第50話 涙の告白

 その夜。早速、相手と連絡を取り、陽香ちゃんがついこの前まで彼と一緒に住んでいた家で待ち合わせをした。

 僕たちは待ち合わせよりも少しだけ早くそのマンションへ行き、陽香ちゃんへ逢いにくる彼を待つことにした。

 二人が暮らしていた部屋はきちんと片付いており、余計なものが一切ない。

 ダイニングテーブル。二脚の椅子。テレビに小さなテーブルと二人がけのソファ。チェストは、一人分にしては少し大きいくらいの引き出し数があって、冷蔵庫も少しだけ大きめのものがあって、二人分のものが整然とそこにあるだけだった。

「陽香。大丈夫?」

 ここへ来てからソファに座ったままでほとんど口を開かない妹のことを、フミがとても心配している。

 産婦人科から戻ったあと、僕も一緒に一度フミのマンションへ戻り事情を説明した。

 あれほど快活で、なんでもはっきりとものを言う陽香ちゃんなのに、フミに自分の体のことを話すときにはとても真剣に言葉を選んでいて、一緒に来て欲しいと長く頭を下げた時には、僕の方がいてもたってもいられなくなるほど気持ちが苦しくなっていった。

 ここを訪ねた理由は、元々はこうしてフミに付き添い、ついてきてもらいたかったんだろう。弱い自分も、姉であるフミならきっと柔らかなクッションのように受けとめてくれて、苦しさを吐露できると思ったんだろうな。憎まれ口を叩きながらも、フミの優しいところや強い部分をちゃんと理解していたんだろう。

 ん? ちょっと待てよ。だったら僕は、やはり邪魔な存在じゃないだろうか? そもそも部外者中の部外者なわけだし、下手にその場に居るのはよくないんじゃないかと思うんだけど……今更か?

 僕がそんな風に考えていたら、橘みたいな第三者が居てくれた方が冷静になれると陽香ちゃんに引き止められ。その上、フミにもそうして貰える? なんて、不安な目で訴えられて。結局、こうやって三人でやってくることになったわけだ。しかし、相手は一人だというのに三対一のこの構図は、びびらせてしまうんじゃないだろうか?

 やるならやるぞっ。かかって来い! 的な図だよな。

 いや、奥さんが居るのにこんなことをしているのだから、少しくらいびびらせた方がいいか。

「おねえ、ごめんね。頭が痛くて病院なんて言ってたあの日、本当は産婦人科へ行ってたの」

 ずっと黙りこくっていた陽香ちゃんがポツリと呟いた。

 静かな部屋で彼を待ちながら、いつまでも黙っていることの方が辛くなってきたのかもしれない。

「間違いだったらいいのに。ただ遅れているだけならいいのにって何度も思ったし、何度も願った。けど、もしもそうだったときの色々な状況を思い浮かべては、ため息しか出なくて。好きな人との子供なのに、やっぱり奥さんが居るっていうだけで、それは大きな壁になるんだなって。本当は凄く素敵なことのはずなのに、少しもそう思うことができないんだなって。悲しくなって……」

 自然と零れだした涙がスカートに染みを作る。咄嗟にティッシュを探している僕よりも早く、フミが自分のバッグの中からハンカチを取り出して陽香ちゃんに渡した。

「悲しくなったあとに、今度は凄く怖くなっったの。どうしよう、親にもおねえにも誰にも言えない。どうしよう、独りでなんか産めない。どうしよう、独りで育てるなんて無理。どうしよう、どうしよう。その言葉だけがぐるぐる頭の中を埋め尽くして、本当にどうしていいのか訳が判らなくなっちゃって。気がついたら橘に連絡して病院に行ってた。全く関係のない彼なら、何もなかったことにできる気がしたの。何もなかった前のように戻れる気がしたの。だけど、そうじゃなかった。戻れるわけないのはわかってたのに、私逃げることしかできなかったの」

 グズグズと鼻を鳴らしながらこぼれ出る言葉の数々に、あんなに自信ありげな態度が似合う陽香ちゃんの体が、とても小さくか細く見える。

 陽香ちゃんの隣に腰掛けたフミは、そっと包み込むようにして抱きしめる。

「大丈夫。陽香は独りじゃない。私がいる」

 どうして先の事を考えて行動しなかったんだとか。子供ができることなんて、いくらでも想像できただろうとか。そもそも、不倫なんてとか。責め立てる言葉など、いくらでもある。けど、説教なんてしている暇があるなら、現実をみてこの先をどうしていくかを真剣に考えていくしかない。生産性のないことばかり言っていてもしょうがない。自分のとってしまった行動がどんなことなのか、自分自身が一番理解していることだろうから。

 背中をとんとんとあやすようにして叩き、私がいると心強い言葉を繰り返すフミに体を預けて、陽香ちゃんは静かに涙を流した。

 それから間もなくして現れた彼に、僕もフミも。そして、当事者である陽香ちゃんも、物凄く身構えて心臓をドクドクいわせていた。

 何を言われるのか。どんな顔をされるのか。物凄い言いあいになるかもしれないし、下手したら取っ組みあいなんて事になるかも。

 想像力が豊か過ぎる僕は、あれこれと考えすぎて胃が痛くなりそうだ。

 ところが不倫相手の彼は、思ってもいないほど穏やかで紳士な人だった。

 いや、不倫をしている時点で紳士じゃないだろうという突っ込みは、今はおいておいて。

 彼に妊娠したことを告げると、驚くよりも先にひまわりのような笑顔を浮かべて、ありがとうと陽香ちゃんを抱きしめたんだ。こんな自分の子を宿してくれたことが、とても嬉しいと彼女を抱きしめた。

 抱きしめられた陽香ちゃんは、ただごめんなさいを繰り返すのだけれど。そんな彼女に彼も何度も謝っていた。

 陽香ちゃん一人を、こんなにも悩ませてしまったことが本当に申し訳ないと。そうして、又、ありがとうを彼は繰り返す。

 ああ、彼は彼女のことを本当に好きなんだな。本当に大切に想っているんだな。そう思わずにはいられない仕草だった。

 この先、二人にはたくさんの試練が待ち受けているだろう。彼は奥さんにこのことを話さなければいけないし。陽香ちゃんだって、両親へ報告をしなければいけない。二人の今後をどうしていくのか、子供の将来はどうするのか。乗り越えていかなければいけない問題は山積みだ。

 けれど、なんだろう。温和なこの人の陽香ちゃんを見る眼差しがあまりにも温かで優しいせいか、その問題も必ず二人で乗り越えていける気がした。

 どういう未来が待つのかなんて判らないけれど、彼女の笑顔が耐えない気がしたのは、僕が甘いからだけじゃない気がしたんだ――――。


「何、描いてるの?」

 大学あとの午後。僕はフミのマンションで、コーヒーを一杯飲んでからバイトへ行こうとしていた。

 今日もリビングでフミがせっせと筆を走らせているその傍で、コーヒーを飲みながら僕はその絵を眺めていた。

「母子草」

「ははこぐさ?」

「うん。春の七草のひとつで、ゴギョウとも言うよ」

「ああ、それならなんか聞いたことある」

 その花は、柔らかな緑色の葉たちが少しタンポポのようにも見え、たくさんの小さな黄色い蕾が一塊になり咲いている。その花が、三つ。一番大きい花に、少し小さいのと生まれてまだ蕾が開かないものが寄り添うようにして描かれていた。

 まるで家族のようだ。

 穏やかな表情で、フミは色紙に水彩で母子草の絵を描いている。

 色紙に描くっていう事は、仕事じゃなくて誰かに頼まれて描いているか、プレゼントかな?

「母子草の花言葉はね、永遠の想いや優しい人なの。親が子を想うように、子も親を想い。そして、想い合う相手同士も優しくいられたらいいなって」

 フミが、完成と静かに言って色紙を掲げる。

「陽香へプレゼント」

 満面の笑みを浮かべるフミは、自分のことのように陽香ちゃんの妊娠を喜んでいる。伯母ちゃんになることがこんなに嬉しいなんて、思いもしなかったって笑っているくらいだ。

 きっとこのイラストを貰ったら、陽香ちゃんにもそんなフミの気持ちが伝わる気がした。

 人が人を想う、大切で愛しくて優しい気持ちが――――。

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