第137話 失われゆく力

 大陸歴二七一年、初夏。

 海州国、美水城。


 蒸し暑い夜だった。忙しい職務を終えて、自室に帰り着いた周藍は、いつもの様に、休む間もなく八卦師の日課である星読の儀を始めた。近頃また、慌ただしく動き始めた、北方の者達の擁する星たちの行く先を見定める為である。

 近く、北に動きがある。そんな気配はもう、この年明けからすでにあった。

 広陵に遣っている匠師に情報を集めさせているから、八卦を使うまでもなく、大体の予測は付いている。

 広陵国主劉飛の義妹である朱凰が、砂宛国主の元に嫁すのだという。この話が正式に纏れば、広陵と砂宛は同盟関係を結んだも同じだ。河南の杜陽にとっては、大きな脅威となるだろう。そうなれば、杜陽は間違いなく北を目指す……戦になるのかも知れなかった。


……これをどう……動かすべきか……


 占術盤上の星の光を見据えながら、周藍は思案顔になる。杜陽が覇王になるのならば、それでも構わない。ただ、その過程で、また多くの命が失われる事は、極力回避したいと思っている。


 そんな事を考えながら瞳に映した明滅する星の光が、不意にぼやけてその輪郭を失った。それを訝しむ間もなく、先刻から感じていた息苦しさが急に彼の体を押し包む様に増した。


 周藍は、思わず胸を押さえて意識的に大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。その途端に途切れた集中力を嘲笑う様に、光は自由気ままに盤上を遊びまわる。だが、そんな事にさえ、周藍は注意を払う余裕はなく、額から滴り落ちていく汗と共に膝を折った。息苦しさは増すばかりで、そのまま床に座り込む。 最早、制御出来ない荒い呼吸を繰り返しながら、身を支える様にして床に付いた手にふと目をやった周藍は、背に言い様のない悪寒を感じた。その手を通して、床が透けて見えたのだ。

「……」

 込みあがって来る恐怖感に、呼吸は更に短く浅くなっていく。


……私にはもう……星を定める力すら…なくなるのか……

 その変調に、彼は漠然と自身の終焉というものを思った。



 『彼』が十歳で失った体は、藍星王の力によって再生された。又、その大いなる力によって、普通の人間と同じ様に生きる事を許された。それは重い宿命と引き換えに与えられた生であり、その行く手は幾度も絶望という名の壁に阻まれて、感情を殺しながら、行かねばならない……そんな生だった。

 それでも、心を許しあえる友と出会い、恋もして、最愛の者と結ばれもした。


……悪い事ばかりでもなかった……か……


 だが、縹氷の誕生と共に、彼の時は止まった。

 自分の血を分けた子の誕生。それは、八卦師がその力を失う事を意味する。それに抗い、彼が八卦師としての力を使い続ける為には、あるべき未来を引き換えにしなければならなかったのだ。

 だが、自然の摂理に逆らって、そこに存在し続ける事は、星王の力を持ってしても、限界のある事だった。 それでも藍星王は、彼という存在を見限る事はせずに、その力のほとんどを彼の生を繋ぐ事に費やすという道を選んでくれた。


 以来、彼は藍星王の声を聞いていない。自分の身を護ってくれているその存在を、漠然と感じはするものの、かつての様に、その声を聞く事はもう無くなっていた。

 四天皇帝から託された詔。それを新たなる覇王となる者に渡すという使命。それのみが、彼がこの世に留まる事を許された理由なのだろうと、周藍は何となくそう思っている。だが、まだそれを杜陽に渡す事は出来なかった。

 赤星王は、橙星王を倒さねば、天下統一はないと考えている。詔を渡す前に、その考えをどうしても改めさせなければならなかった。

 そうでなければ、かつての友が、自らの血を受け継いだ者と殺し合う事になる。そんな運命に導いてしまったのは、間違いなく自分だ。自分こそが、彼らの運命を捻じ曲げてしまった……だから、何としてでも、それだけは阻止しなければならない。


 そう思いながら、周藍はこの三年、その方策を探って来たのだ。だが……

……私にはもう、時間がないと言うのか……

 苦しい息の中で、心の奥底から染み出してくる焦燥感と絶望感。それに抗う様に身をよじりながら、今。彼は縋る様にその名を口にした。

「……藍……星王様……」

 ふっと、全身の力が抜けて、周藍は自分が床に崩れ落ちる様にして横たわったのを感じた。


「私には……まだ……」

……やるべき事が残っているのに。

「……こんな所で……」

……死ぬ訳にはいかない。


「藍星王様っ……」

 苦しい息の下で、絞り出す様に発した声に応える様に、藍色の光が周藍の体を包み込んだ。

……ああ……

 その懐かしい気を感じ取って、その瞳から涙が零れ落ちた。


……久しいな、周翼……


 あの時以来、自分の中に封じ込めてしまった本来の名を呼ばれた。言い様のない懐かしさを帯びて響くその音に、思わず言葉に詰まる。 言わなければならない事があるのに。伝えなければならない事があるのに。言葉が出て来ない。

「藍星王様……私は……」


……何も言わずとも良い。お前の事は、何もかも分かっている。私を誰だと思っている……


「はい……」

 そこに感じた安堵と共に、呼吸が少し楽になった。それを確認する様な間の後で、再び藍星王の声が聞こえた。


……周翼……

「はい、藍星王様…」

……私がこうしてお前と話す事が出来るのは、恐らく、これが最後になるだろう……

「それは……」


……お前は八卦師として、大きな力を手にし、それを使い続けた。故に、本来の寿命……つまり、冥王が介入しなければお前が全うしたであろう天命すらも、使い尽くしてしまったのだ……


「……」

……こればかりは、私の力でも、どうしようもない。今のお前は、四天皇帝様に与えられた使命故に、辛うじて生かされている……

「では、その使命を果たした暁には……」

……恐らく、冥府に戻る事になるのだろう……

「そう……ですか……」


 長かった仮初めの生が終わる。そう告げられて、周藍は気持ちの整理を付ける様に黙り込む。だが、時間の猶予がないのか、藍星王は少し急いた様に話を続けた。


……四天皇帝様がお前に詔を託したのは、この事を予期していたからなのではないかと、私は考えている……

「それは、どういう……」

……詔は、お前の命を永らえさせる為に与えられたものだと……


 藍星王の思いがけない言葉に、周藍は混乱する。

「四天皇帝様が、何故、私を?」


……それは……華梨の為だ……


 その名に、否応なしに心臓がぎゅっと鷲掴みにされた。

 どうしてここで、華梨の名が出てくるのか。

 周藍の戸惑いは大きくなって行く。


 華梨は蒼星王の力によって、過去の記憶と共にその名を封じられている。自分は華梨の思いを利用して、彼女を傷つけた。だから、蒼星王は自分を憎んでいる。それ故に、あの星王はその憎しみの代価として、華梨の中から自分の全てを消し去ったのだ……だからもう二度と、自分と彼女の運命が交わる事はない。そんな風に思っていた。


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