しょっぱいカルボナーラには赤ワインが合う
野上じゅん
第1話
テーブルの上のデジタル時計が、音もなくPM7:00を表示した。佳奈子はレポートの参考用に図書館から借りてきた本を閉じ、ノートパソコンの電源を入れた。中古で買ったパソコンは、立ち上がるまでに結構時間がかかる。佳奈子はじれったくなる前に台所へ立った。
レモンを浮かべた紅茶を入れた大きめのマグカップを持って、パソコンの前に座りなおす。2通の新しいメールを受信していたが、佳奈子はそれにはかまわず、検索サイトのお気に入りフォルダから<チャット>をクリックした。見慣れたサイトのトップページに作られたたくさんの「部屋」の中から、佳奈子はいつもの名前とメッセージを探した。
エツ > カナ、待ってるね。
佳奈子はいつものように、大学からアパートまでまっすぐ帰ってきた。近所のスーパーで買い物をしてきてもよかったのだが、ポイントカードを忘れてきたことに途中で気付いた。汗で背中に張りついたデニムのシャツがどうにも気持ち悪い。9月の終わりとはいえ、緩やかな登り坂を自転車の立ちこぎで一気に上がってくれば、汗まみれになるのも無理はない。
大家の住む1階の軒下に自転車を置くと、佳奈子はスマホで時間を確認した。午後4時、まだ時間はたっぷりある。呼吸を整えながら、むき出しの階段を2階へと上がっていった。
大家の話によると、このアパートはもともとは瀟洒な洋館だったらしい。戦後間もなく、GHQの要人が横浜港を見下ろすこの高台に家を建て、本国へ帰った後、大家の祖父が購入をした。大家には子供がおらず、妻と2人では広すぎる2階を改装してキッチンとバス・トイレを付け、2部屋のアパート仕様にした。茅ヶ崎に住む佳奈子の伯父が大家と釣り仲間だったことから、このアパートを紹介してもらった。隣には、やはり大家の釣り仲間の娘さんが住んでいるとのことだったが、OLということもあり、佳奈子はほとんど顔を合わせたことがなかった。
アパートは高台にあるので、外出をすれば帰りは必然的に登り坂になる。引っ越してきたばかりの頃は坂の途中で力尽き、よろよろと自転車を押しながら帰ってきたものだが、今では地面に足をつけることはほとんどなくなった。
短い通路を奥まで進み、玄関を開ける。むせ返るような淀んだ空気の澱が、佳奈子を押し返してくる。南向きの窓からは傾きはじめた太陽の光が差し込んでいる。窓を開けると、乾いた風が重たい空気を押し出すように部屋の中へと入り込んできた。窓辺に立つ佳奈子の視線を遮るものは、なにもない。眼下の横浜港の先には相模湾が広がっている。アパートは不便なロケーションにあったが、この開放的な風景が佳奈子はとても好きだった。
窓を開放したままレースのカーテンを閉めると、佳奈子は汗で湿ったシャツを脱ぎ捨てた。風を孕んだカーテンが、汗ばんだ佳奈子の身体を包む。そのやさしい感触に、佳奈子はうっとりと目を閉じた。
壁に掛かっている新しいTシャツを着ると、佳奈子は洗面所へと向かった。鏡に映った自分の姿をスマホで撮ったあと、短い文章と一緒にメールで送った。
『今、アパートに戻りました』
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