第41話 矛盾
陽香ちゃんからの電話から五日程はバイトと大学で立て込んでしまい、フミのマンションへ行くことができずにいた。
フミへは合間にメッセージを入れて、何か陽香ちゃんのことで困ったことが起きていないか訊ねてはいたけれど、相変わらずのあのペースで家に居るくらいで特に困ったことはないと言っていた。
そうは言ってもフミは我慢強いところがあるというか、あまり人を頼ったりする人ではないので僕としては心配を拭い去れない。
絵を描くことが大好きなフミなのに、その仕事を陽香ちゃんによって巧くできなくなっていやしないかという懸念もしていた。かといって、原画を受け取る用事もないのに、バイト中にフミのマンションへ行くなんて事もできない。
大学は大学で、単位にかかわる物ははずせない。フミには大丈夫、なんて強気なことを言ってはみたけれど、まだまだ単位をとっておかなきゃいけないものは残っていた。
唯一の救いは、既に内定が出ているということ。就職活動に時間を費やさなくていい分、フミのことを考えられる。
そんな風に思っていた昼時。珍しく、フミから連絡が来た。
フミは資料集めで早朝から花農家と花市場に行った帰りのようで、よかったらランチを一緒にできないかというものだった。僕は、二つ返事で快諾した。
昼時になり、僕の仕事に合わせてフミが編集社の近くまで来てくれた。
ランチには、編集社の傍にある、行き慣れた中華料理屋にした。
本当はフミのために、ちょっとこじゃれたイタリアンなんかがよかったのだけれど、それじゃあなんだかちょっと格好をつけすぎかもと考えてやめにした。
そもそも、この辺にそんな店があるのかもよく知らないし、せっかくならちゃんと下調べをして、夜にゆっくりと豪華なディナーなんてのがいいんじゃないか。その為にも、しっかりバイトをして、デート代をためなきゃな。
そんなわけで、今回はお手軽な中華料理屋となり、ここなら気兼ねもないしと自分にいい訳をして決めた。
中華料理屋といっても、けして綺麗な中華料理店ではないのがたまに傷で、どちらかと言えば食堂といったほうが名称的には合っているような店だから、女性を連れていくとなるとちょっと違うかなとも思ってはいる。
「こんなとこで、ごめん」
店主に聞こえないようにこっそり謝ると、中華好きよ、なんてフミが微笑んでくれる。
春の花園みたいなふんわりと柔らかなフミの微笑みを心臓へ一撃されていると、それを打ち砕くように僕が注文したラーメン餃子定食が運ばれてきた。
「おまちどーさま」
多分、日本人ではないであろう店員が、若干の訛りでドンとテーブルに料理を置いていく。その拍子にラーメンのスープは少し零れ、餃子は皿の上で滑り落ちそうになった。
もしかしたら、さっき僕が言った、こんなところで。という言葉が聞こえていたのかもしれない。
スマートさの欠片もない豪快な態度に、僕とフミは顔を見合わせて苦笑いをした。
フミの注文したエビチリ定食が届くと、僕たちはただひたすら腹を満たす作業に没頭した。意外と辛いとフミがエビチリについて漏らした言葉以外の会話もないまま、全てを完食したところで僕は水を一口含んで訊ねる。
「陽香ちゃんの様子は、どう?」
「相変わらずなの。特に新しい仕事を探している様子もないし。かといって彼と別れたことに落ち込んでいる様子もなくて、日がな一日テレビを見ているか、私の作業をじっと見ているかしているだけ」
後半の方は、僕にも覚えがあるのでなんとも感想の漏らしようがない。
「ただ、時々窓の外をぼんやりと見ていることがあって」
「窓の外?」
「うん。なんていうか、外にある風景を見ていると言うよりも、そこに映っている自分自身を見ているような感じ」
フミが言うには、夕刻近くや夜になると、陽香ちゃんは窓の方へ近づきぼんやりしていることがあるという。
「やっぱり陽香ちゃん。彼氏と別れたことを、引きずっているんじゃないのかな」
「う~ん。巧く言えないけど、それだけじゃない気がするの。そういう類だけじゃないって言うか。よく解らないけれど、悩んでいるようなのは確かな気がして……」
「話は、訊いてみた?」
「うん。どうかした? って訊ねてみても、逆に、何が? って訊きかえされちゃって。その時の陽香の雰囲気が、人の領域に勝手に入り込んでこないでって、何かラインを引くような、自分の居場所を必死で守っているような、そんな感じだったものだから、それ以上訊けなくなっちゃって」
フミにきつく当たる陽香ちゃんのようすが目に浮かんで顔が歪む。
入り込んできて欲しくないのに、わざわざフミのところにやってきたっていうのも、随分と矛盾しているな。
けれど、人間なんてものは、矛盾の塊なのかもしれない。甘えから生じる感情なんて得にそうだろう。
構って欲しいのにそっぽを向き、訊いて欲しいのに遮ってみる。
抱きしめて欲しいのに突き放すけど、試したいわけじゃないし、駆け引きをしたいわけでもない。
気づいて欲しい。
素直に口にできない気持ちが自分でも制御できなくて、矛盾を引き起こしてしまうことはよくある。
「きっと、何かあるんだろうね。陽香ちゃんの中に、何か僕たちにはまだ言い出せない何かがずっしりと心の中を占めているのかもしれない。そこに少しでも余裕ができてきたら、話してくれるのかも知れないよ」
「それまで、待ってたほうがいいのかな……。なにかあるなら、話して欲しいし。もしも、手遅れになるようなことだったとしたらって考えると……」
そこまで話すと、フミは目を伏せてしまった。
手遅れ?
手遅れになるような事態っていうのは、一体なんだろう。
僕には皆目見当もつかないけれど、フミの中では何か思い当たるものがあるのだろうか。
フミは何かに気づいているけれど、確信が持てなくて話せないのかな。
どちらにせよ、陽香ちゃんが素直に心の内を晒してくれないことには、何かがあるにしろないにしろ、僕たちには解りようもない。
「このあとは?」
中華料理屋を出てからフミに訊ねると、陽香ちゃんの様子も気になって心配だからマンションへ真っ直ぐ戻るという。
それに頷いて、じゃあとお別れのキスでもしたい気持ちになったけれど、さっき食べた餃子のにんにく臭が気になってやめておいた。
餃子は旨くて好きだけど、今度はTPO(Time, Place, Occasion)を考えようと心に決める。
何かあったら連絡してと、僕は前回と同じ台詞を口にし、フミと手を振り合ってわかれた。
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