第62話 夢

 たくさんのイラストが所狭しと飾られていた。

 夏の日差しがカンカンに照りつけるひまわり畑。

 秋の少し寂しげで、家族を思い出させる夕暮れの帰り道。

 春の陽だまりに丸くなる猫たち。

 冬の寒さに白い息を吐き出しながらも、元気に雪玉を投げあう子供たち。

 明るい食卓に並ぶ、二組の食器。

 グラスに注がれた、明るい色のカクテル。

 緩やかな風に吹かれる野の花たち。

 肩を寄せ合う恋人たちの繋ぐ手。

 どれもが心の大事な部分をくすぐり、ぎゅっと掴み、暖かくさせる。

 そうか、これはフミの描いたイラストじゃないか。僕の好きなイラストばかりだ。

 いつまでもずっと観ていたいと思わせる、大好きなイラストたちが今僕の目の前にある。

 ここは個展会場か。

 今更のように僕は気づき、周囲をぐるりと見回したけれど人が誰もいない。窓の外へ視線をやれば太陽は高い位置にあり、まだ昼間の明るい時間帯のはずだと認識できた。

 短い期間で行う個展に休みなどあるはずないのに、キョロキョロと首を巡らせてみても、イラストの飾られたパーテーションを縫うように歩いていっても、誰とも出会わなかった。当のフミさえいないのだ。会場内で、常に忙しく動き回っているはずの坂口さんも見当たらない。

 受付には、あのアルバイトの彼女はいただろうか?

 思い出そうとしてみたけれど、受付を通った記憶も記帳した記憶もなかった。

 そうだ、控え室。誰かが居るとすればそこじゃないか。

 見当を付けて、僕は少し小走りにそちらへ向かった。窓の外からは、眩しい太陽が飾られたイラストと僕だけを照らしている。

「フミー?」

 声をかけながら僕は控え室の方へと歩を進めて行くと、途中で初めて人に出会った。

 やっと出会った人は、ひときわ大きなイラストの前で穏やかな微笑を浮かべ、熱心に魅入っている背の高い見知った人物だった。

「とても素敵なイラストですよね」

 気がつけば僕は話し掛けられていて、つい、ええ。なんて。応えている自分がいた。

 その人は、自らの高い身長がまるで周囲には申し訳ないことでもあるかのように、僅かに猫背になっている。

「橘君も、このイラストが好きですか?」

 何も言っていないというのに、その人はそんな風に話を続けた。

「僕もこのイラストが、とても好きです。とても暖かくて、いつまでも眺めていられる」

 うん、うん。と自分自身で納得するように小さく頷きながら、その人がイラストを愛おしそうに眺め続ける。

 ずっとその人に気を取られていた僕は、そこで初めて目の前のイラストへと視線を移した。

 二人の前に飾られていたのは、以前フミが僕のために描いてくれたカンパニュラのイラストだった。

「あれ、これは……」

 僕がフミから貰ったときの物は、A四サイズほどの物だったはずなのに、飾られているイラストは、その何倍もの大きさだった。

 現物は僕の手元にある。描き直したものなのかな?

 いや、違う。

 何故って、右隅にフミのサインが入っていたからだ。

 それは、僕だけに向けた特別なサインだった。フミの名前と僕へのイニシャル。

 それが全く同じ位置に、その何倍もある大きなイラストに書かれていた。

「どうかしましたか?」

 隅に書かれているサインをもう一度よく見ようとしたところで、その人が優しく問う。

「いえ。ちょっと……」

 僕は改めてイラストへ一歩近づき、サインを確認してみようとしたところで、そばに立っていた長身の彼が話の続きをし始めサインから目をそらした。

「このイラストは、僕のために彼女が描いてくれたものなのですよ」

「えっ?」

 何を言ってるんだ、この人は。随分と大きな勘違いをしているな。これはフミが僕のために、僕だけのために描いてくれた物だぞ。

 苦笑いというか、ほぼ嘲笑に近い表情で僕はその人の顔を見た。けれど、その人の顔は何故だかとても自信に溢れている。

「ほら。ここを見てください」

 彼が指を指したのは、右隅のサインだった。

 だから、そこにはフミの名前と僕のイニシャルが……。

 苦笑いのまま今度こそサインへ視線を持っていくと、書かれていた文字に僕の目が見開いた。

「嘘だろう……」

 驚愕に唖然としていると、満足げな顔が僕を見下ろしてきた。

 書かれていたサインは、フミのサインと“Sへ”だった。

「エス……」

「そう。僕の名前の、Sです」

「いや、そんな……はず」

「僕の榊という名前の、Sですよ。彼女が、僕のことを思って、大切に仕上げてくれた、この世に一枚しかないイラストです」

「何言ってんだよ……。これは、フミが僕に――――」

 呼吸が速くなり、頭が真っ白になっていく。

 フミが僕のために描いてくれたはずのイラストが、美術教師の榊さん宛てに変わってしまっている。

 なんで……。どうして。どうなってるんだよ。

 ワナワナとしながら、力が抜けて僕はその場に膝をついてしまった。

 視線と同じ高さになったイラストのサインは、何度確認してみても僕のイニシャルのJではなくSだった。

 おかしいよ……。こんなの嘘だよ。

 だって、このイラストは、フミが僕のことを想って……。

 驚愕に震えていると、聞きなれた明るい声が背後からした。

「せんせーい」

 フミ。

 振り返り、僕は助けを請うように立ち上がる。

「フミ、おかしいんだよっ。ほらっ、このイラスト。これは、フミが僕のために描いてくれたものだよね?」

 縋るように、僕はフミへと訊ねた。

 なのに、小走りに近づいてきたフミは、僕を素通りして榊さんのそばへいってしまう。

「先生。このイラスト、先生のために描きました。ほら、ここに先生のイニシャルを入れてありますから」

 僕の存在など何処にもないように、フミは満面の笑みで榊さんと話している。

 フミの仕草も表情も榊さんにすっかり甘えていて、まるで恋人に対する行動のようだった。

「……フミ?」

 イラストのサインに対する衝撃と、榊さんに対するフミの態度で、僕は不安に心が押しつぶされそうになりながら、振り絞るようにしてフミの名前を呼んだ。

 けれど、フミは僕のことを冷めた視線で一瞥しただけで、又榊さんへとすぐに向き直る。

 その瞳は、冷たいなんてものじゃなく。僕の存在自体を否定するように拒絶していた。

 邪魔だといわんばかりの態度を投げつけられて、僕の心臓は苦しみに止まりそうになる。

「フミ……。どうして? 僕だよ。淳平だよ」

 泣きそうな声で言ってみても、声が届いていないみたいに、フミは僕を見もしない。榊さんの腕に手を絡め、肩を寄せ、二人でカンパニュラのイラストをみているだけ。

「橘君。僕たちは、このイラストの前で二人だけになりたいので、申し訳ないですがはずしていただけませんか?」

 膝をつき呆然としている僕へ、榊さんが追い討ちをかける。

 言葉はとても丁寧だけれど、はっきりと僕を遠ざけようとしていた。

 フミは相変わらず僕の方を全く見ようともせず、榊さんにひたすら寄り添い、愛しそうな視線を向けている。

「フミ……。どうして……」

 気の利いた言葉ひとつも出てこなくて、ただ願うように縋るようにフミの名前を呼んでみても、想いは少しも届かない。

 くず折れるように膝をついたまま動けない僕の存在など、二人は端からどうでもいいみたいだった。

 僕の存在自体が、無用の物みたいだ。

 打ちひしがれている僕に、これ以上にないカウンターが一発入った。

「橘君。僕たち、もうすぐ籍を入れることになるので、祝福してくださいね」

 ……籍?

 籍ってなんだよ。結婚するっていうのかよ。

「何言って……」

「淳平。おめでとうっていってね」

 さっきまで、僕のことなど眼中にもない態度をしていたというのに、突然のように不自然な笑みを貼り付けたフミが祝いの言葉を欲しいという。

 何言ってんだよっ。おかしいだろっ!

 何で、榊さんと結婚なんだよ。

「僕は? 僕とのことはどうなるんだよっ。なぁっ、フミ! フミッ!――――」

 叫び声は暗闇に吸い込まれ、二人の楽しげな声だけが追いかけてくる。血の気が引くように、僕の体は闇の中へと落下していった。


 超高層ビルから転落するような気の遠くなる感覚を味わい、僕はビクリと身体を揺らして目を覚ました。

 息は荒く上がり、心臓が激しく鳴っている。

 夢……?

 真夜中。いや、明け方だろうか。

 明け始めた陽の光が、カーテン越しに感じられる。

 狭いベッドの中、僕は隣にあるはずの体温が感じられなくて、額に浮かぶ汗を拭いながらそのぬくもりを手で求めた。けれど、手を伸ばしてみても触れられる場所にそれがない。

「フミ……」

 はっきりとしない、まだ夢か現実なのかよく判らない狭間の中、掠れた声で小さく呟くように呼んでみても返事はなかった。

 僕はゆっくりと上半身を起こし、片膝を立て、髪の毛をぐしゃぐしゃとかき乱して辺りを窺った。

 見慣れた寝室。

 見慣れたカーテン。

 見慣れたチェストに、嗅ぎ慣れたフミの香り。

 けれど、その本人の姿がここにはない。

 フミの姿を探しながらも、さっきのは夢だったんだ……と僕は胸を撫で下ろす。

 榊さんとフミが結婚するなんて、随分とえげつない内容だったな……。

 でも、よかった。夢で、よかった。

 ほうっと息を吐き、頭を振って、僕は夢から覚めていることをちゃんと認識しようとした。

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