第8話 嫉妬
お風呂からあがって、リビングでテレビを見ていると、帰宅した瑠偉兄が部屋に入って来た。
「今日もずいぶん遅かったね。夕飯は?」
「うん。食べて来た」
「最近、忙しそうだけど、瑠偉兄、ちゃんと寝てる? お風呂沸かそうか。疲れとれるよ」
この一週間ほとんど寝ていないんじゃないかという様子の瑠偉兄に言うと、彼はニコリと笑って、首を振った。
「もうすぐ、Gプロジェクトのイベントがあるから、準備も大詰めなんだ。まだ残っている仕事があるし、お風呂はその後にするよ」
GreenProject。瑠偉兄が運営するNPO法人。代表を務める彼はいつも大変だ。
「イベント近いの?」
「うん。小学生向けに日本の未来について考えるワークショップを開催するんだ。今回のイベントは参加者が数百人になるから、会場の準備やタイアップしている企業との調整なんかで、結構手間取っている」
すごいなぁ、瑠偉兄は。最初は、十数名の子供たち向けに行っていたワークショップも、今じゃ、数百人か。最近では、各地の教育機関から依頼がかかるほどになっているようだ。
「何か手伝えることある?」
私が聞くと、瑠偉兄は「大丈夫だよ」と微笑んだ。
「莉兎も明日学校だろ。そろそろ寝ないと」
あぁ、瑠偉兄の力になれない子供の自分が嘆かわしい。
リビングを出て行った彼に、私は少しでも力になりたくて、しばらく考えた後、とりあえず、コーヒーでも入れてあげようという結論に達した。
これくらいなら、私にもできる。
私は豆を挽くところから始めて、丁寧に丁寧に、コーヒーを入れた。
「瑠偉兄、入っていい?」
できあがったコーヒーを持って、彼の部屋をノックしたけれど、返事がない。
「瑠偉兄? 開けるよ?」
伺いつつドアをあけると、机に覆いかぶさるようにして、瑠偉兄がうたた寝をしていた。
わぁ。瑠偉兄が居眠りするなんて、珍しい!
よっぽど疲れているんだなぁと、なんだか起こすのもかわいそうになって、声をかけることができず、その顔をそっと覗き込んだ。
あぁ、瑠偉兄の寝顔を見ることができるなんて、幸せ。
いつも素敵だけど、眠っている無防備な彼の顔はさらに素敵で、私はうっとりと見入ってしまった。
って、いかんいかん……。起こさないとまずいよね。ずっとこうして見ていたいけど、仕事がまだ残っているって言っていたもんな。
私は彼の肩にそっと手を触れ揺り動かした。
「瑠偉兄……」
小さな声で囁きかけると、うっすら目を開いた瑠偉兄が、ハッとした様子で起き上がった。
「莉兎……」と、その顔に困惑の色を浮かべる。
「ごめん。驚いた? コーヒー持ってきたんだけど、寝ていたから」
驚き方が半端なかったので、逆に私も驚いて、コーヒーをこぼしそうになってしまった。
「莉兎、ダメだよ。いくら兄妹でも、僕たちは血が繋がっていないんだから、夜中に男性の部屋に入ったりしたら、無防備だろ」
意外なことを言うので、私はちょっと可笑しくなった。
瑠偉兄って本当に真面目だな。
「大丈夫だよ。瑠偉兄だもん」
「ごめんね。お前はよくても僕は困るから。これからは僕の部屋には入っちゃダメだよ」
言い方はやんわりと優しかったけど、その言葉は有無を言わせない響きを持っていて、チクリと胸に刺さった。
瑠偉兄はいつもそうだ。私が近付き過ぎると、こうして、さりげなく壁を作る。
プライベートな空間から追い出されたことを感じ取って、すごく切なくなった。
ちぇっ。せっかく丹精込めてコーヒー入れたのにな。
「莉兎……」
きっと、傷ついた顔をしていたのだろう、瑠偉兄が小さくため息をついて、私の頭を優しく撫でた。
「ありがとう。コーヒーもらってもいい?」
その優しげな笑顔は反則だ。
キュンキュンしながら、私はコーヒーを瑠偉兄に渡した。
一口、口にした瑠偉兄は、
「すごく美味しいよ。豆から挽いてくれたの?」
と、ちゃんと私を気遣ってくれて、えへへなんて、にやけてしまう単純な私。
「これで今から仕事がはかどるよ」
優しく微笑む瑠偉兄に、さらに萌え死にしそうになりながら、私は彼の部屋を後にした。
その数日後、そんな私の乙女心はあっという間にシュンと凹むこととなる。
珍しく早く帰って来た瑠偉兄。
「今日は早いね!」と私は嬉々として出迎えた。すると、「お邪魔します」と彼の後ろから美しい女性が姿を現したではないか。
美姫さん……。
「イベントの本番に備えて、当日の流れをすり合わせるんだ」
固まっている私に瑠偉兄がそう説明した。
「そ、そうなんだ。こんにちは、美姫さん」
「こんにちは。莉兎ちゃん」
美姫さんは文句の付けどころのないほどに完璧な微笑みを見せた。
おぉ。眩しすぎる。
チクチクと胸に刺さる眩いオーラに私は耐え切れず、「ごゆっくり」とだけ言い残して退散した。
リビングに戻った私を横目で見ながら、琉香さんがなんだか楽しげに笑っている。
「何?」
「対抗しようと思うな。お前はスタートラインにすら立てていない」
「たっ対抗しようなんて思ってないよ!」
そう言ったものの、瑠偉兄の部屋へ入って行った二人に、私の中で嫉妬の炎がメラメラと燃え上がる。
ふーん。
私は部屋に入れてもらえないのに、美姫さんなら入れるんだ。
ふーんだ。
「嫉妬するブスほど醜いものはないな」
肩をすくめる琉香さんを、私はキッと一睨みして、キッチンに入った。
まぁ、美姫さんは瑠偉兄の彼女だから、当たり前なんだけど。
恋人を自分の部屋に招いたって、全然、問題ないんだけど。
それでもあからさまに見せつけられたら、傷つくじゃないか。
当日の流れをすり合わせるなんて言って、二人で体をすり合わせたりなんてしていないだろうね。
気分はもう小姑くらいの勢いで、私は二人分の紅茶を準備し始めた。
「何、お前。覗きに行く気?」
「違います。お客様にお茶を出しに行くだけです」
「やめとけよ。邪魔すんなって。俺が相手してやるから」
琉香さんがそう言って、紅茶カップを手にしている私の手に自分の手を重ねた。
びっくりして、落としたカップを琉香さんはひょいとキャッチして、調理台の上に置く。クスリと笑って、彼は後ろから私のことを抱きしめた。
「そんなに瑠偉が好き? 瑠偉にこういうことされてみたい?」
耳元で囁く琉香さん。
「俺がたっぷり可愛がってやるから、いい加減、瑠偉のことは諦めろよ」
悩ましげな彼の声に、「そうやってからかって遊ぶのやめてよ!」と、私は身を捩って彼の腕から逃げ出した。
「る、琉香さん、最近暇そうだよね」
「あ?」
「だって、家に帰って来るの早いし。いつもいるし。モデル干された?」
話を変えようと、あえて皮肉たっぷりに聞いてみると、琉香さんは肩をすくめて、「干されてるわけじゃねーよ。セーブしてんの」と言った。
「なんで?」
「お前と一緒にいる方が楽しいから」
私を見下ろす琉香さんの瞳が艶っぽくきらめいて、ドキリとする。
「今、ドキッとしただろ? 言っとくけど、モデルよりペットをからかっている方が楽しいっていう意味だからね」
小バカにした笑いに、怒りで体がカァッと熱くなる。
「ドキッとなんかしていません! もう、琉香さんは手に余るほど素敵なガールフレンドがいるんだから、私の相手なんかしてないで、デートでもしてきたらっ!」
その言葉に彼はしばらく黙った後、
「美人は三日で飽きるけどブスは三日で慣れるって、よく言ったもんだよな」
と言った。
ほぅ。もう飽きるほど、美人を食い尽くしたと。
「美味しいフランス料理ばかり食べていたから、たまにはお茶漬けが食べたくなったと言いたいわけだね」
「ちげーよ。美味しいフランス料理ばかり食べていたら、たまにはゲテモノが食いたくなったってやつ」
琉香さんはそう言って、ぶっと吹き出した。
ゲ、ゲテモノって……。
「やっぱ、お前をからかっているのが一番楽しいな」
楽しげな表情を見せて、琉香さんはリビングに戻って行った。
きー。悔しい。そんな琉香さんに一瞬でもドキリとしてしまった自分が情けない。
もう二度と、絶対に、絶対に、琉香さんの言葉を真に受けたりなんてしないぞ。
私は固く心に誓った。
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