第6話 突然のキス

「餌あげて来たの?」


 放課後、飼育小屋の餌やりを終えてそろそろ帰ろうと思った私は、裏庭で突然声をかけられて、ひゃっと思わず飛び上がってしまった。

 その声は、坂倉君!

 こないだの『かわいい』発言に免疫のできていない私は挙動不審になってしまう。助けを求めてきょろきょろと辺りを伺うも、普段から誰も寄り付かない裏庭に人影はなく、男の子と二人きりになっていて、しかもそれが坂倉君という事態に、私はパニック寸前だ。


「う、うん。さ、坂倉君は、もう部活終わったの?」

「あ、いや、まだ途中なんだけど、七瀬の姿見かけたから……」


 ドクンと心臓が飛び上がって、私は固まった。


「あのさ。この前の……からかったわけじゃないから。本当に、かわいいと思ったし……」


 やばい、ダメだ。心臓止まりそう……。


「コンタクトにしないの?」


 坂倉君が私の顔を覗き込む。

 ち、近い!


「あ、あ、あの……お兄ちゃんに相談したんだけど……。眼鏡取っても変わらないって言われて……。私もそうかなって」

「え? まじでそう言われたの?」

「う、うん……」

「へぇ。もしかして、お兄さん、シスコン?」


 なぜか坂倉君がそんなこと言うので、首を傾げると、

「それ、なんとなく気持ち分かるな。七瀬の素顔はレアっていうか、俺だけのものにしておきたいし。だから、やっぱりコンタクトにされると困るかも」

 そう言って、照れたように笑った。


 きゃー、きゃー、きゃー。

 どうしよう、坂倉君ってブス専なのかな。すごい。稀にみる貴重な存在だ。

 感動すら覚えて、彼を恭しく見ていると、坂倉君は何だか急に真面目な顔をして私のことを見つめ返した。


「だから、やっぱりさ。眼鏡取るの、俺の前だけにして」


 そう言って、坂倉君は私の眼鏡をとった。

 ボヤけた視界の先で、坂倉君の顔がどんどん近づいて来て、その顔が真剣な表情をしていて、慌てふためいた私は咄嗟に彼のことを突き飛ばした。


「ごっごめんなさい!」


 もう訳わからずに、とりあえずその場から逃げ出す。植木にぶつかって、眼鏡を忘れてしまったことに気付いたものの、取りに戻ることも出来ず……。

 結局、途中途中、いろんなところにぶつかって転びながら、私はようやく家まで辿り着いた。



◆◇◆



「なんだ、そのサバイバルしてきた感じ」


 家に入ると、リビングでテレビを見ていた琉香さんが呆気にとられた顔で私を見た。

 途中何度も転んだので、制服は砂まみれで、擦り剥けたひざから血が出ている。

 琉香さんは、一瞬、眉をひそめた後、ハッとした様子で、「襲われたのか?!」と叫んだ。


「あ。ち、違う。ちょ、ちょっと、眼鏡落として、視界が悪くて……自分で、転んだ」

「バッ……」


 口を押えて、息を吐いた琉香さんは、すごく不機嫌な顔になって私を睨み付けた。


「紛らわしいんだ、クソバカ」

「ご、ごめん……」

「こっちこい」


 おずおずと琉香さんのところに行くと、彼は棚から救急箱を取り出して、私の傷口を丁寧に消毒してくれた。

 心配、してくれたんだ……。

 さっきの普段からは想像できないような、慌てた琉香さんの姿に、なんだかすごく嬉しさが込み上げてきた。

 いつも意地悪だけど、やっぱりちゃんと家族として見てくれているのかな。

 なんて、琉香さんに嫌われているとばかり思っていた私は、顔がにやけてしまう。


「何、ニヤニヤしてんだよ。ブスのくせに、気持ち悪ぃな」


 もう、なんですぐそういうこと言うかなぁ。


「私だって好きでブスに生まれてきたわけじゃないのに」


 そう言うと、琉香さんは消毒していた手を止めて、私のことをじっと見た。


「お前さ……」


 何かを言いかけて、それを呑み込んだ後、「眼鏡落としたって、どうしたの?」と聞いた。


「えっ!? あ、あのっ。がっ学校に忘れちゃったのかな?!」


 目の前に迫った坂倉君の真剣な顔が頭に蘇って、カァッと顔が熱くなる。


「なんで眼鏡を忘れるんだよ。すぐ気付くだろうが。ド近眼のくせに」

「そ、そうだよね。なんでだろうね。バカだなぁ、私」


 あははと乾いた笑いが部屋に響いて、不審そうに見ている琉香さんの目が細くなる。

 その時、インターホンが鳴って、私は助かったと胸を撫でおろした。


「た、宅配便かな?」

「いいよ。眼鏡なしで、また転ばれたら迷惑だ」


 立ち上がろうとした私を制して、琉香さんが立ち上がった。

 インターホンの画面を見た途端、眉をひそめた琉香さん。


「何?」と不躾な応対をする彼に、なにやら不穏な空気を感じ……。


『莉兎さんと同じクラスの坂倉と言います。あの、眼鏡届けに……』


 インターホンから聞こえて来た声に、私はびっくりして飛び上がった。


「あっ、わっ私出る!」


 慌てて玄関に向かおうとして、途中、テーブルの角に脚をぶつけて、ぐおっと叫んだものの、かまわず坂倉君のもとに向かった。


「千歳から、お前の家の住所聞いた」


 坂倉君はそう言いながら、私に眼鏡を差し出した。


「あ、ありがとう。わざわざゴメンね」

「脚、どうしたの? もしかして俺のせい?」


 私の脚の傷に気付いた坂倉君が眉をひそめた。


「ち、違う違う。よく転ぶんだ私」

「ごめん。本当にごめん。急に、キスしようとしたりして……」


 深々と頭を下げた坂倉君に、私はブンブン頭を振る。


「大した傷じゃないし。それに、あの、嬉しかったから。私なんかのこと、かわいいって言ってくれて……」


 すると、坂倉君は黙って私のことを見つめた。


「じゃぁ、俺と付き合うことを、真剣に考えてもらえないかな?」

「えっ?! さっ坂倉君と私が?! そんなの無理だよっ!!」


 いくら坂倉君がブス専だからって、人気者の彼と私じゃあまりに釣り合いがとれなさすぎる。


「どうして? 七瀬、好きな奴いるの?」


 突然言われて、瑠偉兄のことが頭に浮かんだ。

 何も答えない私に、坂倉君がはぁとため息をつく。


「いる、んだ……? その人と付き合っているの?」

「あ……う、ううん。あのそんなんじゃなくて……単に憧れているってだけで……」

「じゃぁ、俺にもまだチャンスがあるわけだ?」


 二カッと真っ白な歯を出して笑った坂倉君は、「じゃぁ、俺、諦めないから。また明日な」そう言い残して帰っていった。

 しばらく放心状態の私。


「おい」


 低い声で呼びかけられて、驚いて飛び上がった。

 振り向いた途端、目に飛び込んで来た琉香さんの無表情な顔。冷酷な光を宿した瞳で私を見据えている。

 あぁ、嫌だ。この目、一番怒っているときのものだ。きっとブスのくせに男の子と話したりして身の程知らずとか言う気だ。


「コンタクトにしろって余計なこと吹き込んだのはあいつ?」

「えっ? う、うん、吹き込んだっていうか、アドバイスしてくれたっていうか……」

「お前あいつのこと好きなの? 瑠偉のことが好きだったくせに、尻軽な女だな」


 苛立った声を上げた琉香さんが、私を睨み付ける。


「ち、違うよ。好きとか、そういうんじゃなくて、ただ、私なんかのことをかわいいって言ってくれる人、初めてだったから、嬉しくて……」


 その言葉に、彼は驚いたように目を見開いた。

 その後すぐに、むすっとした顔をして横を向く。


「な、なに?」

「自分でまいた種だけに、怒りの持って行き場がないな」


 琉香さんはよく分からないことを言った後で、

「っていうか、かわいいとか言われたくらいでなびいてんじゃねーよ。お前は、瑠偉のことを好きなんだろ? だったら、他の男に目移りしてねーで、しっかり瑠偉を慕っておけ」

 と言った。


「でも、瑠偉兄はお兄さんだし……。そもそも、超絶美人の彼女もいるし……」


 肩をすくめる私に、琉香さんがちっと舌打ちする。


「だからって、あの男とキスしたわけだ?」

「しっしてないよ!」

「じゃぁ、なんで、眼鏡外してんだよ。それ以外の目的で、どういう状況なら、外した眼鏡をあの男がもっていて、お前はそんなに動揺しているわけ?」


 鋭い……。


「で、でも、突然だったから、驚いて彼のこと突き飛ばしちゃったし、ま、まだキスして……ないよ……」


 何、こんなことまで琉香さんに話しているんだ……。

 弁解している自分に恥ずかしくなって、私は黙り込んだ。


「ふーん。まだ、してないんだ?」


 琉香さんはなんだか楽しげに言うと、

「お前、ブスのくせに、キスとかに興味あるの?」

 と言って笑った。


「ブスのくせにって言う必要ある? ブスだって、キスくらい憧れるよ!」


 いい加減、頭に来た私は、プチ切れしながら琉香さんを睨み付けたのだけれど……。


「じゃぁ、俺が相手してやろうか?」

「え……?」


 その言葉の意味を理解する前に、彼は突然私に唇を重ねた。


 う、そ……。


 唇に広がった柔らかい感触。あまりの衝撃に私は体を硬直させる。

 琉香さんは、そっと触れるようなキスをした。

 ドクドクと心臓が破裂してしまいそうなくらい音を立てている。


 なに……。なんで……。琉香さんが、私に……。


「やっ……」


 ようやく我に返って後ずさりすると、彼は私の頭を引き寄せて、再び唇を奪った。


「ん……」


 下唇を口に含まれ、初めての感触に背筋がざわめきたつ。

 体から力が抜けて、もう何も考えられない。

 ようやく唇が解放された時には、膝に力が入らず、私はがくりと床に座り込んでしまった。


「ちょっと刺激が強すぎた?」


 私のことを見下ろしながら、ニヤッと笑う琉香さん。


「どう? ファーストキスの感触は?」


 人を射すくめるような鋭く美しい瞳を細めて、低く囁いた。


 なん、なの……。


 ショックで動くことさえできない私に対し、彼は楽しそうに笑みを浮かべている。表情を確認するかの如く、ゆっくりと顔を覗き込んできた琉香さんに、私は猛烈な怒りを覚えて、彼の頬を殴った。


「言っておくけど、私のファーストキスはもうとっくに済んでいるから!」


 それだけ言って、私は彼の前から逃げ出した。


 バカバカバカ。琉香さんのバカ。

 ああやって、私のことをからかって、馬鹿にして。最低。大っ嫌い!

 もう忘れよう。あんなのキスじゃない。ただの事故だ。

 私のファーストキスは、さっきの強引なキスなんかと違って……。


 そう。ちゃんと素敵な思い出として、残っているのだから。



『君はかわいいよ』


 優しく微笑む瑠偉兄。

 初めて会ったその日。琉香さんに『俺、こんなブスが妹になるのやだ』と言われ、部屋に閉じこもって泣いていた私のもとに現れた王子様。


『琉香が酷いこと言って、ごめんね。照れているだけだから、気にしないで。君はかわいいよ』

『嘘だ。どうせブスだと思っているくせに』

『本当だよ。僕は君のことをかわいいと思っているよ』


 それでも泣き止まない私に、『じゃぁ、今からそれを証明してみせるからね』そう言って、瑠偉兄は私にキスをした。

 軽く触れるだけの優しいキス。

 まだ彼は小学六年生で、私は小学四年生で、お互い子供だったけれど。それでも、私にとっては大切なファーストキスだ。


 瑠偉兄……私の大好きな王子様。

 だけど、絶対に手の届かない人。

 凄く近くにいて、私をとても大切にしてくれるのに、一番遠い人。


 なんで、兄妹なんだろう……。


 私はグスンと鼻をすすった。

 まぁ、たとえ、兄妹じゃなかったとしても、瑠偉兄には素敵な彼女がいるから、私にはどうにもできないんだけどさ。


 私のことをかわいいと言ってくれた人。坂倉君は、瑠偉兄に次いで二人目だな。

 彼の日に焼けた笑顔を思い出して、ふぅと私は吐息をついた。

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