23. The intruder **- 侵入者



 金曜日  

 アッパー・イースト  1:15 a.m.


 こそり、と扉を開くと、かちゃかちゃ、とキーボードを叩く音だけが薄暗い部屋に響いている。

 時折考え込みながらキャスター付きの椅子を左右に振るように身体を動かし、またキーボードに向うことを繰り返す夫。

 その後ろ姿を暫くの間、彼女は後ろから眺めていた。

 やがて気配を感じたのか、フィリップがドアの方を振り返った。

「眠れないのかい?」

 そう優しく声をかける彼に曖昧な笑みを返し、彼女は彼の元に歩み寄ると、ことり、と音を立ててを机上に置いた。

「!」

「クローゼットに落ちていたそうよ」

「……Oh」

「隅の方まで転がっていたみたいで、ナディアもずっと気付かなかったんですって」

「……」

 言いながら夫の膝の上にまたがる。

 ありがとう、と言いかけた夫の唇を指先で塞ぎ、彼女は静かな視線を夫に向けた。

「ママがあなたに贈ったものだし、失くした、と正直に言い出せなかったのは解ってるつもりよ。でも……」

「……」

「隠し事はやめて、フィル。あなたのことだからきっと、このカフリンクを失くしたことも気に病んでいたでしょうけど、どんなに小さなことでもいいの、あなたの心の負担になっていることがあるのなら私に話して欲しい。一緒にそれを解決していきたいの。だって私たち、夫婦でしょう?」

「………キャス……」

 夫の低い声に、彼女は覚悟を決めたように唇をぎゅっと固く結んだ。

「……実は……」


 "やはりパリには行けそうにない"


 宙を舞うカフリンクが窓ガラスに当たり、跳ね返って床に落ちる。そのカツンという乾いた響きは、彼女の心に入ったひび割れの音かもしれなかった。

 今しがた「一緒に解決していきたい」と告げたばかりなのに、あろうことかその思いをやすやすと裏切ろうとするなんて。

 目の前の夫に一瞬、激しい憎しみが湧いた。

「……本当にごめん……この夏は無理でも、必ず何とか時間を作るから」

「……いいの。バカンスなんて、最初から無理だと思っていたもの」

「キャス――」

「――話してくれてありがとう」

 こわばった笑顔で夫の膝を下り、彼女は静かに書斎を後にした。

 そしてひとり寝室へ戻ると、再びベッドに横たわり、すぐに瞳をぎゅっと閉じた。

 さっさと眠りの中へ逃げ込んでしまいたかったのだ。何もかも忘れて。

 そのうちに、つう、と流れ出たものが右の耳の穴をくすぐるのに気付き、彼女はそれを枕に吸わせるために横を向いた。

 あくまでもしらを切るつもりなのね。

 それが彼女や家庭を守るための彼の選択だと解っている。彼女だって今更詮索するつもりはなかったのだ。

 彼が夫婦関係をやり直そうとしてくれている、もう一度私のほうを向いてくれている、それだけで彼を許す気になっていた。

 きっと女とは切れている。ここのところの彼の態度が、そう信じさせてくれたからだ。

 それなのに、女のほうがあんなふうに挑発してくるなんて考えもつかなかった。一体どういうつもりなのか。

 心の中に黒い染みを拡げさせる不気味な影。ぞっとした寒気が彼女を襲った。

 何より、自分のことを知っている人間だ、という事実に吐き気がする。知らない相手なら良かった。


 彼女はベッドから起き上がり、不気味な感情が黒い影となって渦巻いている寝室を抜け出した。そうして足早にキッチンへと向い、パントリーの扉を勢いよく開けた。瓶類を漁り、透明な液体をグラスに少量流し込み、ぐい、と勢い良くそれをあおる。勢い余って口元から零れ落ちる滴。それを手の甲で拭い、再び透明な液体を勢い良く喉に流し込んでは、げほげほ、とむせることを繰り返した。

 冷たい床にぺたりと座り込むと、その感触と視界に入るものたちが、あの夜のことを呼び覚ます。

 彼女はぼんやりと床を見つめ、少し前にここで酔い潰れた夜のあれこれを思い出すことに時間を費やし始めた。







 グリニッチ・ヴィレッジ  11:30 p.m.


 その夜何度目かのエレヴェイターの音に顔を上げ、そちらの方へと視線を送る。またしても彼が待ち望む男ではなかった。エレヴェイターから降りて来た白人の女が、廊下の壁にもたれて座る彼に一瞬ぎょっとした顔をして、彼の前を足早に通り過ぎる。二つ隣の自分の部屋へそそくさと逃げ込む彼女を、ぼんやりと視界の端っこで見送った。腕を上げて時計を確認する。もうじき日付が変わろうとしていた。

 あの夜から三週間ほどが過ぎた。

 ずっと心の中を蝕んでいる男にもう一度、会いたい。ただそれだけを渇望して手をこまねいている間に、気付けば数週間もの月日が過ぎ去っている。

 格好悪くてラムカには言えなかったけれど、何度も仕事の帰りに遠回りをしてはこのアパートメントの前に立ち、上を見上げ、けれどブザーを押す勇気も出ず、逃げ帰るようにして踵を返すことを繰り返してきた。

 ラムカのお節介のおかげでまたここにやって来たはいいけれど、どうせ今夜も何も出来ずに逃げ帰るんだろう。

 そう不甲斐ない自分を嘲りながら6階の窓を見上げた時、他の住人と思しき年配の夫婦がエントランスのロックを外そうとするのに遭遇した。

 気が付けば彼らの後を追って身体を滑り込ませ、住人の振りをして建物の中に入り込んでいた。

 一夜限りの戯れと割り切ることが出来ない。あんなふうに初めからひとつに溶け合えた相手は初めてだった。

 男を思い出す度に胸は疼き、温もりを記憶したままの身体は男を求めて起き上がる。どれほど男を想いながら自分を慰めたことだろう。

 もはやキースのことなど、思い出すこともない。あんなにも、彼をまだ愛していると思っていたのに。もう顔もうっすらとしか思い出せない。肌の記憶も今ではすっかり消えてしまった。

 今のミシェルには男のことしかない。彼に会いたい。彼を感じたい。時が過ぎるのにつれ、その思いは狂おしいほどに募るばかりだった。


 何度も溜め息を吐きながら、そのまま暫くの間座り込んで男を待っていると、エレヴェイターが到着する音が聞こえたので、反射的にそちらに目を向けた。

「んん……ふふっ」

 ――!

 キスを交わしながらこちらへ向ってくる男女に愕然とした。

 ミシェルの存在に気付いた男が歩みを止め、男の視線を辿った女がミシェルを見てぷっと噴き出した。

「やだ、だあれ?」

 男は平然とした顔で、座り込んだまま動けずにいるミシェルの前を通り過ぎ、部屋の鍵を開けた。

「可愛い坊やね。一緒に楽しまない?」

Don't touch me !触らないで!

 けらけらと笑って彼の頬を撫でる女の手を払い除ける。Oops !ウープス  そう肩をすくめた女がドアの中へ逃げ込み、男がミシェルを振り返った。

「……帰るんだ」

Non嫌だ

「じゃあ耳を塞いでおけ」

「!」

 そう言い放ち、男は無情にもドアの向こうへと消えた。



 拷問のような時間が暫く続いた。ドアの隙間から微かに漏れ聞こえてくる、甘く腐ったような、女の媚びた声。

 反吐が出そうだ。

 座り込んだまま髪を掻き毟り、もたれていた壁を拳で殴り、後頭部をがんがんとそこに打ち付ける。そうやって耳障りな女の声を掻き消した。

 ヘッドフォンでもあれば良かったのに。あの頃みたいに。

 彼は子供の頃、今と同じように外の廊下に座り、ヘッドフォンを耳に当ててポータブルのCDプレイヤーで音楽を聴きながら、母親の情事が終わるのを待っていた。

 母に強要されたわけでは決してなかった。自らそう望んで廊下で時を過ごしていたのだ。ドアの向こうで繰り広げられる情事を連想しないよう、騒がしいロックばかりを聴きながら。

 あの頃と同じこの状況に自分を嘲り笑いたくなる。

 何故立ち去ることを選ばないのだろう。彼の言うとおりだ。帰ったほうがよかったに決まってる。

 よりによって女とベッドを共にしている男を、どうして――彼は壁を殴り続けていた。その手が大事な商売道具であることも忘れて。


 暫くの間そうやって自棄やけになっていると、突然さっきの二つ隣の部屋の女がこそっとドアを開いた。

 ミシェルの様子を怪訝な顔で窺っている。彼が壁を叩く音が彼女の部屋まで響いたのだろう。

 知ったことか。彼は女から目を背け、壁にもたれるように上を向いた。

「止めなさいよ」

「……」

「あんた通報されるよ」

「……」

「聞いてんの?」

「……ほっといてくれ」

God ! まったく!

 女は廊下に出てミシェルの上着の襟を掴むと、彼を引っ張り上げて自室のドアに引き込んだ。

「何するんだよ!」

「あんたこそ! いい? よく聞いて。ここにはね、困った差別主義者レイシストが住んでるの。クレイジーな奴よ。あんたみたいな肌の色の人間がちょっとでも騒ぎを起こしたらなんだよ。ここには色んな肌の色の人間が住んでて、みんな色んな事情を抱えてる。だからあたしたちも面倒はごめんなわけ。解った?」

「何もしてないよ!」

「解ってないのね。住民でもない黒人の男が廊下に座り込んで壁を殴ってる。それだけで奴は警察にあんたを突き出すよ。不法侵入者だってね。実際そうなんでしょ?」

「……」

「もしそうなったら6-Cの彼にも迷惑が掛かるわけ。あたしにもね。解ったら大人しく帰るのね」

 そう言って女がドアを開けた。

「……」

「さあ!」

 立ち尽くしたままでいるミシェルに業を煮やし、出て行って、と女が仕草で彼を促した時、ミゲルの部屋のドアが開いた。

 女に背中を押されて廊下に放り出され、ミゲルの部屋から出てきた女と鉢合わせになる。

「やだ、まだいたの?」

 彼の視線に怖気づいたのだろうか。再びOops ! と肩をすくめ、女は彼の前から逃げるように去った。

 少し行ったところで女が興味深そうに、ちら、と彼のほうを振り返る。男の部屋の前で項垂れたままの彼を見て、はあ、と短く息を吐くと、女は戻ってきて男の部屋のブザーを押した。

「開けて。忘れ物しちゃった」

 がちゃ、とロックが解かれた音が響き、女がミシェルを振り返る。

「ほら」

「!」

「入らないの?」

 早くしなさいよ、とでも言いたげな顔を彼に向け、女は戸惑う彼の背中をドアの中に押し込んで、がちゃん、とそれを閉めた。

 ドアの向こうで女の足音が小さくなっていくのを背中で聞き、彼はゆっくりと男の部屋の中へ足を進めた。

 男の纏う香りがそこかしこに漂い、その香りの記憶に、彼の胸が再びキリキリと音を立てる。

 部屋には、男がシャワーを浴びている音だけが響き渡っていた。視線の先では、もみくちゃになったシーツが彼の胸を抉る。

 馬鹿なことをしている。つくづく自分でもそう思う。彼を女と共有するなんてまっぴらだ。頭ではそう解っているのに、足が言うことを聞いてくれない。

 シーツを恨めしげに睨み付け、劣情が大きな欲望に変わっていくのを感じながら、ただ呆然と立ち尽くした。


 やがてシャワーの水音が止み、タオルで髪を拭きながら、上半身裸のままで男がミシェルの前に姿を現した。

「!」

 彼がそこに立っていることなど予測もしていなかったのだろう。驚きを隠し切れずにミゲルが瞳を見開いた。

「さっきの……彼女が入れてくれた」

「……」

 困った奴だ、というふうにミゲルが息を吐く。ミシェルは所在無さげに立ち尽くしていたが、とり合えず手持ち無沙汰な両手を上着のポケットに突っ込んで肩をすくめてみせた。

 帰れ。そう言われると思ったのに。男がもみくちゃになったシーツを引き剥がす様子を、彼はぼんやりと眺めていた。

 女との短い情事を終え、男は何事もなかったような顔で日常の続きを始めようとしている。シーツを引き剥がしたのも、ミシェルのためという訳では決してないだろう。たとえここに今、彼が居なかったとしても、同じようにシーツを引き剥がしたに違いない。

 その様子は彼を少し気落ちさせたが、彼は上着を脱いで、当たり前のようにミゲルのベッド・メイクの手助けを始めた。

「……」

 馴れた手付きでベッド・メイクをするミシェルに、戸惑いを含んだ男の視線が貼り付く。

 僕は一体何をしているんだろう。自分自身にそう呆れながらも、次第に彼はこの状況を楽しみ始めてもいた。ミゲルが女と寝たシーツを引っ剥がす様子はまるで、何かの犯罪の証拠隠滅を謀ろうとしているようにも見えたから。

 それならば、僕はその共犯者、ということになる。

 その思いつきは彼を高揚させた。

 君となら罪を犯すこともいとわない。だって僕たちは堕天使なのだから。


「出来た!」

 ベッド・メイクを終えたばかりの、ぴんと張ったシーツに、ミシェルが子供みたいな笑顔で、ごろんと無邪気に寝転がる。

 証拠隠滅、終了。女の匂いも気配も、これで全て綺麗に消え去った。

 彼は満足げにシーツの上をそうっと撫で、ベッドサイドに立ち尽くしたままのミゲルを見上げた。

「……ねえ」

「……」

「まさか……女とも寝るなんて、思ってもみなかった」

 下から見上げるミゲルの身体。あんなに長いこと渇望していたものが、今は彼の手の届く場所にある。

 証拠隠滅は終わっても、最後の仕上げがまだ残ってる。君の身体から記憶を消してあげる。さっきの女の、いや、僕以外の総ての肌の記憶を。

 彼は身体を起こし、欲望を灯した琥珀色の瞳をミゲルへと向けた。

「……会いたかった」

「……」

「会いたくて、気が狂いそうだった」

「……」

「さっきから、何も言ってくれないんだね」

 やはり男は何も言おうとはしない。

 だが、完璧なまでに冷徹な表情を崩さずにいたはずの男が、『会いたかった』というミシェルの言葉に一瞬その瞳に浮かべた色。それをミシェルが見逃すはずはなかった。

「……迷惑だった?」

「……ああ……迷惑だ」

 一歩足を踏み出し、男がミシェルの頬へ手のひらを添える。

 ミシェルの心を虜にした、艶めいた低い声。その声が告げた残酷な言葉とは裏腹に、頬から耳へ、耳から首へ、そして首の後ろへと、男の手のひらが優しくミシェルを愛撫するように動く。彼は瞳を閉じ、それをうっとりと味わった。

 じんじんと痛いほどに熱くなる耳、その直ぐ下の場所と胸元で、どくどくと激しく波打つ音、乱れ始める呼吸。

 漏れ始めた甘い吐息を塞ぐように、男の親指が彼の唇の上を滑る。それを追いかけた厚い唇が男の指を食み、甘く歯を立ててその先をねだる。

 彼の望みどおり、指の代わりに差し込まれる舌。シャツを脱ぎ捨て、男の重みと肌の温もりを直に受け止め、乾いたシーツの上に、たたんだ羽を押し付けた。

 広い背中に廻されたカフェ・オ・レ色の長い指が、まるで男の羽をむしるかのように激しくうごめいている。

 そのうちにくるり、と身体を入れ替え、ミシェルが男を見下ろす。

 男の唇とその中身を思う存分に味わうと、やがて彼は、その形良く厚い唇を男の身体中に這わせていった。




* このお話のあとがきはこちら⇒

https://kakuyomu.jp/works/1177354054892660029/episodes/1177354054892708968


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