第49話 抱え込んだ気持ち
「あのさ……」
僕が口を開くのと同時に、陽香ちゃんも重ねるように口を開いた。
「いつも来るはずのものが遅れてて。そんなこと一度もなかったから、凄く不安で。だけど、彼には言えなくて……」
力ない声で、握ったこぶしに視線を落としたまま話すのを聞いていれば、もうあれしかないよな。
僕は、まるで自分が当事者ででもあるかのように姿勢を正し、彼女の言葉に耳を傾け事情を訊いた。
「どうして、言えないの?」
デリケートな問題を抱えているだろう彼女に、僕はできる限り優しく問い返した。
「彼、同じ会社の人で……奥さんがいるの」
えっ!? と大きな声を出しそうになって、口元に手をやり慌てて飲み込む。
こんなところで注目を浴びるてる場合じゃない。
それでも息を呑んだ音が大きすぎやしなかったかと、周囲の視線をちょっとだけ伺ってみたけれど、誰もこちらを気にしているような感じではなかったから、改めて次の質問をした。
「けど、同棲してたんだよね?」
同棲できるって事は、相手の家庭がすでに壊れているってことか?
「彼が二人の為に部屋を借りてくれたの。その部屋に彼が来てくれるのは時々だったけど、それでも嬉しかったんだ。そこは、私と彼だけの場所だったから」
そうか、同棲っていうより、彼女のために少し大きめの部屋を借りて、時々やってきては一緒に暮らしているような気分を味わっていたわけか。
二人分の食器。二人分の歯ブラシ。二人分の衣類と、二人分のパジャマ。そして、二人で使う一つのベッド。
そういうことに幸せを感じる気持ちは、フミの家にマイカップを増やしていっている僕にもよくわかる。けれど違うのは、相手にはパートナーがいるということ。それが壊れているのかいないのかはわからないけれど、その存在が示すものの大きさは彼女の苦しみと比例しているに違いない。
「部屋の名義は、もちろん彼。だから私は、こんなことになってその部屋を出たの」
「彼にこのことは……」
「話してない。言っても、困らせるだけだし」
「けど……」
「嫌われたくないの。好きなままでいて欲しいの」
ずっと俯いていた顔を僕に向けると、その顔色は思った以上に蒼白で、今この場所にいることが怖くてたまらないというように見えた。
迷惑をかけないために、会社も辞めて部屋も出て。嫌われたくないから、独りで抱えて黙っている。好きな相手に嫌われたくないという気持ちは、わからなくもない。けど、状況が状況だ。こんな時に、迷惑だの嫌われたくないだの言っている場合か? ここに僕をつれてきたっていう事は、ただの付き添いじゃないだろう。
彼女は、もうすでに覚悟を決めている。芽生え始めている命に、早過ぎる結末をつけることに。けれど、それはやっぱり早すぎるよ。君だけの問題じゃない。君一人で出していい答えじゃない。
たとえその彼が、どんな答えを君に告げるとしても。ここでこうして、君一人で決着をつけていい問題じゃないだろう。
「行こうっ」
気がつけば、僕は陽香ちゃんの手を引いて産婦人科を出ていた。
「ちょっ、ちょっと橘。なにすんのよっ!」
外に出てすぐに、陽香ちゃんが声を荒げて僕の手を振りほどいた。その力強さとは裏腹に、今にも泣き出しそうな顔は、自分自身を支えるので精一杯のように見えた。
「僕は、医者でも神でもない。だけど、君のお腹の中にすでに息づいている命と同じで、ここに命ある者として存在する以上、言わせて貰う。君はこんな大事なことを独りで決めちゃいけないんだ。たくさん考えて悩んだのかもしれない。だけど、やっぱり違うよ。どんな結果になろうとも、独りで決めていいことなんかじゃないんだよ。たくさん悩むなら、その相手と一緒に悩むべきだし。二人で結論を出すべきだ」
けして、大きな声で叱り付けるような言い方にならないよう気をつけた。
何故って、彼女はここへやってくるだけで、もう充分に苦しんでいたはずだから。
だから、ただ伝わって欲しい。どれだけ大きな命を、君一人の考えだけで左右しようとしているのかをわかって欲しい。ただ、それだけだった。
長い沈黙が続いた。
病院の前で立ち尽くす若者は、通り行く人たちにはただの痴話喧嘩をしているように見えただろうか。それとも、産婦人科という目の前で争っているのだから、見たままのドラマじゃよくある、産む産まないで揉めている、後先考えないバカな若者に見えただろうか。だけど、僕たちだってたくさん考えて、悩んでここまできているんだ。少しも悩まずに、軽い気持ちでこんな場所にいるわけじゃない。
「一緒にいってあげる」
「……え?」
「その……、元彼のところ。ついてってあげるから、ちゃんと話したほうがいい」
彼女の目を真っ直ぐしっかりと見据えて、僕は大きく一つ頷いた。
なんかこういうパターン、前にもどっかであったよな。
姉妹で不倫なんて笑えないぞ、ちくしょー。
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