第30話 あとのお楽しみ
「ちょっと疲れたし、温泉タイムにしよっか?」
さっきキティの携帯カバーでやられたお返しとばかりに、僕はニヤニヤとした顔をフミに向けてから、部屋の外にある露天風呂を一瞥してもう一度フミを見た。
「おっ、温泉ね。……うん。いいと思うっ」
視線の先にあるものに気づいたフミは、慌てたような素振りでクルッと僕に背中を向けるとそそくさとバッグの中を探り始めた。
焦っている仕草も可愛いじゃないか。
外の露天風呂の様子を伺うために僕がそっちへ向かって歩いていくと、バッグの中から洗面道具を取り出したフミがすすっと玄関の方へ向かっていく。
「ねぇ、フミ」
いいお湯加減だよと声をかけたときには、すでにフミは部屋の出口の方にいた。
えっ?
「どこ行くのっ!?」
慌てて訊くと、温泉と答えが返ってきた。
焦りを滲ませたままの雰囲気で、フミはパタパタと部屋を出て行ってしまった。
まんまと逃げられた。
「作戦失敗……。せっかく、お湯加減いいのに」
露天風呂の湯に手をつけながら、ちょっと焦りすぎただろうかと肩を竦めてから気を取り直す。
仕方なく、部屋の露天風呂はお楽しみでとっておくことにして、僕も大浴場へと向かうことにした。
ちぇっ、なんて携帯カバーのキティを指ではじいてしまってから、キティは何も悪くないよな、ごめんと目を瞑る。
一応フミにはメッセージで、僕も大浴場に行くから鍵はフロントに預けていくこと伝えておいた。
素足に履いたスリッパをペタペタと鳴らし、浴衣で向かった大浴場はとても広々としていた。檜造りの大浴場に入ると、大きなガラスの向こう側に石造りの露天風呂があった。
ひとまず香りのいい檜風呂を堪能してから、ガラスドアを抜けて露天風呂へ行く。
入浴客は、じいちゃんやおじさんたちが多い。若者って、いないものだな。
タオルで頭をキュッと巻いて露天風呂の湯に浸かれば、熱めの温度設定にしばしぎゅうっと顔を顰めるも、すぐにその熱さが心地よくなる。
「気持いいっ」
声に出すと、その声はすぐに空へと吸い込まれていった。
適度に涼しくて心地いい外気と熱々の湯。日々の凝り固まった体が緩んでいき、表情も穏やかになっていった。
大浴場を出てから、ルームキーを受け取るためにまっすぐフロントへ向かった。女は長湯だという先入観で、フミはまだ温泉に浸かっているだろうと思ったからだ。
ところが、フロントのあるエントランスに近づいてすぐに、フミがソファに座っているのが見えた。小走りに近づいていって声をかけると、湯上りのまだ少し火照った顔が緩やかに笑顔を作り僕を見た。
「はやかったね」
「少し混んできたから、はやめに出たの」
「そっか。じゃあ、結構待ってた?」
湯冷めしちゃうよな、なんて思って訊ねると、フミは控えめに首を振った。
すでにルームキーを受け取っていたフミと一緒に、僕は部屋へ向かう。
湯上りのフミからは、石鹸の香りが仄かに香ってきて男心をくすぐる。できることなら、今この場で押し倒してしまいたくなるほどだ。
そんなことなど到底できるはずもない僕は、おとなしくしているわけだけど。
部屋に戻ってすぐ、荷物をテーブル脇においてフミが訊ねる。
「のど渇かない?」
お茶淹れるねとテーブルの上の茶筒を手にして、手際よくフミが緑茶を淹れてくれる。流れるような手つきを見ていれば、普段から淹れ慣れているのが他人からでもよくわかるだろう。
もしもフミじゃない女の子が湯上りに熱いお茶を淹れるといっても、多分僕は断って廊下やフロントにある自販機で冷たいビールかソフトドリンクを買ってくるはず。けど、フミが淹れるお茶が美味しいのは、フミの部屋に通いつめている僕はよく知っている。そもそも、大好きなフミが淹れてくれるお茶なら、不味いセンブリ茶だって満面の笑顔つきで飲み干して見せる自信がある。
「女湯も檜だった?」
淹れてもらったお茶を頂きながら訊ねると、目をキラキラとさせてフミが頷いた。
「うん。檜のとってもいい香りがしたよ。私ね、もしも持ち家を手に入れることができたら、絶対檜のお風呂にしたいって思った」
「掃除とか大変そうじゃない?」
「もう。そういう現実味のあること言わないの」
ささやかな夢を台無しにしないでとフミが少し膨れてみせる。
「ごめん、ごめん」
お詫びにテーブルに置かれている茶請けを差し出し、これでも食べて機嫌直してよ。なんて軽口を叩くと、バカにしてぇ。と余計に怒られた。
バカにしたわけじゃなくて、フミの膨れた顔が可愛くてついいじめたくなったんのだけれど、それを言ったらきっと顔を真っ赤にして照れるんだろうなと先読みする僕は完全にフミにはまっている。
僕にからかわれたフミはお茶を飲んだあと、さっきテーブル脇に置いたお風呂セットを見て首をかしげている。
「どした?」
「お風呂にブラシを忘れてきちゃったみたい。取りに行って来るね」
「じゃあ、僕も行く。下の売店で、つまみとビール買いたいから」
僕はよっぽどビールとつまみに対して嬉しそうな顔をしていたのだろう、フミがクスリと笑った。
フミのお茶はもちろん美味しかったけど、ビールは別腹なんだから仕方がない。女の子のデザートと一緒の原理なんだ。
そもそも、こんなにのんびりできる旅行でアルコールを摂取しないなんて間違っている。こういう時は、後先考えずに飲みたいだけ飲むべきだ。
胸を張るようにそう思い、僕は財布を持ってフミと一緒に部屋を出た。
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