二人だけに約束された果ての楽園
太陽は東より昇り、眩い限りの光で世界を照らす。
故に東の果てにあるあの楽園は、世界で最も輝ける場所。しかしそこには知恵を持つ人間も神もなく、神話の箱舟にて救い出された、今を生きる生物の先祖にあたる原種が暮らすのみ。
そして中央には、かの有名な二つの木が並んで生えている。人は、それらのうち片方の木からなる実を口にしたことで知恵を得た代わりに死を約束され、楽園を追い出された。
楽園を管理する神は恐れたからだ。もしもこの二人がもう一方の果実まで口にしたとき、自分達神の領域にまで至って、神々の座は危ぶまれるのではないだろうかと。
だが人は禁断の果実を口にしたことで不死性を失い、生きることに苦しみを感じる存在となった。万能の神が危惧するには、杞憂ではないかとさえ思えるほど小さな存在に成り果てた。
だが楽園を管理する神は知っていた。
もしも
己の考えの下で善悪を区別、判断し、自らの力で以って断罪、救済することができる存在を世界では神と呼ぶ。人がその領域へと至ったとき、古き神々を脅かす存在にならないと誰が断言できようか。
私は、そう考えた神に言おう。
まったくもってその通りだった。あなたの危惧していた事態に、彼女は脚を踏み入れたと。
正直、私自身もここまで彼女が神々を凌駕し恐怖させる存在になるとは思っていなかった。体を乗っ取って完全復活するまで、こんなに時間がかかるだなんてまるで思っていなかった。
彼女は正真正銘の化け物だ。知恵の果実も生命の果実も、彼女自身口にしたわけではない。
なのに神の権能を弄ぶように自在に操り、神の不死性を限界まで引き出す術を見出し、実現して見せた。生命の果実など必要とせず、未来に起こりうる自身の死に関する可能性を一つ一つ否定し、拒絶し、破壊することで己の死を遥か彼方へと遠ざけることで仮初の不死性を獲得した。
人間でありながら人に戻らず、神へと昇華しつつある彼女はすでに、かの神が懸念していた存在へとなりつつある――いや、もうすでになっている。
ユキナ・イス・リースフィルトは女神イナンナによる侵略も侵食も許さず、むしろ女神を蝕み侵食し、体を乗っ取るため渡していた権能からさらに力を引き出し、簡単に操ってしまう怪物だ。リリスも逃げ出す化け物だ。
何せ人間を遥か凌駕して、神さえ引くほどに狂ってる。
「ミーリぃぃ、ミーリぃぃぃ……酷いよぉ、酷いよぉ」
大粒の血涙を流して泣きじゃくる。
子供じみた所作なのに赤黒い血涙のせいでおどろおどろしく、猟奇的に見える。何より恐ろしいのは血涙に塗れた血眼の中で光る黄金の虹彩がずっと、ミーリを捉えて離さないことである。
眼差しと呼ぶには鋭すぎる眼光は恋人や親に構って欲しくて甘えて向けるものではなく、裏切られた妬みや嫉みから来る殺意そのものだった。
足元に滴り落ちた血涙が蒸発し、赤い蒸気を発する中でフラフラと揺れ動く彼女の声色もまた、段々と哀しみから怒りへと変貌を遂げていく。
「私はミーリしか
血の蒸気を全身に絡ませて跳びかかり、回し蹴りを繰り出そうと振りかぶる。
だがユキナの脚が届くより先に、ロンゴミアントの武脚が頬を抉る。速度では敵わないものの、ユキナにはないリーチの差で届かせて蹴り返したロンゴミアントは、短く浅く息を吐き出し、すぐにまた浅く吸い込んだ。
「ロン、上手に出来てるよ」
「でもちょっと息苦しいわ。慣れるにはもう少し時間が必要ね」
ロンゴミアントが繰り返しているのは、昔ミーリがスカーレットを師事してまもなく教えられた戦闘中の基礎的膂力を補助する呼吸法。
呼吸によって筋肉や臓器、血液の巡りを操作することで体力や走力、持久力などを一時的に底上げできるというもので、鍛錬を積めば大抵の人は体得できる技術だ。
霊力による身体能力強化の術が生まれるとほとんどの人がやらなくなったため、今となっては忘れ去られた技術だが、武装であるロンゴミアントが前線で戦うには必要な技術。故にミーリに教えてもらい、庭園移動中からずっと練習を続けていたのだが、ちゃんとした成果が出ていることに安堵しつつ、迂闊に吐息を漏らさぬよう心掛ける。
そんな武装のいわばにわか仕込みの技術で撃ち込まれた蹴りを喰らったユキナは、着地すると口の中でジワリと滲む血を吐き出して金色の光をまとう。
「“
流星の速度でロンゴミアントに向かって一直線に飛ぶ。先とは比べ物にならない速度で突っ込み、風穴を開けるつもりだったがそれよりも先にロンゴミアントは槍へと変わり、攻撃を躱す。
反転、旋回したユキナが再び突っ込む。槍はミーリの手の上で踊り、体を滑って握られる。
あらゆる方向、あらゆる角度からの攻撃がすべて防がれ、真正面からの真っ向勝負を挑むユキナの蹴りを石突で突き勢いを殺し、槍を躍らせて宙に浮くユキナの一瞬をついて払い落とす。
すかさずユキナの反撃がミーリの顎を打ち抜くが、手から離れたロンゴミアントは再び人の姿を取って、ユキナの届かない間合いの外から蹴り飛ばした。
転げた地面を蹴って跳び、着地したユキナは震える腕で地面を叩く。
「邪魔をしないで! 私とミーリの世界に入り込まないで! たかが武装の分際で、たかが物の分際で、人の問題にないはずの首を突っ込まないで!」
「だったら私にも関係あるわ。だって、私の主とあなたの問題だもの。いついつだって主の味方をするのが、武器ってものじゃない?」
神々の娯楽と人間の霊術とで人間と同じ意思と体を持っただけの武装が、自分よりも豪く饒舌なことに腹が立つ。
知恵の果実を食べたのは人間で、本来彼らは意思も知恵も持たないただの暴力。口答えなどできるはずもない物に、何故こうも言葉で苛立たされるのか。
彼女の得意げな笑みも、彼女を信じて隣に立つミーリの笑みも、何もかもが気に入らない。ミーリ・ウートガルドの隣は自分の場所であり、彼の笑顔も自分のもの。
なのに今、すべてを彼女が持っている。人に持たれるだけの存在が、自分にはないものを持って誇っている。故に腹が立つ。分不相応という言葉すら、彼女には過ぎる文句。たかが武装には、罵詈雑言すら不要なはずなのに――
「っ、っ、っっぁぁぁあああああ!!!」
再び流星の速度で突っ込む。だが冷静さを欠いて単調になった攻撃は躱すのも防御するのも容易く、槍を握ったミーリにかかればカウンターで先ほどのお返しに顎を打ち抜き、蹴り飛ばすなど造作もなかった。
「落ち着いて、ユキナ。理性を失くして突っ込んでも無駄だって、さっき自分で言ったばかりじゃんか。それに、ロンはもちろんもう誰もこの戦いに無関係なんかじゃないよ。俺達は身勝手に、自分達だけでつけなきゃいけない決着に世界を巻き込んだんだから」
「知らない! そんなの知らない! 私はミーリと愛し合うためにここまで来たの! そのために邪魔な人達を
ミーリは無言で首を振る。
槍を手首を軸に回して改めて握り直して構えたミーリの意匠は、鮮血色の吸血鬼から漆黒、純黒の装いへと変貌を遂げ、紫の聖槍もまた漆黒に染まる。
冥府の婦人――エレシュキガルの瘴気を身にまとって、漆黒に変色を遂げた虹彩の中で金色の時計が針を進め続ける。
「俺達はずっと盲目で、ずっと視野が狭くて、ずっとお互いのことしか見てなかった。見えてなかった。だけど俺の回りはみんな、俺を信じてくれた。頼ってくれた。死ぬなって、自分から巻き込まれてくれた。だからさ、もう俺は俺だけで出来てないんだ。自分のためだけに、君だけのために戦えないんだ」
「わからない、わからないよ……」
「そうだよね……俺だって、一人じゃわからなかった。気付けなかったし、この戦いで死ぬつもりだったよ。だから今、わかってないのはわかる。君にも君を止めようとしてくれる人がいればよかったのに。みんながみんな君を持ち上げて、突き進めちゃったから。だから、わからないのは仕方ないんだ」
「嫌だ……イヤ、いや……」
ボロボロと、涙を零す。
血涙ではなく、透き通ったしょっぱい涙が、大粒でボロボロと零れ落ちる。
零れ落ちる涙で濡れる地面とは裏腹に、ユキナの中の世界が、思い描いていた二人だけの場所の理想像が渇き、亀裂が入って砕けていく。
槍を握るミーリの手も、悲しみから震える。
彼女を止めずにいたのは自分も同じだ。彼女と愛していると言いながら、やめようと言えなかった。止まってくれと言わなかった。
彼女を世界の敵にしてしまった最大の要因は、紛れもなくおまえだと、自分自身が責め立てる。込み上げる後悔はひたすらに、とめどなく溢れ出て、
だからこそ、彼女を止めるのはミーリ・ウートガルドの役目。
彼女をこれ以上汚さないためにも、彼女と言う人間を歪ませないためにも、ユキナ・イス・リースフィルトはミーリ・ウートガルドが倒す。
それがせめてもの、今の彼女に対して自分が果たさなければならない責任。今まで無責任に放っておいたから許してはくれないだろうけれど、それでも、彼女を救うには、彼女を止めてあげるには、もうこれしかなかった。
「俺が言えばよかったんだ。俺が止めて、戻してあげればよかったんだ。もっと違う解決策を考えようって、言えればよかったんだ」
けれどそれだけ、俺は
「ごめんよユキナ。俺はもう、君だけのために、俺だけのためには戦ってない」
「……“
『ミーリ』
「うん、やっぱり持ってた」
いくらイナンナの神性が高いと言っても、同じだけ神性が高く、また唯一の弱点とも言えるエレシュキガルの瘴気を浴びてダメージが酷く落ちているのはエレシュキガルや彼女の力を借りて戦った
イナンナ含め、ヘルメスら多くの神を取り込んだユキナのことだ。逆に取り込んでいないはずがない。エレシュキガルと同じ、冥府に住まう属性を持つ神の核、死の瘴気を放つ霊力を。
神の名はキスキル・リラ。またの名をリリス。悪魔サタンの妻にして夜と嵐を司る女の悪霊。そして、楽園にイナンナが植えた世界樹の根に棲みついた山羊の魔神。
彼女を取り込んでいたからこそ、ユキナはエレシュキガルの瘴気にある程度の耐性を得ていたのだろう。毒を以て毒を制すまではいかないが、同じ力にて緩和していたようだ。
「行かせない! 行かせない! あなただけを置いては行かない! あなただけを行かせない! 私達は愛し合うの、愛し続けるの! 二人だけの楽園! 約束された果ての庭で、私達は永遠を誓うの!」
死の瘴気をまとった二人が、改めて交錯した。
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