31 -Ⅱ. End of the long winter - 長い冬の終わり Ⅱ
ブルックリン 6:50 p.m.
お腹を空かせたデーヴィーに遅めの朝食を与えたあと、彼女はソファーでうたた寝をしてしまった。
何だか疲れちゃった――そう感じてソファーにどかっと腰を下ろし、あれこれと考え事をしているうちに、うとうととしてしまったのだった。春の訪れを感じさせるような、ぽかぽかとした陽気のせいもあっただろうし、彼の作ってくれた朝食をお腹いっぱい食べてしまったせいもあっただろう。
そんな彼女を起こしたのは、やはりデーヴィーだった。彼女が長いことそこで寝ていると、お腹や胸の上に乗り、毎回容赦なく起こしにかかるのだ。
時計を見ると昼の2時を半時も過ぎた頃だった。
それからシャワーを浴びて、アパートメントの地下にあるランドリー室に洗濯物を放り込みに行き、それから近くのマーケットで買い物をした。
夕方帰宅し、地下のランドリー室へ洗濯物を取りに行き、そのあとは何をするでもなく、時間を持て余した彼女は、本でも読もうかとソファーに腰を下ろした。
けれど、いくらページを目で追っても、少しも内容が頭に入ってこない。
仕方なく何度も同じ箇所を読んではみたのだが、結果は変わらなかった。全く集中出来ずに、文字が意味のない記号の羅列のようにしか見えないのだ。
ため息を吐いて膝の上の本を閉じ、それ以上読むことを諦めた彼女は、再びソファーにごろん、と横になった。
顔にかかった髪の毛を手で払いのけようとして、ふっと目に入った自分の手。知らない誰かの手のように、それをまじまじと見つめる。
彼からマグカップを受け取る時に重なってしまったこの指。そして、瞳。
あの時の彼の瞳の色が脳裏に蘇り、彼女の胸をざわつかせる。彼のあんな瞳の色を見たことは、今まで一度もなかったのだ。
彼の瞳に浮かんだ色。
ほんの一瞬のことだったのに、鮮明に思い出すことが出来た。
あの時、見てはいけないものを見たような、それでいて、どこか確信にも似た思いが湧いた。
だが彼女自身、あの時自分の瞳にも同じ色が浮かんでいたことも、心の底に隠されている、彼女自身もまだ存在に気付いていない部屋に彼の瞳の色が仕舞われたことも、この時はまだ知る由もなかった。
今はただ、心がざわざわと音を立てていることを自覚しているに過ぎなかった。
ふと気が付くと、さっきまで部屋の隅っこでひとり遊びをしていたはずのデーヴィーがいつの間にかそばに来ていて、きちんと床にお座りをした姿勢で彼女の顔を見上げている。
どうかしたの?と、そう言いたげな顔で。
デーヴィーを抱き上げて胸の上に乗せる。
額に唇をうずめると、みぃぅ、とデーヴィーが小さく鳴いた。
「ごめんね、朝までひとりぼっちにして。寂しかった?」
みぃぅー。ひとりにしないでよぅ。
再びデーヴィーが甘えるような声で小さく鳴いた。
「んんー、ごめんね。寂しかったの、そうなの、マミも寂しかったよ」
そう言いながら顔や額や喉元を撫でさすり、デーヴィーから気持ち良さげなゴロゴロとした喉音を引き出した。
デーヴィーが乗った胸のあたりがぽかぽかと暖かい。
糸みたいな細い目になってゴロゴロ言い続けるデーヴィーの喉元を撫で続けていると、彼女まで眠気が押し寄せてしまい、デーヴィーを乗せたままでうとうとと眠り始めてしまった。
そうやって再びソファーでうとうとと
誰かと思えば、ベティとミシェルの2人だった。
デリでワインや食べ物を買い込んだ2人が、仕事帰りにブルックリンの彼女の部屋までやってきたというわけだ。
「昨日はごめんねパーティー」だと2人は言うけれど、「あのあと彼とどうなったのよ!?」と話を聞きたくてうずうずしたからやって来たのはありありだ。
残念でした、何もないわよ。って言うか、あるわけないじゃない!
そう唇を尖らせるラムカだったが、美味しいワインと食べ物のせいで、またしても幸せな気持ちになる脳内物質に思考を支配され、そのあとはいつものようにげらげらと笑い転げるのだった。
「――でもさあ、無理やりあんたの世話押し付けられて迷惑だったはずなのにさ、朝食作ってくれたなんて優しいじゃん、彼。やーん、惚れ直しちゃう!」
「君が惚れ直してどうすんの」
「何言ってんの、優しくなんかないわよ。アイメイクが滲んだ私の顔みて『マリリン・マンソン』って言ったのよ、彼! ひどくない!?」
「ぶっ」
「他にも皮肉っぽいこと言われたしさ」
「とか言いつつ、まんざらでもなさそう」
「ね、本当は楽しかったって顔だよね」
「やめてったら。そんな訳ない」
「ってかさ、ミシェル、あの彼女どんな人よ」
「彼女? アマンダのこと?」
「そう」
「あー……今の前に働いてたサロンの客だったんだけど、プライベートなことはよく知らない。すごく要求とか評価が手厳しいけど、求められてる以上の仕事をすればチップも弾んでくれるし、新客を連れて来てくれたり、Twitterで宣伝してくれたりもする。まあ、この街に多いタイプの女性じゃないかな」
「ふーん……きっと押しが強いタイプよね。Hey、気を付けないと彼、盗られちゃうよラムカ」
「何でそうなるのよ」
げほん、げほん――口にしていたナッツの破片を喉に引っ掛け、咳払いしながらラムカがかすれた声を上げた。
「人のことより、あんたこそどうなってんのよ」
「昨日言った通りだよ。キスだけしてサヨナラしたって。――あっ! そうだ!
ミシェルの相手の男知ってんだって!? ずるいよ」
「話したの?」
「
「私も金曜の夜に知ったばかりよ。相手については全然知らな――ってかミシェル! あんたこそあの後の報告まだなんだけど!」
「あの後!? 何、何があったの」
「あー……」
会いに行く勇気が出ない自分をラムカが無理やり連れ出してくれたこと、そしてその後、めでたく彼と一夜を共に出来たこと、昨夜もちょっとだけ彼と会っていたこと、昼間電話をして近々会う約束をしたこと、それらの出来事を淡々と語るミシェルの首に、ベティが後ろからガシッと腕を回した。
「Hey ! よくも抜けがけしたね? 自分だけセックスした罪で逮捕する!」
「ちょ、苦しいです警部」
「共犯者の名前を吐け!」
「ミ……ミゲルです」
「Wow ! 同じ
「『ミゲル』ってミカエルのイタリアン・ネームだっけ?」
「それは『ミケーレ』。『ミゲル』はスパニッシュ・ネーム。でも彼、イタリアンとスパニッシュのミックスって言ってた」
「
「ダークヘア。瞳はヘイゼル」
「で、肝心のアッチのほうはどうだったのかねピノトー君。言え! 言うんだ!」
「洗いざらい吐くんだ!」
「……マジで? 言っていいの? 飢えたお嬢さんたち」
「む?」
「いいの? ホントに? 言っちゃうよ? ぶちまけちゃうよ?」
「むむ!?」
「ごくっ……」
「……
「きゃー!」
「
「一日に4回もやっちゃった! ふふっ」
「Gosh ! そんな回数、何年もないわー」
「えっ、あったの?」
「えっ!? ないの!?」
「4回よ!?」
「だって一日でしょ? 一晩じゃないよ?」
「――もう! まだあるんだから聞いて! 顔でしょ、身体でしょ、声、匂い、えーとそれから……とにかく、マジで何もかもが素敵なの!」
「It’s
「ほらね、いい男はもれなく全員ゲイなのよ。女があぶれるわけよ!」
「――でもね、一番好きなのは彼の瞳。目と目があった瞬間、恋に落ちちゃったんだ」
「Aww……」
「それだけじゃないんだ。笑顔がとんでもなくキュートでさ、マジでキュン死しちゃう」
「うーわ、まだあんの? これ以上聞くとムカつく予感しかないんだけど」
「同感」
「あとね、あとね、キスも舌使いも腰使いも……ああ、もう、もう……ほんと、最高としか言いようがないよ」
「褒めすぎー。何か嘘くさーい」
「やっべ、まじムカついてきた!」
「ま、100倍増しに見えてる時期だもん、しょうがないけどねー」
うっとりとした顔でノロケ話を続ける彼は、女性陣のブーイングも全く耳に入らない様子で、さらに浮かれた声を上げた。
「Oh God ! またやりたくなってきた。ねえどうしてくれるの、今すぐ彼とファックしたくなっちゃった!」
「ねえベティ、さっきからいけない言葉連発する悪い子がいるんだけど」
「Yeah ! そういう悪い子にはお仕置きだよね」
「わー!」
ベティがミシェルを押し倒し、反対側からラムカも参戦して、ふたりでミシェルの鼻やおでこや唇、顔中にキスの雨を降らせる。
ミシェルはもみくちゃにされ、シャツを脱がされたり、お尻を叩かれたり、ふたりの飢えた女どもからあれこれとお仕置きをされてしまった。
笑い過ぎたせいと嬉しさとアルコールのせいで、3人とも顔が涙でぐちゃぐちゃだ。
そうやって床に転がったままで、いつまでもくだらない冗談を言い合い、時にじゃれ合い、3人は寄り添うようにして、そのまま床の上で眠りに落ちたのだった。
ウエストヴィレッジ 8:10 p.m.
イネスの家からの帰り道、彼は友人のトムの店でランチをとるため、ノリータ地区へと赴いた。
食事の後、忙しそうなトムの手伝いをしたり、トムや店を訪れた共通の友人たちと話したりして夕方までのんびりとそこで過ごし、ようやく彼は自分のアパートメントへと帰宅した。
そしてそのままソファーに倒れ込むように横になった。
帰宅してドアを開けた瞬間に感じた、いつもと違う空気が部屋に漂っているような、奇妙な感覚。
自分以外に誰も居るはずのないこの部屋に、自分ではない他の誰かが確かにいたのだ、と改めて認識させられた。つまり、それは彼女だ。
姉や甥たちが帰ったあとには決して感じることのない「何か」がそこには漂っていて、それは彼を息苦しくさせた。駅の階段で彼女を見送った時と同じような、わけのわからないものが、じりじりと胸を焦がすのを感じ、彼はソファーに寝転がったまま瞳を閉じた。そしてそのまま眠りに落ちてしまったのだった。
目を覚ましてみれば、すっかり日も落ちていて、ひんやりとした暗闇が部屋を満たしている。
明日からのクリフォード家でのメニューの準備もしなければならないというのに、何もやる気が起こらない。彼はとりあえずソファーから身体を起こし、キッチンへ行って冷蔵庫を開け、冷やしてあったミネラルウォーターで乾いた喉を潤した。
それからバスルームへ行き、クローゼットを通り抜けて部屋へ戻り、そして、ベッドの前で立ち止まった。
そこは彼女が起き出したままの状態にされている。彼はゆっくりとそこへ腰を下ろし、身体ごと振り返るようにして、彼女が寝ていた箇所に瞳を向けた。
枕やシーツには柔らかなしわが残されている。何故だか彼女の体温がまだそこに残されているような気がして、確認するように、そっとそこへ手のひらを置いた。
当然のようにそこはもう冷たくなっている。それは解っていたはずなのに、何故だか彼を気落ちさせた。
やがて彼は頭の中のあれこれを追い払うように髪の毛を掻きむしり、そして、ベッド脇の小さいチェスト上に置かれたままの、彼女のピアスに目を留めた。
手を伸ばしてそれらを拾い上げる。手にした彼女のピアスを弄ぶようにして、しばし考えを巡らせると、彼は時計で時間を確認し、天井を見上げて小さく息を吐いた。
しばらく逡巡した彼は、彼女のピアスを手にしたまま、椅子に投げ置いてあった上着を取り上げた。
数分の後、彼はブルックリンの彼女のアパートメントへとバイクを走らせていた。
目印にしている、1階に小さな本屋がある建物の角を曲がる。スピードを落としてその通りをしばらく進み、彼女の住むアパートメントが見えてきたところでバイクを停めた。
エンジンを切り、ヘルメットを外す。乱れた髪を直すようにかきあげた時、聞き覚えのある笑い声が前方から聞こえてきた。
その声に顔を向ける。ミシェルとベティだった。2人は買い物の荷物を抱え、笑いながら彼女のアパートメント入口の階段を上がろうとしていた。
2人が建物の中に入るのを黙って見送ることしか出来ず、短く息を吐いた彼は、再びバイクのエンジンをかけた。
来た道を引き返し、再びブルックリンブリッジを走ってマンハッタンへと戻る。
少し前には肌を刺すように冷たかった風が、いつの間にか、冷たさの中にも暖かく柔らかな空気をはらんでいる。ようやく新しい季節が訪れようとしているのだ。
それは、彼の心の中の硬く厚い氷をも溶かし始めていた。ただ、彼自身がそのことに気付くのは、もう少し先のことだ。
昨夜から続く訳の解らない苛立ちから逃れるために、彼はその夜もまた、美しい水色のボトルから強い酒をグラスに注ぎ、それを何度も身体に流し込むことになる。
胸を蝕む苛立ちと心地よい酩酊とが、彼の中で何とか折り合いをつけ始めた頃、ようやく彼の長い一日が終わろうとしていた。
* このお話のあとがきはこちら⇒
https://kakuyomu.jp/works/1177354054892660029/episodes/1177354054892709466
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます