アンタイ

淡 深波

六月中旬 代屯司停留所、牧駒邸、学校

 牧駒蓮太郎まきこま・れんたろうは降りしきる雨の中バスを待っていた。背後の自販機では中等部の生徒と思しき連中が四五人寄り集まってアイスを選んでいた。かれこれ十五分待っているがバスが来る気配はない。バス停の薄いトタン屋根はなんとも心許なく感ぜられた。

 それから更に十分ほど待った頃、中学生集団はすっかり自販機の前に居座って駄弁っていたが、蓮太郎は道路の向こうからバスの代わりに少し変わったものが悠然とやって来るのを目にした。それは人力車であった。黒塗りの堅牢そうな造りで、しっかりと屋根と側板に覆われた座席には見窄らしい柿渋色の作務衣姿の老人がチョコンと座っている。そしてそれを曳いているのは鮮やかな青の羽織袴を着こなした血色の良い美青年で、彼は全く雨に打たれるに任せていた。バス停を通り過ぎる時、青年の方がちょうど二本目のアイスを買っていた集団を指差して言った。

「この世にありとあるものは、げに様々にございますね」

中学生たちは各々違う種類のアイスを買っていた。青年の言葉に老人は直ぐに応えた。

「いかにもいかにもその通り。君は良いことを言いますね」

そのまま彼らは過ぎ去っていった。

 バスはなおも来なかった。蓮太郎は迷い始めていた。家までは歩けない距離ではない。しかしバスで十五分程というのはそこそこの距離でもある。ましてこの雨の中だ。下着やら靴下の中まで濡れ通ることは間違いないだろう。

 携帯が鳴った。ポケットから取り出して見てみると菩薩という渾名の友人からだった。いつまでバスに待たされるか分からず苛々していた蓮太郎は喜んで電話に出た。

「ああ、マッキー。お前滝13系統の小古瀬ここせ行きのバス使ってたよな」

「ああ、そうだけど」

「その路線、今止まってるらしいぜ。何でも早覚坂さっかくざかで不審な鞄が見つかったんだと」

 だが菩薩はいきなり残念な事実を告げた。早覚坂というとここ代屯司だいとんしから蓮太郎の帰宅する方向に三つ前の停留場だ。蓮太郎は歩きが確定して気が重くなったが、それはそれとして、或いは憂鬱を紛らわすために、ちょうどさっき見た人力車のことを菩薩に話してみた。

「人力車か。老人と青年の。俺は見たこと無いがそういや話に聞いたことはあったぜ。もしかしたら今日はお前にとって普段とは違うことが重なって起こる日なのかもしれないな」

「やめてくれ、変なことを言うのは。それに不審な鞄は俺には直接関係ないだろ」

「すまんすまん。まあ気を付けて帰れよ。何しろひどい雨だからな」

「ああ、どうも」

そう言って電話を切り、蓮太郎は渋々土砂降りの中に踏み出した。こういう時は傘は殆ど役に立たない。蓮太郎はもういっそ傘なんぞ投げ出して、それどころか濡れて肌に気持ち悪くくっつくだけの衣服も全部脱ぎ捨てて真っ裸で駆け出したかったが、そんなことをしたら打ち付ける雨はもちろん、世間の視線が殊更に痛いだろう。

 三十分ほどかけてようやく家の前に辿り着いたところで蓮太郎は顔をしかめた。長らく空き家だった隣のだだっ広い物件に、引っ越し業者が二台もトラックを止めて、この雨の中ご苦労にもせっせと大量の荷物を運び込んでいたのだ。別にただの引っ越しであろうが、先の菩薩の言葉である。これが妙に頭に残っていて蓮太郎を訳もなく不安にさせた——今日はもう懲り懲りだ。だが幸いなことにその日はそれ以上変わった事は何も起こらなかった。


 翌日、牧駒家の新しい隣人は挨拶回りに忙しかった。その牧駒家にも日中蓮太郎が高校に行っている間に男二人組がやって来て、母・牧駒蓮華れんげが対応した。彼らは男女合わせて十人でハウスシェアリングをしていると説明した。蓮華は珍しがった。夜蓮太郎と父・令一郎れいいちろうに話すと、二人も不思議がった。というのも、確かに男女十人ハウスシェアリングというのも珍しいことだが、それ以上に、その日近所中を奔走していた彼らからは、年齢は様々にも関わらず、妙に統一された雰囲気があるという風聞が既に広く共有されていたからである。彼らが人数に任せて手分けして相当な広範囲に挨拶回りをしたことが噂の広まりを助けていた。住民たちの間では専ら彼らはカルト集団だという説が有力だった。人間とは不思議なもので、このような説には確かに不安を抱いて眉をひそめながらも、一方では他人に言い触らしたくて仕方がないのである。

 そんなわけで挨拶回りのその翌日には、蓮太郎の高校でも朝から謎の新参者たちの話題で持ちきりだった。

「俺もやっぱりカルト説推しなんだよ」

昼休みももちろん話題はこの事、蓮太郎の友人・田中は弁当を開くなりそう切り出した。

「でもさあ、カルトって言っても、神様っていうの?偶像っていうの?何を信仰してるんだろねえ」

同じく友人の高階が問題提起した。

「それだよなあ。×××××教みたいのだったら冗談じゃなくヤバいかも。てかマッキーの隣の家なんだろ?お前調べて来てよ」

と菩薩。

「待て待て、お前なんでそんなことまで知ってるんだ。俺は絶対やらないからな。そもそもお前今自分で『ヤバいかも』とか言っておきながら俺は危険な目に遭ってもいいってか?」

蓮太郎はムキになって言い返した。

「まあまあ、冗談だけどさ。でも興味はあるだろ?だから今度みんなで行こうぜ。みんなで行けば怖くない、ってな。次の土曜とか空いてる?」

菩薩はすっかり乗り気なようだった。

「いや、僕は今すぐには返事できないよ。やっぱり怖いものは怖いからね」

高階は慎重だった。彼はそういう性格なのである。

「それじゃ、覚悟が決まったらメールしてくれ、お前らも、な?」

菩薩がそうまとめてその話は一旦終わりになった、と思われた。ところがそこで田中がふと気付いたのだ。

「あれ?そういえばさあ、一昨日バス止まったんだよねえ?確か早覚坂で不審な鞄が見つかったとかで。で、その晩カルト集団がやって来たんだよね?もしかしてって・・・」

彼が皆まで言う前に場の空気が忽ち凍り付いた。そしてその静寂は不気味な感染力をもってして周囲に広がり、あっというまに教室は水を打ったようにシンとなった。離れた座席の者たちも田中が何を言ったのか驚くほど的確に察知していた。

「なんてね。ま、まあ、実際何も無かったんだし・・・」

彼は慌てて冗談めかしてみたが誰も何も応えない。更にたっぷり五秒ほど間があって、なんとか復活した高階が辛うじて

「そ、それより田中、君またカノジョ変えたんだって?」

と話題を逸らした。

「そうだ、そうだ、これで何人目だよ」

「女たらし、女たらし!」

「いつも女の尻を追いかけ回してやがる」

蓮太郎と菩薩も必死に加勢して煽る。

「いやあ、僕が追いかけてるのは尻じゃなくて項(うなじ)なんだけどなあ」

田中が真面目な顔で頭を掻くとようやくどっと爆笑がおこった。一同これでもかとばかり「項フェチ!」と田中を罵り、そうすることで不安を忘れることができたのである。


 ところが謎は早くもその夜に晴れてしまった。

 牧駒一家は茶を飲みながらとテレビを見ていた。そして時刻がちょうど六時になり、ニュース番組のオープニング音楽が流れ始めた時である。

「食卓にまします我らの茄子様、南瓜様よ」

突如隣家から中年男性の声が朗々と唱えるのが聞こえてきて、一家はカハカハと咽せた。

「「食卓にまします我らの茄子様、南瓜様よ」」

更に老若男女の声が唱和する。

「願はくは味の旨からむことを」

「「願はくは御味の旨からむことを」」

一家は一層激しく咳き込んだ。

「なんだなんだ、これは」

蓮太郎は思わず叫んだ。

「ふ・・・これはこれは・・・ふふ・・・」

令一郎は笑いを噛み堪えていた。

その間も祈祷はたゆみなく続いていく。

「でもこれ、要するに『いただきます』ってことよね」

と蓮華。全く身も蓋もないが、それで一同も笑いを抑えるのがバカバカしくなったのかもしれない、ちょうど空っぽのペットボトルような身軽さで明るく笑いあった。そして一拍あって、彼らは誰からともなく

「お腹空いたね」

と口々に言い合ったのであった。


 翌朝六時。蓮太郎は再びの「茄子様南瓜様」の合唱に叩き起こされた。これにはさすがに腹が立たないわけではなかった。しかし良い話のネタであることは間違いなく、事実彼は学校につくなり早速前夜からのこの次第を触れ回ったのであった。前日田中が不安を掻き立てただけに、蓮太郎の話を聞いた者は決まって一瞬キョトンとしてから笑い転げた。

「それマジか。なんか可愛いな、謎教団」

菩薩は机をバンバン叩いて目に涙を浮かべて言った。

「茄子と南瓜というのがこれまた可笑しいね」

と高階。

「俺も早く生で聞きてえな。土曜と言わず、もう今夜あたり行ってみるか」

田中は目を輝かせている。彼のこの純粋さはルックスと相俟って世の女子たちをして彼に夢中にならしめる要因であったが、一方で彼女たちにとって残酷なものでもあるのだった。

「どうせお前らそういう名目で俺ん家(ち)に押し掛けるつもりだろ」

蓮太郎はうんざりと言ってみせる。

「まあそれもあるけどさ、俺たちの仲なんだしそれぐらい良いだろう?謎教団に興味があるのは本当だって」

「お前なあ・・・」

しかし菩薩にあっけらかんと開き直られてはどうしようもなく、蓮太郎は結局彼らの襲来を容認してしまったのだった。

 放課後になると蓮太郎はすぐに自宅に電話を掛けた。令一郎が出た。

「あのさ、悪いんだけど友達が茄子様南瓜様聞きたいって、それで今晩にでも家に来たいって言ってるんだけど、良いかな」

「別に構わないけどさ、それより蓮太郎、いやまさにその茄子様の南瓜様のことなんだが、今日の昼十二時ぴったりにまたやってたぞ」

「おう・・・というかまた茄子と南瓜なの?他の野菜とかないの?」

「そうそう、相も変わらず茄子様南瓜様だ」

「今晩はどうだろうね」

「さあ。楽しみにするとしよう」

「だけど朝はちょっと勘弁して欲しいな」

「まあ目覚まし代わりだと思えばいいんじゃないか。お前は寝起き悪いしあれぐらいでちょうどいいのかも」

「・・・父よ、あなたはなんでそんなに気楽なんだ・・・」

むしろ蓮太郎の頭痛の種は増えてしまった。後ろでは菩薩と田中と高階が騒がしい。

「毎食茄子南瓜だと?」

「僕、実は茄子あんまり得意じゃないんだけど・・・」

「それは聞いてねえよ。てかお前入信したいの?」

「いや、そうじゃないけどさ、飽きそうだよね、毎日同じって」

「でも特に茄子とか色んな料理あるじゃん。麻婆茄子、茄子の挟み揚げ・・・」

「巨乳ナース!」

「ないない、田中、それはない」

「そもそもお前項フェチじゃなかったのかよ。それとも乳本主義に魂を売ったか?」

「あ、いや、それは・・・てか菩薩、お前自分がゲイだからって・・・そう!社会の窓主義だからって!」

「あーねー、菩薩×マッキーはやっぱりしんだったのか」

「ちげーよ、ちげーよ!」

「それはないが、こいつ姉ちゃんも妹も貧乳だから女性に絶望してるんだよ」

ようやく電話を終えた蓮太郎も結局馬鹿話に飛び込んだ。

「おま・・・っ!あいつらの事は言うな!」

「シスコンだ」

「シスコンだね」

「なんでそうなる」

「いや、大正解、それも事実だぞ」

「マッキー、もうやめてくれ・・・」

そんな話をしながら彼らはぶらぶらとバス停に向かって歩いたのであった。


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