦手なので。
キノコ階段には手すりがない。毎日登って慣れてはいても、今みたいに片手にサンドイッチを持った状態では若干の不安を感じる。
風 。
足を止めると、サワサワ葉がざわめき、ミシミシ幹が
◎
「イテっ」
頭に降って跳ねて転がり、右手に
もしこの樫の木が完全に立ち枯れてしまったら、ドングリを成長させ、新たな階段になってもらうことになるんだろうか。植物操作の研究をしていたのは何研だったっけ。
そんなことを考えながら、まん丸のドングリをポケットに仕舞う。
そういえば子供の頃は、ドングリをたくさん集めたものだった。そのままだと渋いけれど、重曹水であく抜きをすれば美味しく食べられる。種類によって
キノコの階段を登っていくと、太い枝に板を張った足場があり、そこから隣にそびえ立つ巨大な研究棟の三階の窓まで橋が渡されている。橋は樫の木が風で揺れることが考慮され、船のタラップのように、窓側の受けと踊り場からの渡しが、完全には固定されず動くようになっている。この橋の部分はよく揺れるため、さすがに手すりがつけられている。
右手を手すりに滑らせながら、巨大な研究棟の、人が通れる程の大きな窓へとたどり着く。
アーチ型をした鉄枠のガラス窓は外開きで、こちらからだと引いて開けることになる。今日はそれほどでもないけれど、強風時に開閉するのは、なかなかにスリリングだ。
立て付けの悪い両開きの窓の右の取っ手を勢いよく引くと、ギギッと音を立てて開いた。
身を屈め窓から室内に侵入するさまは、ともすれば空き巣にでも見えるかもしれない。
「mm~~~♪」
室内に入ると鼻歌が聞こえてきた。集中すると鼻歌を歌うクセがあることに、彼女は自分で気づいているんだろうか。いつもいつも同じ曲なので、いつの間にか僕も覚えてしまった。いまだ曲名は知らないのだけれど。
鼻歌の主こそ何を隠そう、この研究室のドクトル(博士)。ドクトル・ロドミーその人だ。
ここ、僕の所属している研究室「ロドミー研」は、数ある研究室の中でもかなり新しい研究室だ。陽当たり良好。風通しがよく南向きで過ごしやすい。なかなかこういった好環境の研究室はない。他の多くの研究室では、太陽光が研究に影響を及ぼすことを嫌うかららしい。
壁や天井は白の漆喰。床は板張り。
書架、テーブルに乗ったフラスコや蒸留器などの実験器具、魔術理論が書きなぐられた黒板、平積みされた分厚い
「ドクトル、ランチです」
「ん」
歳は多分僕とそう変わらないはずだけれど、ぱっと見、少なくとも僕よりは若く、というか幼く見える。背丈が低いということを差し引いても。
髪ははちみつ色で後ろにくるっとまとめ、それを二本のペンシルを突き刺すかたちで留めている。何か思いつくとペンシルを取るため、その都度髪をまとめ直さねばならない。ペンシルを髪留めに使っていることについて「効率的だろ?」などと本人は言うのだけれど、僕からすれば単なる横着に見える。本人には言ってないけど。
今は鼻歌を工作室に響かせながら、レンズを「リング」というか、短い筒にはめ込んでいる。
作っているのはいくつかのレンズを組み合わせたレンズセット。凸、凹の色消し、絞り、凹の色消し、凸という、前後対照の組み合わせで、「ガウスタイプ」あるいは「ダブルガウス」と僕らは呼んでいる。前後対照にレンズを配することで、ルドルフの原理というものが働き、レンズのザイデル収差、つまり中心から遠くなるにつれて、
この工作室だけは、ドクトルもレンズに埃が入り込まないようにと綺麗にしている。他の部屋ももう少し綺麗に使ってくれるといいのになぁ。
ドクトル・ロドミーは父親が魔術師という生い立ちのせいか、およそ街の女性が興味を持ちそうなことに関心がない。いつも身に付けているのは少し大きめのクタクタの白衣だし、宝石を見ても、どれだけ魔力を込められるかにしか興味を示さない。
言葉遣いもぶっきらぼう。やや常識に欠けるきらいもある。けれど、贔屓目なしに目鼻立ちは整っていると思う。もったいない。
そんなことを以前、何かのはずみで率直に申し上げたところ、「君は今、自分が幻術にかけられていないという確証があるかい?」と返された。そういう人だ。
僕はそんなもったいないドクトルの助手を務めている。
ロドミー研は研究室こそあるものの、研究内容がマイナーなせいか他に研究員がいない。所属だけロドミー研としておいて、全く研究室に来ない幽霊研究員なら何人かいるのだけれど。
ここ、ソフィア魔術学院には評議会があり、研究成果を発表して予算や学位等を得る機会がある。全ての研究室が評議会に向けて研究をしているかというとそうでもなく、魔術装置を製造、販売して資金を稼ぐ研究室があったり、用心棒のようなことをして資金を稼ぐような研究室があったりと、研究室によって資金繰りの方法はまちまちだ。
うちの研究室は今のところ、正当なやり方というか、評議会に研究内容を提出して出る研究補助金で研究資金を工面している。今作っているものも、その一環というわけだ。
サンドイッチを置こうとしたそのテーブルには、図面や筆記用具、飲みかけのマグカップ。開いた本のページの間にはいくつかレンズが立っていて、ハート型の影を作っていた。簡易的にレンズの組み合わせを試す際に、ドクトル・ロドミーがやったのだろう。以前もこんなことをして、太陽光の収れん(虫眼鏡や金魚鉢で火が出るアレね)で本を焦がしていたっていうのに。買い物に出る前に僕が綺麗に片付けたはずなんだけどなぁ……。
「はぁ」
腐っても始まらない。テーブル上のものをひとまず端へ寄せてサンドイッチを置き、コーヒーを淹れることにする。渋がつき始めたガラスのマグカップも、ついでに重曹で洗ってしまおう。ドングリのアク抜きから渋取りまで、重曹は本当に万能だ。
さて、コーヒーを淹れる時間を利用して「何故三階の窓から入らなければならないのか?」を解説しようかと思う。
この研究室は、巨大な研究棟の一部にあたる。
研究に際して作りだしたりかき集めたりしたモノがどうしても増えていってしまう。それが研究室の、いや研究者の
そのようにして無理やり作られた研究スペースで、様々な実験が長年にわたり行われてきた。
実験に事故はつきものだけれども、案の定というかなんというか、研究棟の廊下には、うっかり開けっ放しにした異次元ゲートから現れた異次元生物や、実験で作った
更には、盗賊達が浅い階層を根城としていた時期があり、彼らによって様々なトラップが仕掛けられ、それを今度は、盗賊達から貴重な魔術の品を盗まれないようにと魔術師達が魔術的な罠を張っていった。
そんなことが長年繰り広げられてきた結果、研究棟は完全にダンジョンと化してしまったのだった。
『アリ塚』
魔術師達は愛情と揶揄を込めて、この研究棟をそう呼ぶ。
アリ塚の入り口は今も存在するけれど、そこから入ったとして、目的の研究室にたどり着くのは至難の業。多くの研究室は、危険な廊下に通じる本来の入口を締め切り、別途外から直接入る入り口を持っている。うちの研究室も、廊下への扉は塗り固めて出入りできなくしている。
というわけで、我らがロドミー研の出入り口は、あのキノコ階段で登る三階の窓のみ。そのため、僕は日々キノコの階段を登り、窓から出入りしているというわけだ。
よし、コーヒーが涌いた。
サイフォンで淹れたコーヒーを持ってキッチンから戻ると、既にサンドイッチの包みが開いていた。
コーヒーの豊かな香りに、なんとも空腹を刺激する焼けた小麦の香りが混じる。
「食事くらい、ゆっくりとったらどうですか? コーヒーも淹れましたし」
「海賊くん、サンドイッチは何かをしながら食べるために発明されたものだよ」
『海賊くん』とは僕のことだ。もちろん本物の海賊とは縁もゆかりも
工作室に視線を送ると、サンドイッチを片手に作業をしているドクトル・ロドミー。
かの“サンドウィッチ伯ジョン・モンタギュー四世という貴族が、カードゲームをしながら食べられるように作らせたのがサンドイッチ”という俗説のことを言っているのだろう。何かをしながら食べるのは、あまり褒められたことではないと思うのだけれど。
「パンクズが混入しても知りませんよ」
一旦食べかけのサンドイッチを作業台に置いたものの、尚も口をもぐもぐさせながらドクトル・ロドミーは作業をしている。今はヘリコイドを組み立てているようだ。
ヘリコイドとは、三つの筒が組み合わさり、それぞれにネジがきられているもの、と言えばいいのかな。外側の筒のネジは細かく、内側の輪のネジのピッチは大きい。これは手で外側の筒を回すことで、レンズ同士の距離が開いたり、あるいは
組みあがるにはまだ時間がかかるだろう。
戻ってフラスコから二つのカップにコーヒーを注いでいくと、上昇する液面にアイパッチをした自分の顔が映った。
「……その『海賊くん』っていうの、なんとかなりませんかね」
左目は幼い頃に病で失った。
気にするなと言われても、どうにも自分が欠陥品に思えてしまうときがある。
「『ルマリエ』と呼んでくれるなと言ったのは海賊くんだったと思うのだが」
「それは……そうですけど」
この「ルマリエ」という女の子のような名前も、コンプレックスの一つだ。
そのことで両親のことを憎……んでまではいないけれど、ありがたくないギフトだとは思っている。
こうしたコンプレックスが「周囲を見返してやりたい」といった、歪なモチベーションを生み出し、学院入学試験合格の一助になったことは否定できないのだとしても。
「私はな、海賊君。『キミ』とか『オマエ』とか、『助手』と呼んでしまうことに抵抗があるんだ。単に呼びつけるための対象としてしか認識していないように感じるからな」
「その心遣いはありがたいんですけど……」
そういうことではなく。
「わかったわかった。別の呼び方をすればいいのだろう? そうだな……『マリちゃん』でどうだ?」
「……『海賊くん』で結構です」
ただでさえああいった人なのに、作業中に呼称変更を要求した自分の浅はかさを悔いた。
観念して一人テーブルでコーヒーとサンドイッチ。
ちなみに食器は僕が必要性を強く主張して導入した。
以前は平気で実験用のビーカーやフラスコ、メスシリンダー、シャーレといったものを食器としても使用していたけれど、僕が食事を正しくとることの大切さと、渋の付着や油汚れ残留等での実験精度低下について
サンドイッチは学生の間でも人気の店『チューブ』のもの。僕はパンをオーツ麦や大豆、はちみつが入ったパンにしてもらっている。
美味しいものを食べれば、沈んだ気持ちも浮き上がっていく。
“心身相関”
心理と身体とは影響し合うものだ。
「できた!」
頬を上気させながら小走りでドクトル・ロドミーが現れ……たかと思ったら、また工作室へ戻っていく。見に来いということなのだろう。こういうときだけ、子供のようなキラキラした目をするからズルい。
ドクトルが作っていたのは、簡単に言うと小さな望遠鏡のようなものだ。しかしレンズには石英だけでなく蛍石やエーテルを含ませていて、魔術的な用途に耐えられるように作られている。これらの技術は、あるノームの工房との共同開発だ。
ああ、ノームというのは背の小さくて手先の器用な半妖精のことね。
ドクトルの分のコーヒーを持って工作室に行くと、今まさにドクトル・ロドミーが、その『魔術的な用途』を試すべく、望遠鏡の円筒の端をマウントに固定するところだった。
マウントとは、オーブと望遠鏡を接続する部分。金属爪をオーブに這わせて固定した、望遠鏡をはめ込むための土台のこと。マウントの中央には、望遠鏡の端が接合できるようねじが切られている。これがあることで、用途に合わせてレンズを容易に交換できるというわけだ。遠くを見るには望遠鏡のようなズームレンズが必要になるけれど、広い範囲を捉える広角レンズや魚眼レンズ、小さなものを見るマクロレンズといったものもある。今取り付けたもの、つまりガウスタイプは中望遠レンズだ。ヘリコイドのところで説明した通り、ある程度
「アレをくれ」
アレとは、これから試そうとしている魔術に必要な「オントウィッケラー」という液体だ。内容としては、石英から抽出した水溶性ケイ素をベースに、ブルーベリー、電気ウナギの尻尾、マインドフレイヤー(生物の脳を好むタコのような頭をした怪物)の触手等を混ぜ合わせたもの。味はなんというか、生ゴミ置き場に転がっている石が、こんな味なのではないだろうかと思う。すくなくとも、折角のチューブのサンドイッチを食べた直後に口に含みたいものでは決してない。なんなら今は見たくもない。
そう思ってはみるものの「一刻も早く試したい!」と顔に書いてあるドクトル・ロドミーを前にしては、貯蔵棚から黙ってビーカー一杯差し出すより仕方がなかった。
すぐさまそれは口元に運ばれ、ゴキュッゴキュッと
空のビーカーを受け取る。こんなものは早々に洗ってしまおう。
とシンクに向かいかけたところで、レンズがこちらを向いた。
「僕ですか!?」
「被写体第一号だ。名誉だろ? はいポーズ」
「き、急に言われてもっ……」
あたふたしている間に。
「Zeg Eens Kaas」
詠唱が工作室に響き、オーブが淡く光ったかと思うと、その光がドクトル・ロドミーの瞳に吸い込まれていく。
ややもすると、その右目から大粒の涙が零れた。零れた涙は極寒の地にいるかのように、すぐに結晶化を始め、凍り付いていくかのように固体へと変化していく。何度見ても、このプロセスは神秘的だ。
ついに涙の粒が小さなドロップ型の結晶になると、顔の下で待機していたドクトル・ロドミーの手のひらに納まった。
結晶の色は目に飛び込んできた光に左右される。なので、今出来あがった結晶は、研究室の壁や僕の白衣から、やや白みがかった半透明の結晶となった。
ドクトル・ロドミーがその結晶を摘み上げ、窓からの光に透かす。
「ぷっ……なんて顔しているんだ」
ドロップ型の結晶には、オーブに見えたものが記録され、透かして見ると像が浮かび上がる。つまりこの結晶の場合、どうしていいかわからなくて慌てたような顔の僕なのだろう。
ひとしきり笑われてから。
「見るか?」
「結構です」
見せてもらわずとも、間抜けな表情だろうことは想像がつくし、わざわざ見たいものでもない。
「このキャメロンドで撮った、記念すべき最初のフォトン結晶だ。滲みも歪みもない。成功だな!」
野花のように笑う。
そんな顔をされてしまうと、だいたいなんでも許せてしまう。まったく、かなわない。
オーブと望遠鏡の組み合わせが『キャメロンド』だ。多くの
先程の魔術で生成した、ドロップ型の涙の結晶がフォトン結晶。レンズを通してオーブ(レセプター)に捉えた
このフォトン結晶をはじめとした新しい魔術系統、
「それで、だな……」
急に歯切れが悪くなる。嫌な予感がした。
「名誉ある第一号被写体となった海賊くんに頼みたい仕事がある」
「……なんでしょう?」
「実はな、トンガリさんから、住んでる世界が崩壊しそうだからなんとかしてくれとの報せが来てな」
「はぁ!?」
トンガリさんとは、レンズを共同で研究、製造しているノーム達の長だ。もちろんドクトル・ロドミーがつけたあだ名で、本名はたしかルーフェスだったと思う。あまり人に姿を見せたがらないということで、僕も直接は会ったことがない。やりとりはドクトル・ロドミーが一人で行っている。
彼らが住んでいる世界とは、ノーム達が「ザード」と呼んでいる『次元の孤島』だ。
この辺の詳細はまた後程解説しようと思う。
ともかく、レンズが研究の主軸である我が研究室としては、レンズ供給元のノームの工房が失われるのは、かなりの死活問題というか、研究室存亡の危機と言っていい。
「とにかく、一度様子を見に行ってくれ」
「様子を見るって、僕がですか?」
「うむ」
「ドクトルが行った方が……」
「私はそういうのに向いてないからな」
こうもキッパリと言い放たれると、二の句が継げなくなる。
学術において、発案や計算が得意なタイプと、地道な調査やデータ収集が得意なタイプがいると思う。ドクトル・ロドミーは圧倒的に前者だった。自分の興味があることにしかセンサーが働かないというかなんというか……。細かい測定結果のまとめとか論文を書くだとかは、大概僕の役目となっている。
「……分かりました」
渋々承知する。
何せ僕自身の研究テーマも、ノーム達のレンズ技術を応用した義眼の開発だし、そもそもこの研究室以外で、僕を受け入れてくれそうなところはない(事情は後述する)。この研究室とは
「で、どうやって行けばいいんですか?」
「いつもトンガリさんの方から来てくれていたからなぁ。正直わからん」
思わず天を仰ぎ見た。天井には焦げ痕があった。以前実験でドクトルがつけたものだ。
「案ずるな。エリ姉のところに行けばなんとかなる」
エリ姉とは、ドクトル・ロドミーの姉、ドクトル・エリザベートのことだ。
二人の父であるマスター・マルーネイの研究を、妹のロドミーはレンズを使った魔術に関して、姉のエリザベートは
例えば、
元々マスター・マルーネイは
話を戻すと、
「エリザベート研ってアリ塚の奥の方でしたよね?」
先程も少し触れた通り、
マスター・マルーネイが、先々代の次元魔術研究室長から研究室を引き継ぎ、そして更にそれを若きドクトル・エリザベートが昨年引き継いだということになる。彼女がマスター・マルーネイの息女であることを差し引いても、その才能は飛びぬけている。聞くところによると取り憑かれるように魔術研究を行っているそうだ。おそらく、主要な
当のマスター・マルーネイは、娘二人に研究を継いですぐに「しばらく出かける」と言い残し、どこかへ旅立ってしまった。以来、まったく音沙汰がないし、どこに何のために旅立ったのかもわからない。ドクトル・ロドミーですら知らないようだった。
魔術師の消息がわからなくなることは珍しくないけれど、ここへの入学に口利きしてくださるなど、多大な恩義がある僕としては心配だ。もちろん、娘であるところのドクトル・ロドミーの方が、心配の気持ちは強いとは思うけれど。
今回の件もマスター・マルーネイに頼れない以上、僕らで何とかしなければなるまい。
「
奥の方にある研究室へは通常、外から
「うーん……忘れた」
「お姉さんの研究室ですよ?」
「あそこは息が詰まるし、用があるときはあっちから来るからな」
言いながら、テレカップに手を伸ばす。
テレカップは、見た目は底に紐がついた、上げ底の木製ビールジョッキ型の
ジョッキの底に薄い鉄板が張ってあり、音の空気振動をその鉄板が受けると、鉄板に繋がった磁石の鉄芯が、銅線を筒状に巻いたコイルの中を前後するかたちで振動する。結果、電磁誘導が起こりコイルに電流が発生する。発生した電流は電線を辿って、対になったもう一方のテレカップに伝わると、逆のプロセスを辿って(つまり、流れてきた電流で鉄芯を前後させ、鉄板を揺らして音を発生させるというわけだ)、相手のジョッキで音を再生するという仕組みになっている。
電流が電線を流れる過程で、電線にも若干の電気抵抗があるため、どうしても再生する音に劣化が生じる。そのため使用距離は、ちょうどここからエリザベート研までの距離くらいが限界だ。
電線は多分、動物操作系の魔術でネズミに運ばせる等の方法で、通気孔から通しているのだろう。素材はコーティングされた銅だ。
「もしもーし? もしもーし? きこえるー?」
ドクトル・ロドミーの問いかけに、間もなく、ノイズ混じりの女性の声が返ってきた。かなり小さな音だけれど、僕は割と耳がいい方だ。
「なぁに?」
ちょっと疲れたような若い女性の声。ドクトル・エリザベートだろう。
「そっちの
「ごめん、最近時空の揺らぎが激しくて、危ないから止めてるんだけど」
「まいったな」
「二、三日後には落ち着くと思う」
「いや、そんなにのんびりしてられん。とりあえず向かう」
「向かうってまさか! ちょっと! 少しくらい待てないの!?」
声が慌てた。ちなみに僕も慌てている。
「大丈夫だ。今回は一人ではないからな。では、後程」
テレカップの向こうからは、何かヒステリックな声を送っているっぽい感じがするけど、ドクトル・ロドミーはカップを伏せてしまった。
そして冷めたコーヒーをグイっと飲んでから、おもむろに立ち上がる。かと思うと、部屋の隅で埃を被っていたバックパックを引っ張り出してパンパン叩き「ケホッケホッ」と埃に咳き込んでから、ゴソゴソ中を確認し始める。バックパックには、以前僕があてつけで買ってきた海賊の人形がくっついていた。そうかー。ここにつけていたのかー。
ふと手を止め、不思議そうにこちらを見る。
「ほら、海賊くんも早よう準備せよ」
「あの、一応確認ですけど、まさかアリ塚の中を歩いてエリザベート研へ?」
ドクトル・ロドミーは、「そんなこと当たり前だろ?」と言わんばかりの顔。
「心配無用だ。以前一度そのようにして行ったことがある」
ビシッとサムズアップ。
アリ塚の内部は先程説明した通り、簡単に言うと危険がいっぱいだ。「俺、研究室に正面入り口から歩いて行ったことあるしぃ」なんてのは、学生の与太話としては自慢になる内容なんだろうけれど。まぁドクトルとはいえ学生くらいの年齢だろうし、わからなくもない……のか?
アリ塚の内外には各研究室の
ちなみに、これも先程説明した通りだけれど、この研究室の元々の扉は完全に塞いでしまっているため、同じ研究棟でありながら、ここから廊下に出ることはできない。
「はぁ……」
憂鬱だ。
一人で行けと言われなかっただけ、よしとするべきだろうか。それとも、僕一人では無理そうだと思われたと悲観すべきだろうか。
ともかく用意をと思い、備品室兼仮眠室で白衣を脱ぎ、黒っぽく動きやすい服装に着替える。アリ塚を徘徊しているモンスターに見つかり
あとは、調査でフォトン撮影が必要になりそうなので、例の
その他、調査に必要になりそうな
ふと目の端で動いたものを捕らえ、そちらを向く。
窓からの陽光を浴びた薄着の少女が、膝立ちのまま真剣な表情で何かを読んでいるのが見えた。その光景に、思わず息を呑む。浮世離れした光景。妖精でも迷い込んだのだろうかとさえ思った。
少しだけ落ち着いて見れば、その……普段アップにしている髪が降りて、下着姿になっているドクトル・ロドミーだった。着替え中に何かを見つけて、つい読みふけってしまった、というところだろう。無防備な。
「着替えるならドアくらい閉めてください!」
「んぁ? ああ」
僕の手がドアを閉めた。
頭の中で、何かが「偽善者!」と叫んでいる。
はいはい、偽善者ですよ。
意識すると壊れてしまうものもあると思うんだ。うん。
あるいは、自分を男と認識してもらいたかったのかもしれない。
まま、そんな自分のあさましさと向き合うのは別の機会にしよう。
考えるのをやめ、必要以上に荷造りに集中した。
陽はまだ高い。
準備を整え、巣から飛び立つミツバチよろしく、もそもそと窓から身体をだす。
パンパンに膨らんだ僕のバックパックが窓枠にひっかかりそうだったけれど、なんとか引っ張り出して(勢い余ってあやうく転落するかと思った)窓に鍵をかけた。
この出で立ち、傍から見たら完全に泥棒に見えるだろう。
相変わらず風は強く、樫の木や、その向こうに見える
ザワザワザワ……。
葉の擦れ合う音が、知らない言葉で噂話をされているように聞こえ、胸の奥をザワつかせる。
ドクトル・ロドミーも僕と同様、黒っぽく動きやすい服に着替えている。先程、行方知れずのマスター・マルーネイを思い出したからか、普段白衣姿の彼女が着ている黒衣が喪服のように見えてしまった。縁起でもない。
木の橋を渡ったところで、ドクトル・ロドミーは樫の幹に手を当てて目を閉じた。
そういえばこの木はマスター・マルーネイが植えたものらしい。
どっしりと地面に伸びた根を上から見下ろすと、どことなくマスター・マルーネイのやや節くれだった手が思い出された。
この研究室でこそ、一緒に研究した時間は少ないけれど、マスター・マルーネイは間違いなく僕の恩師だ。僕が魔術師を志したのも、そしてこの学院に入れたのも、希代の天才と称された先生のおかげだった。
いったい先生は今どこで、何をしているのだろう。
その天才のあとを受け継ぐ小さな背中が、今日はなんだかいっそう小さく見える。
「大丈夫です。きっと」
なんて言葉は、気休めにしても、あまり気が利いていないと自分でも思う。
はちみつ色の後頭部は振り向くことなく小さく頷き、キノコの階段を下りていく。
僕が気休めに込めた意味も、彼女が頷いた意味も確認されないまま、二人進んでいく。人の繋がりとは、案外そういうものだと思う。
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