アイスが溶けたあとの話

@carm

モノローグ

簡単に忘れる事が出来ていたはずだった。

記憶の全てに黒のインクを塗りつぶして何も思い出せない様に。何も感じないように。ーー


真冬の朝、携帯のアラームが遠くで小さく鳴っていた。薄暗い部屋に間接照明のライトがぼんやりと付いている。私は身体を包む人肌を感じて少しだけ目を開けた。

昨日の飲み過ぎたお酒が思考回路を思うように動かしてくれない。

夢香ゆめかちゃん、おはよ。」

妙に艶っぽい彼の声を聞いて夢から現実の世界に引き戻された。

昨日は会社の新年会だった。どんな経緯で彼と一夜を過ごす事になったのかは分からないけど、相手は会社のT先輩だった。

特に今まで深く関わった事はないけど、

すらっとした身長と整った顔立ち、そして何より仕事が出来る言わば会社の勝組であろう。

派遣で今の会社に勤めて半年になるが、入社した当初から存在だけは知っていた。

もちろん、そんな男に浮いた話がない訳がない。どこまでが本当か分からない噂もあれば、自慢気に話す女の子もいた。きっと本気になって泣いた子もいるだろう。

そんな彼女達を見てクダラナイと鼻で笑って見ていた側にいたはずなのに、結局私は周りの女の子達と同等な場所に立ってしまった。

「すみません。起こしちゃいましたね。」

私は平然を装い、後ろから絡めてきた腕に頬を寄せた。

「全然。寒くて目が覚めちゃった。今日は一段と冷え込むな。ベッドから出られねえ。」

「この家、窓が多くて冷えるんです。今コーヒー入れますね。」

そう言って身体に絡まる先輩の腕をそっとほどいてカーディガンを羽織り、台所へ向かった。

「お、おう。ありがと。」

あっさりとした私の態度に先輩は一瞬戸惑いを隠すようにすぐに携帯に手を伸ばしていた。


こんな時、多くの女性はこの時間を幸福な時間と感じて少しだけでも長く一瞬に過ごしたい。と思うのだろう。

でも私には苦痛でしかない。

一緒に体温を感じながら寝る。

相手の呼吸を聞きながら目を瞑る。

胸元に顔を寄せて鼓動を感じる。

アルコールが効果を増して、まるでお腹の中にいる胎児のようにふわふわとした気分になって何も考えずに眠りにつく。

その一瞬が私の幸福の時間。

夢と現実の狭間から目を覚ます度に、いつも後悔して、この場から逃げ出したくなる気持ちでいっぱいになる。

沸騰して高い音を鳴らしているやかんの蒸気を眺めながら深いため息をついた。


T先輩はコーヒー一杯飲んで直ぐに帰って行った。きっと私には次のチャンスがない事を悟ったのか、すっきりした顔で家を出て行った。

分かりやすくて、可愛くすら思えてしまう。


ー…この人もまた通り過ぎていく人。


シンと静まり返った部屋。

自分から次がない事を仕向けたはずなのに、いざ1人になると思いは裏腹に寂しさがこみ上げてしまう。

この矛盾した気持ちを飲み込むのも、もう何度目になるのだろうか。

飲み終えたコーヒーカップと換気扇の傍に残されたタバコの吸い殻が入った灰皿が静かな部屋に存在感を放っていた。

私はかき消すように片付けを始めた。


台所の隅に先輩が忘れて帰った緑色のタバコの箱を見つけた。

マルボロのメンソール。

見覚えのある箱を手にして、ある風景を思い出した。


大きな手と長くて細い指

深く、ゆっくり吸い込んで吐息を吐くように細く煙を吐き出す。

その風景はいつも私の隣に居た。

見つめてる私に気づいて照れながら笑う。

それを見るたびに幸せな気持ちになって一緒に隣で笑う。

その時間が愛おしかった。


あれからもう少しで1年になるだろう。

あれほど愛して、縛って泣いた毎日。

顔がぱっと思い出せないくらいにその傷は癒えている。

「はは。忘れられてじゃん私。」

何時からか考える時間を止めていた彼の事を思い出す。

あの時に置いてきた愛という名の感情が胸の奥で暖かく小さく燃えているのを感じた。



あの人の隣には今心から愛する人がいるのだろうか…

愛に素直に生きているのだろうか…


そんな事を思いながらゴミ箱の蓋を閉めた。




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