第162話 いとし君に

「お帰りなさいませ」

 青龍が中天界の自身の屋敷に着くと、その門前には年若い娘が出迎えに待ち構えていて、彼の顔を見るなり明るい声でそう言った。

 青龍の愛娘、璃玖りくである。

 娘の発する柔らかな気に、気持ちが心地よく揺らされて、青龍は思わず目を細める。 久しく感じることのなかったそんな感覚を呼び起こされて、自分はようやくこの場所に戻って来たのだと、改めて感じ入った。


……まことに長い……長い不在であった……


「長く留守をしたな。息災であったか?」

 青龍がそう問うと、娘は笑顔で頷いた。

「はい、お父上さまもお元気そうで、安堵いたしました。長らくのご公務、まことにお疲れさまにございました」

「全く、この様に長くなるとはな……我が身の至らなさを思わずにはいられぬ」

「あら。お父上さまは、よくやっていらしたと、そうおっしゃっていらっしゃいましたよ、あのお方は」

 その言葉に、青龍の眉がぴくりと小さく動く。


……おっしゃっていた、だと?『あのお方』、が?……


「璃玖、そなたがここで私を待っていたのは、私に来客のあるのを伝えるためか」

「はい、左様にございます」

 璃玖が満面の笑みを浮かべ、嬉々とした様子で言う。忌々しいことに、その笑顔だけで、彼には来客が誰なのか察しが付いてしまった。

「……奴め、ふざけおって。油断も隙もないわ。帰る早々、押し掛けるとは、全くどういう料簡なのだ」



 果たして、青龍が板張りの廊下を軋ませながら大股で歩き、来訪者が待っているという部屋に踏み込むと、くだんの客人は、呑気にお茶を啜っていた。

「よお、遅かったな」

 自分の顔を見るなり、そう言った玄武を見て、青龍はあからさまに顔をしかめた。

「そなたは、地上で一度死んだのだろう。冥府に赴き、肉体の再生を成さねば、ここには戻れないはずではないのか」

「ああ、そのことなら、問題はない。ほれ」

 言って、玄武は地上で失ったはずの腕をひらひらと振って見せた。それはかの者の体が、問題なく再生されたことを示していた。

「……それは又、随分と手際の良いことだな」

 青龍がどこか納得できないという顔をしているのを見て、玄武が軽く笑った。

「そりゃぁ、冥府の王には、色々と貸しがあるからな。先の冥王にも、今度の冥王にも。有無を言わせず、最優先で処理させたに決まっているだろうが」

「成程。貸しか……よもやとは思っていたが、そなたが先の冥王と裏で取引をしていたというのは、本当だったという訳か。手段を選ばず、まあよくやることだな」

 少し嫌みを込めて言ってやると、玄武は不敵な笑みを浮かべた。

「それで諸々の問題が解決したんだから、文句はあるまい」

「解決していなければ、殴っているところだ」

 それが有能さの証なのだとしても、その強引なやり方は時折、青龍の仕事というものに対する美学に反するのだ。

 そしてそれが又、青龍がこの男に対して、微妙に心を許すことが出来ない要因のひとつになっている。更に、そこには今ひとつ厳然とした理由というものがあった。


「俺がここに居る理由は、それで納得か?ならば今度は、俺が今日ここに来た理由を教えてやろう」

「言うな」

 青龍が大きく腕を払う仕草をして、その言葉を拒む。

 聞くまでも無く、奴の言いたいことは分かっている。帰った早々、自分はそんな言葉など、断固、聞きたくはないのだ。

「日を改めろ」

「今更、じたばたすんなって」

 青龍の嫌がり様を、玄武はどこか面白がっているようだ。するとそこへ、愛する娘の容赦ない声が介入した。

「お父上さま、いい加減、観念なさってくださいませ。玄武さまをこれ以上、一体、何年お待たせするお積りですか」

「璃玖ぅ……」


……ああ、幸せが逃げていく……


 そんな思いに、不覚にも、目が潤む。

「玄武さまも玄武さまです。お父上さまに甘すぎなのですから」

「……そりゃぁ、俺は、青龍殿を敬愛しておりますからね。そのお気持ちを無下むげには出来ないと言いましょうか……」

「この私と、どちらが大事だとおっしゃいますか」

「そりゃ、断然、璃玖」

 即答した玄武に、途端に璃玖が頬を赤らめ、幸せそうな、何とも言いようのない笑みを零す。玄武は思わずその顔に見惚れ、

「では、どうぞ、我が父に引導いんどうを渡して差し上げて下さいまし」

 と、笑顔で言った璃玖の、その命令に逆らうことなど、もう出来はしなかった。


 彼は璃玖に急かされるようにして立ち上がると、勢いよくその場に正座をして手を付き、床に額を擦りつけるようにして、ついに言った。

「青龍殿、どうか璃玖殿とこの玄武との婚儀を、お許し下さい」

「……」

 言われた方は、その場に立ち尽くし絶句している。

「絶対に幸せにします、大事にします、苦労はさせません、辛い思いなどさせません。命がけで守りますっ。だから、どうかお願い致します」

「……」

「何が何でも幸せにします、心底大事にします、勿論苦労はさせません、決して辛い思いなどさせません。必ずこの身に代えても命がけで、守りますからっっ……」

「……も、もういい。……分かったから」

「では、お許し頂けるのですか」

 玄武が勢いよく顔を上げた。その期待に満ちた目に、もはや否とは言えなかった。

「……許す。もういい……勝手にしろ」

 大きくため息を付きながら眉間に皺を寄せて、青龍は力なく椅子に腰を下ろした。

……もう、いい加減、恍けて待たせるのも、大人げないのだろうと、自身が一番分かっている。


 かつて、そんな話がちょうど出かかっていた頃に、青龍が地上に下向することが決まった。以来、ずっと待たせていたのだ。正直なところ、十年、二十年ぐらいは、知らばっくれていようと思っていた。だが、地上の思いがけない混乱によって、予定していた年月はとうに過ぎて、それももう、数えてみれば、かれこれ百年近いことになる。これ以上は、さすがに非道というものだろう。


 そこで又、ふうとため息を付いて、璃玖が差し出したお茶に口を付ける。と、

「ありがとうございますっ。義父上」

 その間合いで言われて、思わず茶を噴き出しそうになった。

「……やめろ、その呼び方だけは、やめろよ?」

 狼狽する彼に、義理の息子になる予定の男は笑いをかみ殺している。


……何で、こいつなんだよ。璃玖よぅ……


 そんな心のぼやきは、無論、口に出す事は出来なかった。それでも、娘の幸せそうな笑顔を見ていると、それで良かったのかとも思う。 しかし、どこか釈然としない思いが、彼の中でいつまでも消えることはなかった。それは男親が一度は通る、世の常というものなのだろう。





 やがて手の茶器は杯に代わり、酒肴をつまみながら話すことは、やはり四方将軍同士、自然、互いの仕事の首尾と天界の情勢についてのものに流れていく。

「朱雀は、しばらく地上に留まるのか」

 玄武が確認するように訊く。

「ああ、曲りなりにも砂宛の国妃だからな。子供も生まれたばかりだし、当分は戻って来まい」

 青龍がそう言うと、玄武が大きく伸びをして、それは当分静かでいいなと呟く。そんな様子に苦笑しながら、青龍はこちらに戻ってすぐに耳にした信じ難い噂を口にした。

「それより、本当か、白虎が……」

 皆まで言わないうちに、玄武は頷いた。

「ああ、将軍位退任の意志を示しているらしいな。奴は、巫族の宝珠の持ち主だから、宝珠の意志に従い、地上で巫族の再興を果たしたいのだそうだ」

「……それは、将来的には、天鏡の再興という話に繋がっていくことになるのか」

「さあな。ただ、天鏡の滅亡は、天界にとっても本意ではなかったらしいし。いずれは、ということなのだろう。だから、特例として、あの白虎……杜亮は中天界から除籍される」

 それはつまり、杜亮は人としての生を終えた後も、中天界には戻らず、普通の人間と同じように再び輪廻の輪に戻り、生と死を繰り返すということだ。 そんな生き方を選ぶ者もいるのかと、青龍には俄かには信じ難い。

「空いた白虎の位はどうなる?」

「ああ、それならば、すでに後任候補の者が天界に上がっている頃だ。新たな四天皇帝陛下のご即位の後に、正式に任命されてこちらに下りて来るはずだよ」

「……相変わらず、情報が早いなお前は」

「まあな」

 玄武が意味ありげな笑みを浮かべる。恐らく、その話にもまた、玄武が一枚噛んでいるのだろう。そう感じられた。 だが、聞きたいか?聞きたいだろう?的な表情をあからさまに浮かべている玄武に何となく気を削がれ、青龍はそれ以上その話題を掘り下げるのをそこで止めた。


……まあ、時が来れば分かることだ……


 故に、その笑みの意味と、玄武が二人の冥王と交わした取引の全容を青龍が知るのは、もう少し後の事になった。

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