魂を殺す愛の接吻(キスキル・リラ)

 曰く、イナンナはかつて楽園に一本の木を植えた。

 その木を材料として、神の権力を象徴するものを作り上げて世界を支配しようと企てた。そうすれば、自分が一人ぼっちでいなくて済むと考えたからだ。

 しかし木を育てていくうちに枝にヘビが棲みつき、木の天辺には聖獣アンズーが巣を作り、根の底で彼女が――がキスキル・リラ棲みついた。

 しかしイナンナは兄妹神ウトゥに頼み、それらを追い払うことで兄を含めた他の神々と同じ領域に到達することができた。

 故にリリスからしてみれば自分を棲家から追い出した張本人であり、現代に転生してもイナンナを飼うユキナに協力などするはずがなかった。

 故に殺され、食われた。抵抗虚しく、悪霊としての力を冥界の力に対する対抗策として利用されてしまったのだった。

「“夜に潜む女の霊キスキル・リラ”! 力を寄越しなさい!」

「お願い、女王様」

 二人同時に跳び上がる。ユキナの翳した手の遥か上空で暗雲が立ち込め、青雷が唸り始める。

「“大地は天を恐れ敬い信仰すグガランナ”」

静謐なる冥府にて轟く雷鳴が一つタザハァフ・フゥル・ミン・バラドゥ・マラディ戦慄する亡霊は灰燼の如く散らされるのみラクラット・アスバフ・アルティ粘土の大地は蹄鉄にて砕かれるヒィディラ・ワサハーク・アッラード・アルジャァファティ

 全神話形態詠唱――?! 私と力で張り合う気?!

大地を害する荒ぶる牡牛ハドゥハァ・アルウラ・ムラディフ・リッタディミア――その名をアシムゥハ……“破壊と旱魃の化身グガルアンナ”!!!」

 大地より、巨大な赤い瞳が開く。星そのものが叫んでいるような怒号が轟き、イナンナの牡牛と同格のエレシュキガルの牡牛が大地より姿を現した。

 地上の牡牛と天の牡牛。

 神の番たる二頭が呼応して、星そのものの悲鳴と怒号に変わって啼く。

 天からの霹靂。大地の地鳴り。天地に分かれた星そのものが、喧嘩しているかのようだ。

「まさかと思うけど、同格の神格なら私と張り合えると思ってない? もうイナンナと同質の私と力比べだなんて――!」

「だからこその神話形態詠唱だよ。現代の言葉で翻訳するよりも言霊の霊力が霊術に乗りやすいからね。これで君と張り合って見せるさ」

「そんな付け焼刃で、私に敵うと思わないで!」

 ユキナの怒りが霹靂へと変わり、天の牡牛は蹄を突き出す。怒号と雷轟。天を埋め尽くす音の暴力が爆発を続け、跡形も残さない破壊を警告、宣言していた。

「粉々に踏み潰しなさい! 天の牡牛!」

「天を突け、大地の牡牛……!」

 ミーリの霊術もまた吠える。

 大地讃頌。冥府の深淵より、星の核を流れる力がミーリの霊術へと注がれて、力を受けた牡牛の角は赤赤とマグマのように燃え上がって光る。

 この星を生かす力のほんの一部にして、人間からしてみれば途方もない厖大な力が集束。天の牡牛が落とそうとしている蹄に向けて、鼻息を荒くして構える。

「仰ぎなさい! “女神の後光にひれ伏せ大地アルサァマ・アルズィアルクァ”!!!」

「その足を地につけよう。“女王の威光に傅け天空アルアンフ・アジャミフ・アルダヒ・ヤェデフィ・アルサァマ”!!!」

 天から落ちる蹄鉄。大地から伸びる角。

 双方に集束された力の塊が衝突し、世界は静寂に包まれる。

 厖大に過ぎる力と力が衝突して訪れた無音の世界。すぐさま同じ力によって、静寂の世界が破壊される。暴力的な爆発音。天地を引き裂き、破壊という単純明快な力がただ爆発する。

 もはや人が今まで耳にしてきた音という概念すらも崩壊するほどの、鼓膜が木っ端微塵に砕け散るような破壊が訪れて、星全体が終焉のときと勘違いする。

 ただひたすらに破壊が連鎖し、永久に終わらぬ破壊によって生物の終焉が訪れるとさえ勘違いした星は、一時的に活動を休止し、勘違いだとわかるとすぐさまに起床。反動で火山が三つ噴火し、海が二つ割れ、中央大陸が四つに砕ける。

 天変地異の果て、人類が生き残っているのが奇跡とさえ思える状況で、神を宿した二人だけが相手を見据えて跳びかかっていた。

 跳び蹴りを躱して潜り込み、振るった槍が顎を撃ち抜く。舞い上がったユキナに追撃しようと肉薄して、即座に態勢を立て直して繰り出された回し蹴りに顔を蹴られて全身が捻れて回り、さらに胸に追撃の蹴りが落ちる。

 大地に叩き落としたミーリへと踵落としを繰り出して落ちるユキナもまた、すぐさま体勢を立て直した直後の不意打ちに横腹を抉られ、薙ぎ払われた。

 地面に爪を立てて止まるが、瘴気をまとった槍の石突にコメカミを殴られて潰される。衝撃が強過ぎて脳が揺れ、判断力が鈍ったところにミーリは畳み掛けて来た。

「……レィ……デ……ブィ……」

 次なる霊術の発動のための詠唱を呟きながら、ミーリの槍が風を切ってユキナを襲う。

 脳を揺らされて判断力を鈍らされたがためか、風切り音に詠唱が掻き消されて聞き取れないのか、ともかくユキナの反応は遅く、対応し切れていない。押すならば、今しかない。

「ロン、ごめんね」

『気にしなくて大丈夫。さぁ、行きなさい!』

「――冥府の力を、聖槍に」

 神の子の脇腹を穿いた聖槍が穢れる。漆黒の光を反射させ、聖と邪、双方の力を混ぜ合わせて成立させた槍が力を放つ。

 この状態の聖槍に名はない。ミーリは名前を与えなかった。

 名前を与えれば、それは正真正銘の力として世界に確立される。ユキナを倒せる決定的な力になるやもしれない。その可能性がある。

 だが、本来純粋な聖槍である死後流血ロンギヌスの槍に正反対の力である冥府の瘴気を付与するとなると槍に――ロンゴミアントに負担がかかる。本人は何も言わないが、とても辛くキツいはずだ。

 だから名前を与えなかった。

 いつしか、必ずミーリ・ウートガルドはロンゴミアントを残して逝くだろう。そうして残された彼女は消え、記憶を失くして誰かに召喚されるときが来る。そうなったとき、その人がこの力を使って彼女を苦しめることがないようにしたかった。

 名前を与えて確率させてしまえば、それは原理さえ理解できれば御し得ないはずはない力となって彼女の能力の一部として追記されるだろう。そうなれば、使い手が力を使う度に彼女は苦しむこととなる。

 そうならないように後継を決めておいてもいいかもしれない。だが、託し託され続けていった伝承も、神話のようにいつかは途絶える。誰かがどこかで間違える。

 どれだけ今の人間が祈ったところで、未来の人間が応えるかなどわからない。

 故に信じていないのではない。むしろ信じているからこそ、聖槍にこのような邪悪で、過ぎた力を残したくはなかった。

 もしも召喚されるのなら、それこそ神と人の戦いが終わった頃に、物好きな人間に愛されるべく召喚される、なんてときがいい。そんな未来を作ってくれることを信じて、この力は今このときだけに使い尽す。

 故にこの瘴気、冥府の力を以てなせる技のすべては己の名に刻む。

「さぁ、冥界下りの時間だ。イナンナ……!」

 刃に瘴気を集束。漆黒の中でもさらに光を反射しない黒を刃に湛えて斬りかかる。コメカミの傷も治り、脳の震動からも回復しつつあることはわかっているが、逃げ場など与えない。

 ここで仕留める。

 肩から胸にかけて一閃。

 体を捻って胴体を割る一閃。

 手首を捻って斬り返し、脇から反対側の首下にかけて一閃。

 反撃を試みて伸ばされた手を石突で弾き、その勢いで脚の付け根から肩にかけて縦に一閃。

 今度は逆に体を捻って回転し、回避しようとしたところに腹を両断する一閃。

 次の攻撃を見切ろうと、無理矢理向けられた視線を眼球ごと両断する一閃にて潰し、最後に胸を貫く。

 七つの斬撃すべてに冥府の瘴気を籠めた必殺の連撃が、すべてユキナの体に刻み込まれた。

「力の名はクル・ヌ・ギア! 司るは死! 抜ければ不敗の神とて腐敗する七つの門! 魂を地上へと返さぬ不帰の国に、汝の魂を縛り上げる! 代行しろ、七つの斬撃! 冥府の女主人に代わり、今、刑を執行す!」

 漆黒を失った聖槍を手放し、脚で空高く蹴り上げる。

 黒く染まった両手の指より伸びた瘴気がミーリの霊力によって糸のように伸びてユキナを縛り上げ、いつの間にか足元を蹂躙していた瘴気の中へと引きずり込んでいく。

「“女神の冥界下りイルシタル・ラ・タリ”!!!」

 ミーリが糸を引くと、ユキナは瘴気の中に引きずり込まれて消え失せる。

 瘴気が消え、エレシュキガルの力を使いきったミーリが下の姿に戻ったとき、ユキナの霊力はまったく感じられなかった。

 大技の連発はさすがに堪える。襲われる疲労感に耐え切れず、両膝を突く。

 だが終わったのだと、自分に言い聞かせる。これで終わりだと言い聞かせて――

「最後に他の女の名前を呼ぶなんて、嫉妬で狂いそうよ。ミーリ」

 颯爽と、立てたフラグを回収された。

 “神出鬼没ラスライオス・ヴィマタ”。

 オリンポス一二神、ヘルメスを殺して手に入れた力。。まだ隠し持っていたなんて。

 以前一度見たことがあったのに、警戒を怠っていた。

 背後から抱き着かれて、締め付けられる。体力の消耗が激しく、抜け出せない。

「おかしいなぁ……ヘルメスの霊核、潰したと思ってたのに」

「あれもまた死に繋がる力。エレシュキガルの力には耐性がある。もっとも、今の攻撃で完全に砕けたけれど。私にはこの一回があれば充分。最後に、魂をとろかす口づけをあなたに刻めさえすれば、神様なんて使い捨てにしても構わないもの」

「それって俺を殺すって意味?」

「それ以外の意味に聞こえた?」

 ミーリの脚、腕を地面から伸びてきた木の根のようなものが縛って固定する。

 キスキル・リラがかつて棲家としていた樹の根か。だとすれば、人の力で抜け出せるようなものではない。

 神であることの証明になる装飾の素材になり得る世界樹だ。人間の理解など、遥か超越した存在である。人間の膂力が及ぶわけがない。

「その霊核も魂も、全部全部とろかしてあげる。大嫌い、大好き――」

 “魂を殺す愛の接吻キスキル・リラ”。

 ユキナの柔い唇がミーリの唇を食む。

 ミーリの体は毒を飲まされたかのように指先から麻痺していき、体の自由を奪われる。抵抗を試みようと霊術を紡ごうとしていた指も次第に力を失い、霊力を這わせることさえできなくなっていく。

 やがて彼女の舌が口の中に侵入して来て、舌と舌を絡ませ舐め回す。

 舌を刺激する甘みと苦みが、意識を巡る脳まで届いて痺れさせ、抵抗の術を考えることさえ許さない。意識は溶け落ち、舌同士が絡む快感が全身を貫く感覚をただ感じるだけ。

 霊力の源たる魂もまた、接吻の快感と甘みに溶かされていく。

 愛のままに我儘に、魂さえも溶かすユキナの霊術がミーリを殺そうとしたそのとき、ユキナの体の中で小さな力が駆け巡った。

 頭が張り裂け、弾け飛んでしまいそうになるほど痛み、霊術どころでなくなったユキナはミーリを突き飛ばして二歩三歩とフラつきながら下がる。

 同時にミーリを束縛していた世界樹の根は腐り落ち、先ほど霊術のため上空へと抛られたロンゴミアント渾身の踵落としが二人の間に堕ちて土煙を上げて視界を封じ、ミーリに後退する機会を与える。

 ミーリを逃してしまったことも合わせ、逃してしまった原因にユキナは舌打ちする。苛立った様子で自らの頭を叩き、歯を食いしばりながら唸った。

「あの鎌……! ホント、忌々しい霊術を残してくれたわね!」

 死神の呪い。本来なら生物に即刻死を与える霊術が、ユキナを殺すべく脳へと手を伸ばす。

 持ち前の厖大な霊力にて阻害しているものの、永遠には続かない。霊力は消耗を続けるばかりで、この戦いの中補充する術もなく、ユキナの命はカウントダウンに入り始めていた。

「ありがとう、リスト……君の想い、無駄になんてしないよ」

「――! ミーリ! あなた、目が……」

 時計を宿していない方の目が抉り取られ、ボタボタと血を溢れさせていた。

 吸血鬼の力で眼球は再生するものの、繰り返し再生したせいか、映る光の具合が鈍い。

 クローンの細胞劣化と同じなのか、純粋な吸血鬼でないために回復し再生された箇所がどんどんと衰えているらしい。右眼は、もうほとんど見えていなかった。

「ミーリ。これを……さっき、お師匠さんから預かって来たの」

 リストの眼帯。

 ミーリに勝機を与え、今に至っては助けてくれた鎌の眼帯。面白おかしく、彼女といる時間はとても楽しかった。

 腰には勇猛にして勇敢なる魔弾の帽子。

 上着の内ポケットには不思議で愛いらしい盾の髪留め。

 みんながみんな、命を賭して繋げてくれた。この戦いを終わらせるため、そして主を助けるためにと、命を張ってくれた。ミーリ・ウートガルドの自慢の武装たち。

「ありがとう」

 眼帯にて右眼を覆う。わずかにしか見えない目に頼って不意を突かれるよりは、左眼に頼ってしまった方がいい。

 最初は少し恥ずかしくも感じていた逆さ十字も、今となっては自分のために戦ってくれた死神の鎌の勲章。彼女の繋げてくれた意思を絶やぬためにも、負けるわけにはいかない。

「負けられないね」

「そうね」

「ロン、お願い」

「えぇ……ねぇ、ミーリ?」

「うん?」

「――大好き」

 頬を朱色に染めて、照れ恥ずかしそうな満面の笑みからミーリを抱き締めて口づけする。

 顔にかかる熱い吐息。甘く湿る唾液。ユキナに奪われ、麻痺していた体が熱と力を取り戻し、ミーリもまたロンゴミアントの頭を抱き寄せる。

 甘く、甘く、とにかく甘くとろける濃厚な口づけによって、温かな力が全身を巡る。

 何より体の自由を痺れさせて奪っていた呪いを溶かし、解いていったのはロンゴミアントの愛に満ち満ちた言葉だった。

 嵐のような呪いによって乾ききった魂が、愛の言霊によって潤いを取り戻していく。同時に取り戻した力で目の前に浮かぶ聖槍を掴み取り、時計盤を映す左眼にて苦しむ少女を見下ろした。

「その憐れむ目は何? 私がそんなに憎い? その子達を殺すきっかけを作った私が憎いの? 安心して。その槍も他の武装も神様もみんな、みんな殺してあげる! あなたの側には私だけ、私の側にはあなただけいればいいんだもの!」

「それは、孤独と同じだよ」

「違う! 私達は常に隣に温もりを感じ続けて生きるの! これ以上ない幸せでしょう?! 私達は、それをずっと求めてきたはずでしょう?!」

 言えなかった。

 彼女にはなくとも、自分にはもうあるのだと。

 君と戦うために積み重ね、費やしてきた時間の中で、自分はいろんな人たち、神様、武装と繋がりを得ることができた。

 君がその繋がりを壊そうとしているんだよ――そう言えば、彼女が激昂することはわかり切っていた。

 どうして私を置いてあなたばかり。そう、怒りに震えることはわかっていた。

 彼女の自業自得だと言い切って、切り捨ててしまうのは容易い。彼女が自分以外の誰とも繋がろうとしなかったが故の結果なのだと言ってしまえば、自分はどれだけ楽になれるだろう。

 だけど楽になれるのなんてほんの一瞬で、彼女も自分もその後永遠に苦しむのなんて火を見るよりも明らか。

 故に、今のミーリはユキナを殺すことではない。殺すは殺す、だが――

「“槍持つ者の突撃ロンギヌス・ランス聖釘ゴルゴタ”」

 突撃を仕掛けたミーリの左目が映す時計の針が、逆方向に回転する。

 歯車が回り、秒針が時を刻む音が脳裏に逆再生されて、記憶の中の光景まで巻き戻される。

 自分に殺され、霊核を吸収されることを悟ったキスキル・リラが恐怖に慄き、自分に協力すると命乞い無駄話を始めたときにまで遡って、そして斬れた。

 記憶の中のキスキル・リラが、突如真っ二つに切り裂かれる。直後、現実に戻ったユキナが感じた途方もない虚脱感は、自身の中のキスキル・リラの消失を感じて戸惑った。

「まさか、過去を改変した、の……?」

 ユキナ自身に傷はない。彼女の背後で槍を構えるミーリは、息を切らして滴る汗を振り払う。

 体力と霊力を大幅に、一挙に消耗したことで脚が震える。だが倒れるどころかフラつくことすらなく、汗に塗れた笑顔で振り返る。

「魂を吸い取られるキスなんて魅力的だけど、それで殺されるのはごめんかな。愛されてる以上に憎まれてる相手からのキスなんて、怖いでしょ?」

「ミーリ、あなた……」

「まだ隠してるのなら今のうちに晒しておいてね、ユキナ。でないと神様じゃなくて、君の魂殺しちゃうよ」

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