第61話 モヤモヤと甘いキス

 マンション近くの道路に差し掛かった頃、お茶でも飲んでいく? とフミが誘ってくれたので、さっきまでの思考をあっという間に撤回して頷き、一緒にタクシーを降りることにした。

 僕の気持ちなど、フミの吹く吐息一つで翻る。なんとも軽い意思だ。

 ギクシャクもモヤモヤも蚊帳の外に追い払ってしまえる僕は、どうやら少し慎重さにかけているようだ。フミと同じように、アルコールにやられているのかもしれないとも考えて、よくある都合のいい大人のいい訳に自分でも可笑しくなる。

 室内は夕方に入り込んでいただろう西日のせいか、この季節にもかかわらず少しもわっとした熱を持っていたけれど、暑すぎるということはない。

「暑くない?」

「大丈夫」

 このくらいなら、エアコンをつけるほどではないだろう。

 窓を少しだけ開けて空気の入れ替えをしてからリビングの床に座り、アルコールくさい息を吐き出してテレビのリモコンを掴んだ。ほんの僅か待たされてから、デジタル放送の画面が現れる。深夜の番組は、どれもくだらなくて騒がしい。それがいい時もあれば、悪い時もある。今日の僕には、どうやら後者のようだ。やたらと騒がしい深夜の番組が、今夜はやけに癇に障る。一通りチャンネルをザッピングしたあと、結局僕はテレビを消した。

 キッチンでは、フミが薬缶で湯を沸かし、お茶の準備をしている。

 少しして、お茶と茶請けを乗せた可愛らしい花柄のお盆をフミがテーブルに置いた。

「おまたせ。こんな時間にとも思ったけど、編集さんがお土産に持ってきてくれたのが美味しかったから」

 茶請けに用意されたのは、牡丹の形をした瑞々しくもしっかりと餡の詰まった和菓子だった。

 夜中に甘いのはちょっとと思いはしたけれど、勧められるまま竹でできた楊枝で切ってひと口頬張ると、餡は上品で溶けていくようになくなり、後にはすっきりとした甘さが残った。

「うめっ」

 思わず洩らすと、でしょう。と得意そうな笑みを作りフミも一口食べている。

「和菓子って、芸術よね。とっても綺麗で、食べるのがもったいないくらい」

「でも、食べると旨いんだろ?」

「うん。とっても」

 満面の笑みで頷いたあと、フミはお茶を飲む。

「ああ、幸せ」

 ほうっと息を吐くフミ。

 本当にとても幸せそうな笑顔をするから、こっちまで幸せな気持ちになる。

 なのにどうしてもチラついてしまうのが、榊さんの顔だった。僕の頭の中はモヤモヤとしてしまい、気持ちを刺激されてしまう。

「今日さ。僕を待ってる間、二人でどんな話してたの?」

 二人というのは、もちろんフミと榊さんのことだ。

 僕が来るかもしれないと二人で待つ間、あのバーの薄明かりに包まれながら、フミはどんな顔をして榊さんとどんな会話をしていたのだろう。二人にしかわからない懐かしい話に、フミは笑顔を零していたのだろうか。榊さんにだけわかる言葉の数々を並べ、顔を寄せるようにして話をしたのだろうか。

 僕がもしも西森との約束をもっと早く切り上げることができてあの場所へ行けたとしても、二人は二人にしかわからない会話で僕を置き去りにしていたかもしれない。フミは時々気を遣ってくれたかもしれないけれど、直ぐに又榊さんと二人の会話に夢中になってしまい、僕を置き去りにしてしまっていただろう。

 三人というのは、どうやっても半分にはできない。食べ物や飲み物みたいに、小数点をつけて人を分けることなどできないから、結局二対一になる。

 一人になったときの疎外感は、半端ない。せめて、二対三なら一人にならずにすむのに。

 榊さんが、もっとおじいさんだったらよかったのにな。恩師っていったら、年寄りっていうイメージじゃないか? よぼよぼで、何を言っているのか聞き取れないくらいの年寄りなら、こんなこと考えずにすむのに。

 うん。これは僕の主観か。我ながら酷いな。

 ムクムクと膨らんでいく嫉妬心を、くだらない思考でどうにか宥め賺そうとしてみるのだけれど、どうやったってそっちへの傾きを止められない。急勾配の嫉妬坂を転げ落ちるように嫉妬心は増幅し、自然と僕の目元は険しくなっていった。敵意むき出しの視線を気取られないよう、少し俯きフミの話しに耳を傾ける。

「どんなって。うーん。高校の頃のことや、先生の最近のこと。って言っても、なんだか先生は自分のことをあまり話したくなさそうだったかな。だから、どちらかといえば私のことばかりが話題に上っていた気がする」

「フミのどんな話をしたの?」

 未だ目元を緩めることができない僕は、まだ残る和菓子を見るふりを装い訊ねる。

「高校を卒業してからのことや。この仕事に就く切欠とか」

「フミが自分のことを話すなんて、珍しいね」

 僕には、あまり話さないのに。

 自分が訊こうともしなかったくせに、いちいち目くじらを立てて言い返している自分はなんてガキなんだろう。過去のことを訊き難い雰囲気は確かにあるけれど、フミに訊かないで欲しいと言われたことなど一度だってない。自分の勝手な思い込みで訊ねてこなかっただけのことなのに、嫉妬に駆られた男はなんてみっともないんだ。情けなさ過ぎて、落ち込んでいく。

 僕が勝手に嫉妬したり落ち込んだり、気持ちをグチャグチャにしていることになど気づきもせず、フミは話し続けている。

「あと、絵を描くときにどんな気持ちでいるのかとか」

「どんな気持ち?」

 冷静さを必死で持ち出し、僕は顔を上げて訊ねた。

 僕は今、ちゃんと冷静な表情をしているだろうか。

「んー。依頼された仕事は、相手の持つイメージをもちろん尊重する。小説なりエッセイなり。あとは、その人のもつイメージとか。それ以外では、そうね。淳平に描いた絵のときは」

「カンパニュラ?」

「うん。あの花言葉って、知ってる?」

「感謝」

「うん。よかった。そう、感謝」

「よかったって?」

「後悔っていう意味もあるから、そっちで受け取られてたら、と思って……」

「もしもそっちだとしたら、僕は立ち直れないかもしれない」

 クスクスと笑い、フミは首を振って否定する。

「淳平は、私の前に突然現れた。そうね、太陽とか。眩しく広がる緑色の草原とか、そんな感じがしたの」

 太陽に眩しい草原?

 思わず、アルプスの少女ハイジのイメージが浮かぶ。

 僕って、ペーター? だとしたら、随分と田舎くさいじゃないか。

 苦笑いがこぼれ出る。

「ごめん。よくわかんない」

 フミの抱いている僕のイメージがわからなくて正直に言うと、フミは目をつぶり話す。さっき言っていた、太陽や草原を思い描いているのだろう。

「淳平は、あったかくて、眩しくて。大きく両手を広げて受け入れてくれる。そういうイメージかな」

 閉じていた瞼を持ち上げ、綺麗な瞳をこちらへ向ける。

「それって、スゲーかわれてない?」

「もちろん」

 心の広い男って思われているみたいで、僕はかなり嬉しくなる。

「淳平がきてから、私の時間は大きく変化したのよ。もちろん、いい意味でね。あの人と離れることになったときはさすがに辛かったけれど、今ではそれでよかったって思えるし。切欠をくれた淳平に、とても感謝してる。陽香のことでも心強かったし、私自身もどんどん前向きになっていくのがわかるの。太陽に向かって咲くみたいに、淳平の傍に居れば、きっとずっと上を向いていられるだろうなって。淳平の方を向いていれば、きっと間違いがないって思えるの。だから感謝の気持ちでカンパニュラを描いたの」

 そっか、それで太陽ね。

 ん、ちょっと待って。

「あの人とのことも、陽香ちゃんのことも。イラストを貰ったあとだよね……」

「そうね。なんだろう、……予感?」

「予感?」

 顎に人差し指を添えながら疑問系で呟くフミに、クククッと笑いが毀れる。

「初めから気づいていたのかも。淳平の傍に居れば、上を向いていられることを」

「なんか、嬉しいけど。スゲー照れくさい」

「私も」

 二人で顔を見合わせて小さく笑う。

 さっきまで引っかかっていた榊さんのことなんて、僕はもうどうでもよくなっていた。フミにここまで思ってもらえている自分に、自信が持てたから。

 僕の目の前で笑顔を振りまくフミが、愛しくてたまらない。

 不意に、強引とも言える速さで、微笑を浮かべているフミの唇に触れた。

 突然のキスにフミは僅かばかり驚いたようだけれど、すぐあとには穏やかな表情をみせてくれた。更に僕は、深く唇を求め、長く深く重ねていくと、フミはうつろな目をして瞳を閉じる。

 二人きりのこの時間を味わうように、僕たちは唇を重ね続けてから、名残惜しむように離れてフミの目を間近で見る。

「フミの口、甘い」

「淳平も」

 和菓子の甘さなのか、二人の愛の甘さなのか。どちらにしても幸せすぎて、僕たちはまた顔を見合わせて笑った。

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