2年前4月

第14話 家族の話

 自分の事をあまり話したがらないフミが、一度だけ家族との話をしてくれたことがあった。それは、春の穏やかな午前のことだった。

 僕は仕事でもないのに、オフの日をこの部屋で過すために早朝からやってきていた。手土産のビールと、フミと一緒に食べるための少量の食材。それから、食後のデザートと確か切れ掛かっていたと思ったコーヒーの粉を買って、静かな朝の空気にインターホンの音を響かせた。

 当然ドアスコープさえ覗く事のないフミだから、僕は当たり前のように合鍵で入り込み机に向かって集中しているフミの背中に、お邪魔しますとだけ声をかける。いつもの事だからと、フミは特に大きな反応もせず絵を描くことに集中し。僕はその姿を確認してから、買ってきた物を冷蔵庫や棚へと収めていった。

 その時のフミの仕事は、あの人の雑誌社から依頼された挿絵だった。

 描いていたのは、手を繋ぐ家族のイラスト。夕暮れの中、父親と母親に手を繋がれた女の子が、嬉しそうに歩く姿が描かれている。女の子の表情は、ぼんやりとしていてはっきりと描かれてはいなかったけれど、僕にはその女の子が両親に手を引かれてとても楽しそうに見えた。

 しばらくすると、徹夜をして仕上げた原画をテーブルに残し、フミはそのまま床の上で丸まって寝てしまった。僕はそんなフミの体にタオルケットをかけ、おでこに内緒のキスをしてから買ってきたビールを飲んでいた。

 二時間ほどが経っても、フミはスヤスヤと床の上で寝息を立てている。

 僕は出来上がっている原画をひとしきり眺め、幸せな心地のままフミのために買ってきたコーヒーの粉をフィルターに入れ丁寧にコーヒーを淹れた。香ばしい薫りが鼻腔を擽ったのか、コーヒーがフィルターから落ちきった頃にフミが瞼を持ち上げた。

「おはよ」

 キッチンから声をかけると、小さくおはようと呟いている。

 ぼんやりとした視線でじっと僕の事を見るフミは、まだ夢の中を彷徨っているのかぽうっとした表情を浮かべていた。

 熱々のコーヒーをカップに注ぎ、フミへ手渡す。手渡されたカップのコーヒーを覗き込むようにしていたフミは、黒い水面の奥に何かをみつけ出そうとするように少しの間動きを止めていた。

 普段から何を考えているのかあまりつかめないフミだけれど、そのときも本当に何を思っているのか僕は全く予想もできず。ただコーヒーの暗い奥を見つづけるフミを眺めていた。

 僅かに揺らぐコーヒーの波をしばし眺めたあと、ひと口ふた口と喉に流し込んでから、フミが唐突に話し出した。

「家族と過すのが、下手だったの……」

「え?」

 一瞬、なんの事を言っているのか理解できず、戸惑ったように僕はフミの目を見つめた。僕の戸惑いを感じながらも、フミはそのまま言葉を繋ぐ。

「ふたつ下に妹がいてね。とても快活で明るくて、よく笑う子で、両親の事が大好きな子だった。運動会や発表会なんかでも目立つ方で、彼女の周りには、いつも誰かしらの笑顔が溢れていたわ。父も母も、そんな妹の事がかわいくて仕方ないというように、妹ばかりを構っていた。私は、そんな両親や妹の事を、他の家族を見ている通りすがりの人のようにいつも傍観していたの」

 感情の篭らない口調で、フミが淡々と話を続ける。

「私が中学一年の時の夏休みに、家族で旅行へ行く話が持ち上がったの。それがどこへ行くことになっていたのかは思い出せないけれど、小学生だった妹がとにかくはしゃいでいて、とても楽しみにしていたわ。私は相変わらず傍観者のように、はしゃぐ妹や両親の楽しげな顔を見ていたの。その時にね、思ったの。私は、要らないんじゃないかって。どうして今までその事に気付かなかったんだろうって、はっとしたくらい」

 自嘲気味に笑うわけでもなく、自分を蔑むような表情をするわけでもなく、ただ本当に急にその事に気がついてしまったというようにフミは語る。

「だから三人がどこかへ家族旅行へ行くのなら、他人の私は私で、別のどこかへ行こう。なんて、他の目的地を考えながら支度をしていたの。そしたら、急に田舎のお祖母ちゃんの家の風景が頭の中を埋め尽くして。そうだ、そこへ行って、たくさんの絵を描こうって思いついたの。とても素敵なアイデアだと思ったわ。朝焼けや、遠くまで広がる青空や、暗闇を明るく照らす数え切れないくらいの星。川を泳ぐ岩魚や森に住む虫に、たくさんの草花。溢れる自然をいっぱい描きとめようって。幸せな三人家族が旅行をしている間、私はそんな絵をたくさん描こうとウキウキしながら思ったの」

 フミはとても幸せそうに瞼を閉じ、田舎の風景を記憶の中から次々に取り出し思い出しているようだった。

「東京駅に着いた時、父も母も妹にばかり気を留めていたから、私がお祖母ちゃんの家に行くために別の乗り口へ向った事に気づきもしなかったわ。そして、三人が乗る新幹線が出発するよりも一足先に、私が乗った電車は走り出したの。私は、窓の外の流れる景色を見ながら、持って来たスケッチブックや鉛筆や絵の具をワクワクしながら膝の上で抱えてた」

「お父さんとお母さん、フミがいなくなって心配したんじゃないの?」

 僕が訊ねると、そこで初めてフミは自嘲気味な笑いを零した。

「お祖母ちゃんの家に駆けつけてきた母に、凄く怒られたわ。父は、ただ憮然として何も言わず、妹はせっかくの旅行を台無しにされてとても泣いていた。私はその時、どうして母がそんなに怒るのか、どうして父が口をきいてくれないのか、巧く理解できなかったの。だって、私の居ないところの方が、三人はとても幸せそうに笑っていたから。私が居ない方が、三人はとても楽しく旅行を満喫できるはずだと思っていたから。なのに母は、とても怖い顔でとても汚い言葉で私の事を罵ったの。その時に知ったの。ああ、私はやっぱり家族ではなくて、通り過ぎていく傍観者の一人なんだなって」

 フミの話はそこでおしまいになり、すっかりぬるくなってしまったコーヒーが、カップの内側に染みを作っていた。その染みは、フミが心に受けた傷のように、ちょっとやそっと擦ったくらいじゃ綺麗に消えそうにない。

 窓からは、机の上の原画に春の穏やかな日差しが降り注いでいる。原画にもう一度視線を移した時、紙の上で手を繋ぐ三人家族の女の子は、フミ本人じゃないかって僕は思った。

 フミが語ってくれた元気な妹のように、本当は両親に手を引かれたかったフミの気持ちが、そのイラストに描かれているような気がしたんだ。

 家族と巧く溶け込むことができずに暮らしてきたフミだから、人との関わり方は今でもやっぱり巧くはない。時々、僕の家族や友達の話を聞いて、いいな……。って洩らす呟きに、胸が苦しくなることがある。

 同時に、僕が居るよなんて、傲慢な気持ちが芽生えたりもするんだ。

 少なくとも僕は、フミが暮らすここに来ることが何よりも大切な時間だから。

 フミにも、僕がここにいることをそんな風に思ってもらえたら、いいのだけれど。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る