第159話 過ちの連鎖
新たな黄星王は、有能という一言で評されるような人物だった。
少し神経質なところがあった先代とは違い、明るくおおらかで、天宮を押し包んでいた重苦しい空気を、あっと言う間に払拭してしまった。盟友であった先の黄星王を失い、意気消沈していた黒星王をも、その明るさで立ち直らせてしまった程だ。
その明るさが、実を言えば、藍星王には、鬱陶しかった。藍星王はそこに、自分が心に抱え込んでいる闇の部分を、有無を言わせずに照らし出されるような、強引さを感じたのだ。
次の四天皇帝には、黄星王が相応しい。誰もがそう思うようになるのに、さして時間は掛からなかった。
そして、黄星王は当然のごとく覇王選定の詔を受け、大陸の東半分を統べる程の強力な覇王を誕生させ、華煌という大帝国を興してみせた。大陸の西側を覆っていた戦雲も、華煌の隆盛に比例するように小さくなり、やがて地上は平穏を取り戻していった。
……少なくとも、表面上はそう見えていた。
その時は、誰一人として、藍星王が目を反らしてしまった明るさの中に、小さな波乱の種が隠れていたことに、気付いたものはいなかったのだ。
その異常なまでの明るさが、不自然なものだったのだと気付いたのは、月光姫の存在が明るみになってからだった。
少し影を帯びた黄星王の姿を見て初めて、こちらが本来の黄星王の姿なのではないかと、藍星王はそこで初めて腑に落ちた。この者が纏っていた光は、眩い陽の光ではなく、淡い月の光。今まで自分はそれを見誤っていたのだと。
先の黄星王は、この者の兄だったという話だった。それが、言ってしまえば不始末をしでかして、職務を途中で投げ出し、自害という不名誉な道を選んでしまった。
元々黄星は、九つの星のなかでも、主導的立場にあった星で、この天界においても、九人の中で上位に立って当然の、という気概を持っていた。 それが、四天皇帝を一度も務めぬうちから……。という思いが本星の黄星王にあったのは、想像に難くなかった。
恐らく、黄星の女王は、次期四天皇帝の位を取りに行くべく、もっとも信頼のおける有能な人材を送り込んで来たのだろう。その期待に応えるべく、黄星王は相当に気負っていたのではないか。それが、あの異常なまでの明るさと、非の打ちどころのない完璧な仕事ぶりという形で現れていたのではないか。
思い返せば、そんな風にも思えた。
なまじ有能であったが故に、そこに相当の無理を抱え込んでいたのだと気付く者は、藍星王を始め誰一人としていなかったのだ。
その重圧を癒し、その立場を理解してくれる存在としての月光姫。そういうことなのだろう。藍星王はそう思っていた。それで、黄星王が四天皇帝として、この先もやっていけるのであれば、たかが女一人のこと、黙認するのもやぶさかではなかった。
それは藍星王の、黄星王に対する、憐憫の情であったのかも知れない。だが、それこそが、この天界の創始に関わり、緑星王に次いで古参の存在で、他の星王から一目置かれ、長く智司という要職を務めたという自負から来る奢りであったのだとは、気付かなかった。
そのたった一つの判断の狂いが、事態を悪化させることになった。
……今にして思えば、そういうことだ。
「つっ……」
肩を並べて飛んでいた蒼星王が、小さな呻き声をあげて、その胸の辺りを押さえた。その異変に気づいて藍星王は訝しむような視線を向ける。
「どうした?」
「問題ない。瑠璃が……ざわめいている、というか……」
……瑠璃が……つまりは、その元の魂の主である鴉紗が、やはり、この件には関わっているのか……
天鏡眼を持つ奏となる筈だった鴉紗。
全てを見通す瞳……天鏡眼。
もしかしたら、鴉紗はその眼で、見てはならないものを見てしまったのか。
不意にそんな疑念が浮かぶ。
……見てはならない……もの。それは何だ……それは、この私が見落としてしまったもの……
もし、何かを見落としたのであればそれは、あの者から目を背け、理解しようとしなかったことが原因だ。 好き嫌いはともかくとして、智司である自分は、もっと冷静にこの事態を分析すべきだった。黄星王について、その性格や経歴や生まれ育った環境や……そんなものを。 生まれ育った環境。黄星人の特性ともいうべき……。
……そうか……自分は、もっとも重要なことを見落として……いた……
「そう……いうことか」
あの者は、まだ大人ではなかった。何故、そのことに気付かなかったのか。
……あの者はまだ、子供だったのだ。
全てを拒絶するように、その門は固く閉じられていた。
……ようやく。ここまで来た……
天界の門の前に立ち、冥王は感慨深げに、彼らの隔てとなったそれを見上げる。握り締めた九星王剣が時折、無理やりに服従させられた不満を示すように赤光を放ち、その束縛から逃れようとするように、手のひらを焼き尽くすような灼熱を帯びた。それでも、冥王の意志は揺らぐことはない。
「わずかな時で構わない。我が意に従え」
そう言って冥王は剣の柄を握り直し、渾身の力とありったけの思いを込めて、そこに剣を突き立てた。
刹那、剣先から業火が噴き上げて、目の前に立ちはだかっていた門は、跡形もなく燃え落ちた。
そこに、人影があった。
まるで彼がここに来るのを知っていたように、彼女はそこに佇んでいた。そして、今にも泣き出しそうな憂いを帯びた瞳で彼を見据えていた。
「月光姫……」
その姿を目にした途端、胸が締めつけられた。思い焦がれていた人の姿は、思いの外、儚く弱々しかった。その存在を確かめるように、冥王は月光姫の元に駆け寄ると、その身体を思い切り抱き締めた。
「会いたかっ……た……」
ただそうと言っただけで、胸が一杯になり、もう言葉が出なかった。
どれだけ長い、長い時を、ただこうして彼女を抱き締めることだけを願いながら、過ごして来たのだろう。その温もりも、身に纏う甘やかな香りも、何もかもが昔のままだった。それは懐かしい過去の幻影などではなく、今、自分の手の中に現実のものとして存在する。 その無上の喜びに、冥王はしばし、ただ打ち震えていた。
やがて、その昂ぶった気持ちが少し落ち着くのを見計らったように、月光姫が腕の中で、僅かにみじろぎをした。彼女が顔を埋めた胸の辺りに、涙の気配のあることに気付き、冥王は言い知れぬ不安に襲われた。
思わず身を離して、彼女の顔を確認すると、涙を落したであろう瞳は、哀しみの色を帯びていた。そして、そこに映る自身の影が揺らめくのを見ながら、冥王は月光姫の声を聞いた。
「どうして……来たのですか……もう二度と会うことはないと……そう……言ったではありませんか」
その言葉に冥王は愕然とする。
かつて告げられた別離の言葉が、痛みを伴って脳裏に蘇り、再会の歓びを容易に打ち砕いてしまったのを感じて、その心は微かに怒りを帯びた戸惑いに支配された。
「……一方的に。その様なことを告げられて、納得できると思うのか」
その言い様に、今度は月光姫が表情をこわばらせる。
「それでもっ。それで納得して頂きたかったのです……此度の事は、全て私の罪。それが、あなたにまで累が及ぶ様なことになれば……私は……」
……同じだ。あの時と、同じ……
自分たちは、またこの不毛なやり取りを繰り返すのか。募る苛立ちに、自然、冥王の語気は強くなる。
「馬鹿を申すな。我が身の保身の為に、そなたを見捨てろと言うのか。この私に、その様な無様な真似をしろとっ。……前にも言った筈だな。これは、そなた一人の問題ではないのだと。そなたを止められなかったこの私にも、間違いなく責任はあるのだと」
「違っ……だってあれは……この私の愚かさが招いたものだからっ……」
月光姫が激しく首を振り、冥王の言葉を拒絶する。また、あの時のように。
「……もういい。みなまで言うな。だが、そなたが天界に引き籠もってから、私がどれだけの無茶をしたと思っている。その罪の重さを問えば、最早そなたにも引けを取らぬ」
「だから……どうして……その様なことをなさったのです……私はその様なこと……望みはしなかった」
「そなたは、あくまでも私の手が汚れていないと言う。そして、そんなきれいなままの私の手は取れぬと言う。ならば仕方あるまい。 誰が見ても見紛う事もない程に、この手を汚せば、或いは、そなたはこの手を取ってくれるのではないのかと、な」
「愚かなことを……」
「愚かはお互い様であろう」
「……どうして……」
「もう一度、言わねば分からぬか。そなたを愛しているからだと」
月光姫の瞳が大きく揺れて、それまで懸命に堪えていたであろう涙が一気に溢れだした。彼女は両の手で顔を覆い、成す術もなくそのままその場に泣き崩れた。 冥王はその傍らに膝を付き、言い聞かせるように言った。
「良いか。何があろうと、誰が何と言おうと……私がこの想いを曲げることはない……」
ぽろぽろと、月光姫のその瞳から、涙が止めどなく零れ落ちていく。冥王はその哀しみごと、その体をそっと抱き寄せた。
「だから、もう二度と……私の側からいなくならないと……そして共に、我が黒星へ参ると……そう約束してくれ」
「……」
応えはない。
「月光姫」
懇願する様にその名を呼ぶとようやく、
「……分かり……ました」
と、月光姫が消え入りそうな声で答えた。
頭の上で、冥王が安堵のため息をつく気配がして、月光姫は、深い哀しみに沈んだままその胸に身を預ける。その者の温もりを心地良く思うたびに、残酷なまでに、確実に心に生じる後ろめたさは、それが叶わぬ願いだと告げているような気がした。
……私の罪は……拭い様もなく深く……もはやこの身と引き換えにすることでしか、購うことが……できないから……
そんな運命に、あなたを巻き込める筈がない。……愛しているからこそ。
あなたには、どこまでも光射す道を歩んで欲しい。どこまでもずっと。あの時のままのあなたでいて欲しい。私が恋した時の、あなたのままで……いて欲しい。
そんな願いを冥王は、きっとまた身勝手だと、怒るのだろう。
その罪を償う為の罰は、きっと癒しようもない孤独。
……そう言ったら、納得してもらえるのだろうか。
もうじきに、藍星王がここに来る。
きっと辿り着いた真実を携えて。
そして、全てを終わりにする為に。
彼方の空に、芥子粒ほどの人の影が浮かんだ。
……ああ、運命が近づいてくる……
ぼんやりとそんな事を思った。冥王の腕に抱かれたまま、その温もりに包まれたまま。その肩越しに、月光姫は、次第に大きくなっていくその飛影を見据える。
予想していた通り、こちらに近づいてくるのは、藍星王だった。そして、その傍らにいる蒼星王の姿を目にすると、かつて自分が犯した罪が思い起こされて、月光姫の胸はぎゅっと締めつけられた。
……そこに、いるのですね……
かつて自分が握りつぶした瑠璃の光。忘れようもないその気配を蒼星王の体から感じた。
彼らの姿が、もうそれと分かる程に大きくなったところで、そちらに背を向けていた冥王がその気配に気づいて、背後を振り返った。
「……藍星王」
冥王が月光姫を庇うように、その背に隠し、険しい表情でやってくる星王たちを見据えた。
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