2年前8月

第15話 誰もいない部屋

 ここのところ別の仕事を任されていて、フミのところへしばらく顔を出していなかった。フミから預かる予定の原画も、ひと休憩入っていたせいもある。

 とにかく僕は、会社から言われたことを忠実にこなし、朝から晩まで走り回っていた。

 グッタリとして自宅アパートに戻れば、唯一の楽しみともいえるビールを体に注ぎこみ、あとはシャワーを浴びてベッドにダイブ。その繰り返しがようやく終わりを迎え、僕の足は弾むように慣れた道を行く。

 右手には、お土産のケーキ。左手には、少しの食材と缶ビール。

 久しぶりにフミに逢える事が、嬉しすぎてニヤつきが止まらない。

 通りを行く人たちに怪しまれないよう、ニヤついた顔を俯かせながら、僕の好きなフミの絵を見られることにも心が弾んでいた。

 フミは今、どんな絵を描いているのかな?

 そういえば、あの仕事は引き受けたのだろうか。おしゃべり好きの男が書くコラムへの挿絵だ。

 やりたくない仕事は意外とすんなり断るところのあるフミだから、その挿絵の仕事はボツにしているかもしれない。僕的には、そのほうが心身ともにフミにはいい気がする。

 フミはあまり心の強い人じゃない気がするから、考え事や悩みはできるだけ抱えて欲しくない。フミが壊れていく姿を想像すれば、自分が壊れていくみたいに僕は恐怖を感じる。実際に壊れてしまった姿を目にしたことはないし、壊れたことがあるのかどうかも知らないけれど、僕はいつもフミが壊れてしまう恐怖を、頭の片隅から消し去る事ができないでいた。フミが壊れてしまったら、僕の居場所がなくなる。僕はあの部屋が好きで、フミの描く絵が大好きだから。

 けれど、そんな考えはただの傲慢でしかないんだよな。


 今日も、ドアの前でインターホンを一応押した。一応というのは、インターホンを押したからといって、フミが玄関口に現れることがないと知っているからだ。それでも、誰かが訪ねてきた事を知らせるのには充分だろうからと、僕は必ず押すようにしていた。

 扉の向こう側で微かに鳴っているインターホンのメロディーを聴きながら、鍵穴にキーを差し込みドアノブを捻る。声をかけずに上がりこむと、中は静けさに包まれていた。

「フミ?」

 両手の荷物をダイニングテーブルの上に置き、人の気配のないそこで彼女の名前を呼んでから、返事のない空間で立ち尽くす。

 そうか、あっちの部屋だ。縋るような思いで、寝室に続くドアを開けた。

「フミ」

 同じように声をかけて開けたドアの向こうには、やっぱり静寂だけがあり、探している姿は見当たらない。

 幼い頃、約束をした友達がいつまでたっても待ち合わせ場所に現れなかったときのように、僕の心はさみしさに包まれていった。

「ケーキ、無駄になっちゃったな……」

 オレンジ色のカーテンに向って零した呟きは、いつまでたっても現れない友達を待ち続けたときに見た夕陽の色を思い出させた。窓辺にあるポトスの元気がないように見えて、お前も寂しいのか? なんて話しかけてから水をやった。

 リビングへ戻り、フミがいつも座っている場所に胡坐をかいた。

 テーブルの上には、完成している青空を描いた原画が、透明なファイルに入れられ置かれていた。その上には、どこかの担当編集スタッフさん宛への短いメッセージがポストイットに書かれて貼られている。

 床には、相変わらずのようにほかのイラストたちが散らばっていて、僕はゴロリと寝転がり、手を伸ばして届く物を一枚ずつ手に取り眺めていった。

 真っ白いお皿が数枚重ねられた隣に、一輪挿しが添えられたイラスト。

 細い路地を行く猫の後姿。

 水面に写る太陽の輝き。

 夜露に濡れる木の葉。

 小さな子供の遊ぶ姿。

 遠ざかる人の背中。

 一枚一枚、味わうようにフミの描いたイラストに見入った。

「帰って、来ないのかな……」

 仰向けに寝転がったまま天井に向って零すと、答のない質問がそのまま自分へと落ちてくる。それを受け取るのがイヤで、ガバリと起き上がった。

「ケーキ、食おう」

 フミのいない部屋で、無駄に声を上げて薬缶に水を入れて湯を沸かす。ティーパックや茶葉のある場所は心得ているから、迷うことなく棚から取り出し、勝手に買ってきて置いてあるマイカップに紅茶を淹れた。

 フミが好きな、ショートケーキとチーズケーキ。二つを並べて、両方に一口ずつフォークをつき立てた。

「一人で食っちゃうもんねー。うんまい」

 空元気の独り言が、静かな部屋でポツリと落ちる。熱過ぎるくらいの紅茶を口にしてから、あの人の所へ行っちゃったのかも知れないと、湯気の向こうをぼんやりと眺めた。

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