第17話 イラつき

 僕が初めてフミに怒鳴ったのは、夏の暑い盛りの夜だった。

 うだるような暑さが、夜になっても少しも引かず。寧ろ、ムシムシと余計に暑さを際立たせていた八月初め。

 それは、あまりの暑さのせいで、僕の脳みそがおかしくなってしまったんだと言い訳したいほどの出来事だった。

 事の始めは、仕事だった。相変わらずのミスで、西森と言い合いをしていた石井。初めは、じゃれあう程度の言い合いだったのに、気がつけば本気モード。

「うっせーよっ。お前がちゃんとやってれば、何の問題もねぇじゃねぇかっ!」

 怒鳴る西森に、いい返しはしないものの不満全開の石井が、持っていた自分の鞄を机の上に乱暴に置いた。その弾みで、紙コップに入っていたオレンジジュースが、近くの椅子に引っ掛けてあった僕の上着へと飛んだ。

「いい加減にしろよっ!」

 汚れてしまった上着を引っ掴み二人に向って叫ぶと、俺のせいじゃねぇし。と西森が言ったのが余計にカチンと来てしまった。

 その日一日、三人の間はギスギスとしていて、仕事がやりにくくてしょうがなかった。

 そんなことから始まって、些細な出来事がその日一日僕の癇に障って神経を逆撫でていった。

 たとえば、タバコが切れているとか。用意された弁当の冷たさとか。スマホの充電切れだとか。

 普段ならそれほど怒る事でもイラつく事でもないのに、僕はそんな些細な出来事にいちいち反応して腹の中を熱くしていた。

 外では、太陽がこれでもかってくらいギラギラと光っていて、屋外でのアンケートではアスファルトからの照り返しに頭の中が沸騰しそうになっていた。いや、脳みそが溶けてしまいそうと言ったほうがいいか。

 涼しい顔して笑っている他のアルバイトスタッフにさえ、イラッと来てしまうくらいに、僕の体中がイライラにグツグツと煮えたぎっていたんだ。

 そんなイライラを解消したいがために向ったのは、もちろんフミの居るマンションだった。

 フミに逢って、フミの絵を見て、フミと話をすれば、今日一日中抱え込んでいたイライラだって、あっという間に意気消沈するはず。イライラにざまーみろと舌を出すつもりで、手土産のビールとつまみを片手に電車へ乗り込んだ。車内はクーラーが効いていて涼しいけれど、ひとたび辿り着いて外に出れば、ありえないくらいの蒸し暑さに脳みそどころか体ごと溶けてしまいそうになる。

 その暑さに纏わりつかれながら、毎度の如くインターホンを押して直ぐに合鍵を差し込み、僕は勝手に上がりこんだ。

「フミー」

 奥に居るだろうフミに声をかげながら上がりこむと、彼女は丁度家の電話で話をしているところだった。その姿に口を閉ざし、自分の分の一缶をテーブルに置いて残りのビールを冷蔵庫へとしまった。

 プシュッと音を立てて開け、暑さにやられた体に一気に流し込むと、涼しい室内の居心地の良さと相まって自然と顔が綻んだ。

 電話に出ているフミは、サイドボードの傍に立ったまま、うん、や、ううん、を繰り返したあと、やっぱり行くよ。となにやら強引な言葉を発した少しあとに受話器を置いた。

「淳平、私出かけるけど……」

 フミの顔には、せっかく来たのにごめんね。という気遣いの表情と、なにやら心配と不安がない混ぜになったものが窺えた。

「なんかあった?」

 何の気なしに訊ねてしまってから後悔した。こんな時間にフミが電話で話し、しかもこれから出かけるようなことになる相手なんて、あの人くらいしかいないからだ。

 朝から感じていたイライラは、ここに来てクーラーの涼しさと缶ビールの美味さで緩和されたと思ったけれど、ちっともそうじゃなく。寧ろ、あの人の電話に呼び出されて出いこうとしているフミの姿に、再沸騰し始めていた。

「具合が悪いみたいなの……」

 僕に話しかけながら薬箱をあさり、風邪薬を探し出している。薬を手にすると忙しなく僕の横を通り過ぎて、今度は冷蔵庫の中へ僕が納めた缶ビールには目もくれず、奥に常備してある冷えピタの箱を取り出した。

「熱は、そんなに高くないみたいだけど」

 フミは、中くらいのバッグに探し出した薬と冷えピタを入れ、財布も入れる。部屋の中を右往左往するみたいに荷物をかき集めるフミを、僕は炭酸に顔顰めながら眺めていた。

「ちゃんと食事を摂ってないみたいで」

 細かい事まで訊いていないのに、あちらこちらと動き回りながらフミはそうやって僕にパラパラと事情を説明していった。

「最近仕事が忙しくて、ちゃんと睡眠も取れてないみたいだったから」

 最後に車のキーを手にすると、ちょっと出るね。と僕を一人置いて出て行ってしまった。

 確かに、僕は恋人でもなんでもないかもしれない。ありえないくらいに仲がよくなった、雑誌社のアルバイトで、弟みたいな相手ってだけかもしれない。けど、せっかく訊ねてきた僕を残して出て行くって、どういう了見だよ。

 いつもなら、そんな事なんて思いもしないのに、熱くなった腹の熱にやられて怒りが頭を占めていく。

 だいたい、フミは甘すぎるんだ。何でもかんでも簡単に許して受け入れて、だから奥さんが居るっていうのにあの人がフミをそばに置こうとするんじゃないか。好きなら好きでもかまわない。けど、ケジメもつけられない相手に振り回されるなんて、甘すぎるよ。

 風邪? 熱は、高くない? 食事を摂ってない? 睡眠不足?

 そんなの、知ったこっちゃないだろう。

 僕だって風邪は引いてないけどまともな食事なんか摂ってないし、常に睡眠不足だ。だいたい、フミが行かなくたって、あの人の奥さんが来て面倒看るだろ。そして、それが正しい形だろ。

 決まった形の中に無理矢理入り込んで、わざわざ窮屈な思いをしに行く必要なんか少しもないじゃないか。そんな狭い中に無理な体勢で入り込むくらいなら、僕と二人の形をとるほうがずっとずっと楽じゃないか。フミと僕と二人だけの形をとれば、きっとずっと、今よりも楽に決まっている。

 イラつきながら考えた後に、ふっと怒りが消えていく。代わりに生まれる焦燥感。

 楽ってなんだよ……。楽で片付けられるような関係なんか、恋愛じゃないよな。楽だから付き合う。楽だから一緒に居る。長年連れ添った老夫婦でもあるまいし。恋愛対称に抱くには、物足りない感情だよな。

 解ってるよ。僕だって、理屈じゃないのは解っているんだ。僕がフミを想う感情がそうなのだから。

 フミの声も話し方も、考える時に寄る眉間のシワも。黙々とイラストを描く姿も、美味しそうにケーキを食べる口元も、全部全部大好きだけれど、それは後からのこじ付けだ。好きになった瞬間に、そんな事をいちいち考えていたわけじゃない。

 理屈じゃないんだよな……。

 脱力していく体をフラフラと立ち上がらせ、僕は窓辺に寄りかかった。

 窓の外は真っ暗で、室内の明りで自分の情けない表情が窓ガラスに映りぼんやりと自分を見ていた。

「冴えないつら……。お前もそう思うか?」

 口のきけないポトスに話しかけて、自嘲気味に息を漏らす。

 少しの間そんな顔を他人事のように眺めたあと、買ってきたつまみとビールを冷蔵庫から取り出した。せっかくだしと、虚しくも一人晩酌を始める。

 床に散らばるイラストを少しだけ片付け、自分の座るスペースを確保してからテレビのスイッチを入れた。最近はお笑いブームのおかげで、直ぐに笑える番組を見つけることができる。くだらない自虐ネタを連発する芸人を見て、僕は空々しいほどに声を上げて笑い、ビールとつまみを腹に納めていった。

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