25. Temptation of a "Big Apple" pie - アップル・パイの誘惑



 ブルックリン   1:30 a.m.


 見上げた夜空には舟のような形をした三日月が浮かんでいた。弟のアイシュが、大人になった今も毎日少しずつ、月の端っこを齧っているのかもしれない。

 三日月よりも大きいから正確にはそう呼ばないのだろうけど、それはいつか見たあの夜空を思い起こさせ、彼女の心にまた、ちくり、とした痛みを呼び覚ました。

 相変わらず、そのちくりとした痛みの理由は分からない。何故だか泣きたいような、少し悲しい気持ちになってしまうのだ。

 そして彼女を眠れなくさせているのはそれだけではなかった。じんじんと痛いほど、いまだに指先に残る熱。彼の手の温もりも、唇の感触も、まだそこに残っている。彼女を見上げた艶かしい瞳も。

 またしてもそれを思い出してしまった。その度に胸のどこかがじりじりと焦げつくようで落ち着かない。

 風邪で熱が出た時みたいに、宙にふわふわと浮かび上がってしまいそうだ。彼女はそれらを振り払うように何度目かの寝返りをうった。心なしか、少し汗ばんでもいる。そろそろブランケットだけで寝るようにしたほうがいいかも。

 そんなことを思いながら、ベッドサイドの小さなチェストの上に置いた携帯電話を取って、時間を確認した。

 もうこんな時間になってしまった。そう思い、チェストの上に電話を戻すと同時に着信音が鳴った。

 こんな時間に誰だろう。携帯電話の方は番号を変えたから、まさかネヴィルじゃないだろうけど。

 彼女はもう一度それを手に取ると、恐る恐るディスプレイを確認した。

 !

 咄嗟にがばっと起き上がり、彼女は慌てて携帯電話を耳に当てた。

「――ベティ?」

『Hi , Lamka 』

「Hi !」

『ごめん、寝てた?』

「No , 起きてたよ」

『……ミシェル、まだ一緒にいるの?』

「No , もう別れたよ」

『……そっか』

「どうかしたの!?」

『眠れなくてさ』

「私も……Oh , No no no , そういうことじゃなくて」

『……Yeah 』

 やっぱりデートは失敗だったのかしら。そう思わせるような、ベティらしくない沈んだ声だった。

「Oh……Honey , 元気出して。きっとまた素敵な人に出会える――」

『―― No no no !  凄く素敵な夜だったの。最高だったよ』

「ほんと!?」

『うん。とっても素敵な人だった』

「Wow !  じゃあ――」

『でも』

「?」

『いい男すぎて、何て言うか……』

「うん?」

『いい友達になりたい、ってお互い言って別れてきたよ』

「!? 何よ、それ」

『うーん……上手く説明できないよ』

「OK、そうだ、明日の夜会おうよ。ミシェ――」

 ミシェルも、と言いかけて彼女は口をつぐんだ。そっか! 帰って来てないってことは、ミシェルったら例の彼と上手くいったんだ!

 思わず喜びの声を上げそうになり、彼女はハッとしたように気持ちを引き締めた。

 そうだった、ベティにはまだ内緒にしなきゃいけないんだったっけ。


「――OK , じゃあ明日ね」

 簡単な約束をして電話を切り、ふーっと息を吐いてそれをチェストの上に戻すと、部屋の隅に置いた小さな猫用のベッドから、そろり、と抜け出したデーヴィーが部屋を出て行った。

 それをちら、と見送り、暫くの間彼女はベッドの上で身を起こしたまま、あれこれと考えを巡らせていた。

 ベティの報告を早く聞きたい。ミシェルの報告も早く聞きたい。

 でも……私の報告は? すべきなんだろうか。

 ネヴィルの待ち伏せ、ショーンとの小芝居……どちらももの凄く疲れた出来事だった気がする。

 はぁ――大きく息を吐き、彼女はもう一度携帯電話のディスプレイで時間を確認した。

 とても眠れそうにない。起きてまた何か映画でも観ようか、それとも本でも読もうか、それとも……

 彼女はベッドから抜け出して、とりあえずキッチンに行くと、冷蔵庫を開けた。

 そして、冷やしておいたミルクなしのチャイをグラスに少しばかり注ぎ、こくこく、と喉を鳴らした。

 ふっと目を遣った小さなテーブルの上には、2、3日前に買ってきたリンゴが幾つか入った、深さのあまりない木製の平たいボウルが置かれている。それは木をくり抜いて作られたもので、母親がインドから持ってきた古いものだ。そこに乗せたフルーツがことさら美味しそうに見える、と言って母がそうしていたように、彼女もそこにフルーツを欠かさないようにしている。

 そこからリンゴをひとつ手に取り、裏側の窪みに鼻先を当てて香りを嗅いだ。食べ頃を迎えた、甘酸っぱい澄んだ香り。心が安らぐようで、ほうっと息を吐いた。

 同時にまたしても、ちくり、とした痛みも甦ったけれど。香りの記憶は、いつでも思い出と直結してしまうから。

 マーママとはよく一緒にリンゴのお菓子を作った。パイやタルト、マフィンやケーキ。

 うっかり切らしたシナモンの代わりに他のマサラスパイスを試したら、弟がパイを吐き出してしまったこと、サモサの中身をリンゴにしたものが、近所で「インド風アップルパイ」と評判になったこと。

 彼女の脳裏を駆け巡るそれらの思い出が消えるか消えないかのうちに、彼女は気付けば戸棚から小麦粉やボウルを取り出していた。こんな時間からお菓子を焼くなんて馬鹿げてる、とも思ったけれど、どうせ眠れないのだし、何かをしていたかったのだ。

 出来るだけ大きい音を立てないように注意しながら、久し振りの「インド風アップルパイ」をたくさん焼いた。

 必ず一緒に入れていたクルミがなかったので、代わりに朝食用のシリアルを少し入れてみたりもした。

 たくさんのパイを焼き、へとへとになってソファーにぱたり、と転がったのは、明け方近くになった頃だった。

 数時間後、お腹を空かせたデーヴィーに起こされ、テーブルの上を埋め尽くすパイに、こんなにたくさん一体どうするの!?と呆然とすることになるのだが、今のところ、彼女は作り終えた満足感に包まれて、ぐっすりと眠りを貪っているのだった。







 翌日・土曜日  アッパー・イースト   3:15 p.m.


 通りでふざける甥っ子ふたりをドアマンのジェンキンス氏に委ね、彼はひとり、ドアを開いてエレヴェイターへと向かった。

 姉のケイトが持って来た、たくさんのミートパイを、クリフォード家へ届けに来たところだ。姉ときたら毎回考えなしにたくさん持って来るので、その度に彼は処分に困っていた。

 何しろ高カロリーなミートパイを喜ぶような知り合いなど、ここマンハッタンには殆ど居ないからだ。

 出迎えてくれたのがナディアだったことに少しホッとしながら、ついでに昨日置き忘れてしまったiPodを取りにキッチンに行くと、テーブルの上に何やら三角系のドーナッツのようなものが入った籠が置かれている。

 一瞬、チャイニーズ・レストランで食べたことのあるあれか、とも思ったし、インド料理屋で食べたサモサっぽくも見えた。

 ナディアによれば、それはさっきシェリーが持って来たもので、どうやらサモサ風のアップルパイらしかった。

 何だ、彼女も同じようなことをしていたのか。ふっと笑って、そのうちのひとつを手に取り、ふーん、と眺めてみる。

 サモサ風のアップルパイだって? 甘いものは苦手な彼だが、その響きとこの形状は、料理人である彼の興味を惹いた。

 そのうちの幾つかをワックスペーパーに包んで、パントリーに置いてあった、どこかのスウィーツショップの紙袋に放り込み、彼はクリフォード家を後にした。



 それから暫くして、用事を済ませた姉のケイトがセントラル・パークまでやって来て、彼らに合流した。

 ショーンと姉のケイトはベンチに腰掛けて、他の子供達と一緒になって芝生の上でボール遊びをする、クリスとアルを見守っているところだ。

 姉は疲れているようにも見えるが、充実した表情にも見える。

 シェリーの作ったアップルパイをひと口齧って、美味しいわよ、あんたも食べなさいよ、と差し出す姉に首を振ると、姉のケイトは肩をすくめて子供達の方へ目線を向けた。


「……で?」

「? 何よ」

「そろそろ白状しなよ。ここんとこしょっちゅう俺に怪獣どもを押し付ける理由をさ」

「……」

「男、なんだろ?」

「……」

「あいつら、知ってるの? マムには?」

「……」

「何だ、言えない関係なのか」

「……」

 無言でアップルパイを齧り続ける姉が口を動かすのを止め、抗議の視線を弟に向ける。

今ふひんなふぁ、いま口ん中、あっふるふぁいれアップルパイでいっふぁいなの!いっぱいなの!

「Hey !  飛ばすなよ」

「Sorry」

「Oh !」

 ケイトが笑いながら、彼の口の中に、食べかけのアップルパイを無理やり突っ込んだ。甘いものが苦手な弟への仕返しのつもりだろう。

「マムのアップルパイが恋しくなったでしょ?」

「……」

「あんた、あれだけは食べてたもんね」

「……」

「たまには帰って来なさいよ、すぐそこなんだからさ」

「話、誤魔化す気?」

「ふふ」

 姉に呆れた顔を向けながら、彼は内心、シェリーの作ったアップルパイに心を奪われていた。フィリングにはリンゴの他にシリアルらしいものが入っていて、そのぶん甘さも食感も軽めなのも彼の気を惹いた。

 母親のそれとも姉のそれとも違う、少し不思議なスパイスの香るそれはいかにも彼女らしくて、いつか飲ませてもらったマサラ・チャイと、それを淹れる彼女の姿を思い出させた。

 成り行きとは言え、彼女の恋人の振りをして、彼女の胸に抱き締められたのは昨夜のことだったろうか。

 抱き締められた、と言うよりは、抱き締めさせた、と言ったほうが正しいのかもしれないが。

 昨夜のあの出来事が、もう数日も前のことのように感じられるのは気のせいだろうか。

 あれからまだ半日と数時間しか経っていない筈なのに。

 一瞬ふっと湧いた感情が彼を焦らせた。何日も会っていない恋人や友人に、急に会いたくて堪らなくなったような、そんな感情だったのだ。

「――大丈夫、心配しないで。とても素敵な人よ。まだあの子達にも紹介してないけど、ゆっくり時間をかけたいの」

「それならいいけど」

 姉の言葉が彼の意識を目の前の現実に引き戻した。離婚以来、姉が「素敵な人よ」と口にした男は初めてだったからだ。

「で? 俺に出来ることは? 怪獣どもの相手だけ?」

「今のとこね。あの子達もマンハッタンに来れるのを楽しみにしてるのよ」

「あっそ。仕方ないか。どうせ週末は暇だしな」

 彼は、ふぁー、と大きくあくびをして、芝生の上ではしゃぐ甥っ子二人に目を向けた。

「……ショーン」

「んー?」

 顔を姉に戻すと、笑いを収めた姉の視線が彼を待ち受けていた。これは苦言しようとしている時の顔だ。思わず彼は身構えた。

「あんたはどうなのよ。まだふらふら遊び歩いてるの?」

「……さあ」

「いつまでそうやって……自分を傷つけるような生き方、続けるつもり?」

 ほら来た。彼は姉の言葉にうんざりした顔で息を吐いた。

「ねえ、もういい加減、忘れていいのよ?」

「……」

「あんたは悪くなかったんだから」

「……はいはい、解りました」

「ちょっと! 真面目に聞きなさいよ」

「――人のことより自分の心配しなよ。あいつらがその男に懐くかどうか判んないんだしさ」

「大丈夫よ。いい人だもの」

「そんな単純なことじゃないだろ?」

「そりゃ単純じゃないわよ。もの凄く大変だと思う。でもね、あたしはあんたみたいにっから何もかもを放棄したりしないの。幸せになりたかったら、ある程度は努力しなきゃ」

「……」

「もう一度、幸せな人生、手にしたいと思わないの?」

「……そんなもの、一度だって手にしたことなんかないね」

「Oh , Come On ! 」

「俺はハッピーだよ、ケイティ。今の生活に満足してるし、それに……」

「Wha ?」

「……いや」

 " そんな努力なんかしたって無駄だしね " ――彼は喉元まで出掛けた言葉を飲み込み、曖昧な笑みを浮かべて誤魔化した。

 姉が幸せになろうとしているのを否定する気などなかったからだ。姉には幸せになって欲しい、心からそう願っている。

 だが自分は……

「……まあ、あんたがそれでいいならいいけどさ」

「俺のことはいいよ。それより」

「?」

「頼むから今度からミートパイはやめて、酒とか他のものにしてくれ」

「はぁ?」

「もう一生分のミートパイ食べ尽くした気がするよ。もういい!」

「何よ、夜中にマムのミートパイ食べたいって泣いたくせに」

「はぁ? 一体いつの話だよ」

「ふふっ、教えなーい」



 結局、姉に買い物や夕食まで付き合わされ、彼は一日の大半を彼らのために費やした。

 姉と甥っ子達を地下鉄の駅まで見送った後、駅から通りに出たところに観光バスがやってきて、彼の目の前で、ぷしゅーっと音を立ててドアが開いた。

 鮮やかなブルーのバスの扉に描かれた、大きな赤いリンゴと「NEW YORK」の文字。

 ここNYが「Big Apple」と称されているからなのだが、いつもの彼なら、それを目にする度に思い出すのは、ミッドタウンにあるガラス張りのApple Storeだった。

 それなのに、今日の彼がすぐさま思い出したのは、あの三角形の形をした不思議な味のアップルパイと、昨夜、彼女の腕の中でふわり、と香った甘い匂い。

 昼間、突然湧き上がったあの気持ちがまたそこで甦り、再び彼を落ち着かなくさせた。

 どうかしてる。彼女に会いたいだなんて。

 彼はバスの扉の赤いリンゴから視線を外し、そこから逃げるように歩き始めた。

 行く宛などなかった。馴染みのバー、深夜までやっている友人のレコードショップ、トムのカフェ、行く場所ならいくらでもあったのに、行きたい場所がどこにもない。

 何をしたいのか、何をすべきなのかもまるで分からないまま、ただひたすら足を前に進めて歩いて行く。

 気付けばタイムズ・スクエアまで来ていた。色とりどりのネオン、巨大な電光掲示板、真っ直ぐに歩けないほどの人の群れ。

 行く宛てもないまま、ブロードウェイ通りを北へ向って歩く。

 やがて歩き疲れてきた頃、彼はとあるビルの前で足を停めた。そこにはかつてイタリアン・レストランがあり、駆け出しの頃、彼はその店で一年ほど働いていた。

 店はバーへと姿を変えていて、昔の面影は残されていなかったが、懐かしさに思わず顔が綻んだ。

 過去を振り返ることも、未来へと思いを馳せることも、どちらも普段の彼の好みではない。どちらからも逃げるように、刹那的な毎日を生きている。

 だが、昔の未熟な自分の残像と酒を飲むのも、たまにはいいかもしれない。

 少しばかり躊躇らった後、彼はその店の扉を開いて中へと消えた。




* このお話のあとがきはこちら⇒

https://kakuyomu.jp/works/1177354054892660029/episodes/1177354054892709121


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