希望の序章

 ユキナは恍惚と、人型大に大きく膨らんだ、黒い蕾を厭きることなく見つめていた。

 中には、アンラ・マンユによって捕らえられたミーリ・ウートガルド。

 アンラ・マンユによって霊力を抜き取られ、抵抗することができずにその蕾の中で眠っているミーリの姿を想像して、ユキナは興奮した様子で蕾に頬を擦り付け、中のミーリを愛撫した。

 アンラ・マンユは蕾の隙間から液体となって溢れ出し、漆黒のセーラー服を身にまとった成長した姿を形作る。蕾の中のミーリの霊力を吸ったらしく、さらに霊力に満ち満ちて、邪悪な霊力を体から走らせていた。

「どう? ママ。殺せと言われたけれど、いい考えでしょう?」

「最っ高よ! あなたには別の角度で期待してたけど、これ以上のことはないわ! ミーリを私のものにできるのですからね! はぁぁ、早く出て来ないかしら!」

「フフ、喜んでもらえて嬉しいわ。じゃあ私、人間達の相手しないといけないから。そこから出て来たときにはもう、魂の書き換えは終わってるはずよ。新しい彼氏とイチャイチャしてね、ママ」

 アンラ・マンユは颯爽と飛び降りて、その場から姿を消す。

 残されたユキナは蕾に全身を委ねると、我が子を撫でるように愛撫した。

 そこに、どこからともなく太公望たいこうぼうが飛んでくる。

「ユキナ様」

「ミーリがいなくなった軍はどう?」

「大将を失い、動きが明らかに鈍くなりました。先ほどまであなたを襲っていました狙撃も止まりました故、一度空中庭園に全員が引っ込んだと思われます」

「……あぁ、そういえばそうね。ミーリに夢中でまったく気付かなかったわ」

 というかそもそも、絶えず自分を襲ってきていた弓矢の狙撃すら赤子をあやす程度にしか相手にしていなかったユキナにとって、どうでもいいことなのだろう。

 止んでいたことに気付いてなかったというより、今まで撃たれていたそれが攻撃であることに気付いていなかったとすら取れる反応に、太公望は恐れながらも頼もしさを抱いた。

 まぁ、悪魔にダエーワの群れに悉くヘッドショットを決めていた、必中かつ貫通力のある矢を片手で受け止める、もしくは弾きながらあくびしていた彼女の様子を見れば、頼もしさを抱かずして何を抱くかという問題ではあるが。

「まぁいいわ。ここからが見どころね。大将が捕まった軍がどれだけ結束できるかしら? ミーリも私も、良くも悪くも人を束ねるカリスマがあると自負しているわ。私にとってのあなたやスサノオのような存在……軍を仕切れるほどのカリスマを持つ人材が、向こうにはいるのかしら」

 と、ユキナがいたずら小僧のような笑顔を浮かべている頃、空中庭園では混乱が起こっていた。

 最強と思われていた大将が敵に捕縛されて不在。指揮系統を大将一人がやっていただけに、ミーリ・ウートガルド率いる神を討つ軍シントロフォスの面々は、混乱で次の一手を導き出せずにいた。

「すぐに救出体を組んで向かうべきだ!」

「相手はあの怪物をも捕らえる人類悪だぞ。我々が行ってどうなる」

「だがこのままでは……!」

 ユキナの狙撃をやめて戻って来た空虚うつろが猛抗議するが、セミラミスは首を横にしか振らない。

 実際に空虚自身、ミーリですら敵わなかった敵に、それも人類悪に敵うだなんて思えていなかった。隙を見て共に逃げるくらいの策しか、思いつかない。

 ならば魔神ではなく純粋な神、と思ったが、今ここにはいない。

 武神ドゥルガーに聖剣女王アンブロシウス。さらに熾天使ルシフェルの現状で考えられる最高戦力は、今はオリンポスの天空神殿、ドードーナにいた。

 玉座の間にて、高笑い、嘲笑う雷帝ゼウス。その側で、妻であるヘラは若干呆れたように吐息する。

 その目の前に、ドゥルガーとアンブロシウス、ルシフェルがいた。

「見たか?! 貴様らの大将があっけなく捕まったぞ! とんだうつけだったなぁ!」

 ゲラゲラゲラゲラ、ゼウスは笑いが止まらない様子だ。

 ヘラが咳払いして止めなければ、永遠と笑っていたかもしれない。

 だがその笑いは決して面白いからではなく、呆れ返って笑うしかないのだと、ドゥルガーらは彼の目を見て悟った。

 人類悪を倒せる唯一の人間と思って送り出したというのにこの始末。

 祖師谷樟葉そしがやくずはがいなければ、アエシュマ一体にも苦戦していたミーリの不甲斐なさに、雷帝は笑いでもしなければ、まったくもって情けない結果を受け入れることができなかったのだった。

「やってくれたなぁ、神を討つ軍。人類悪も討てずに天の女王が討てるものか。やはり我らが手を下すことになったな。まぁ、人類悪は倒して欲しいものだったが」

「まだ捕らえられただけ、死んではおりません。名誉を挽回する機会はいつでもあるかと」

「すでに名誉など返上したようなもの、ここからの挽回などできるものか。あれがなんなのか知らないのだろう、武神。あの花はアンラ・マンユの霊力、“黒花静召ホゥワルタク・アパスターク”。アンラ・マンユが新たな眷属を生むために閉じ込めた者の霊力を空にし、代わりに自身の霊力を流し込む恐ろしい霊術よ。そしてあれを解除する方法は、アンラ・マンユを倒す他ない。その術を持たぬおまえらに、止められはしまいだろうて」

 表情こそ笑っていれど、ゼウスの目には、一切の笑みはなかった。

 今語ったアンラ・マンユの能力に偽りはないと、その目は語っている。

 そして同時、問いかけている。どうやってミーリ・ウートガルドを助け出すつもりなのだ? と。

 その問いに一歩出て答えたのは、アンブロシウスだった。

 天空の支配者、雷帝ゼウスに一ミリも臆することなく、聖剣王アーサーを仕立てた彼女がこれまでに相対して来た妖精や魔物とは明らかに格が違う存在であるにも関わらず、それでも雷電を絶えず走らせる雷帝に、臆することなく堂々と踏み出した。

「雷帝に一つ、質問をしたいわ。あの花、解除するにはアンラ・マンユを倒すしかないのですね?」

「左様だ。なんだ、我が虚言を申しているとでも思っているのか?」

「いいえ? 私はただ、確認しただけです。そう、という事実をね」

「それでどうなるというのだ。何か策でもあるというのか?」

「えぇ。もっとも、策と呼ぶには策として成立してないので……そう、奇策と呼ぶに相応しいですけどね」

「ほぉ、奇策とな? よい、その奇策とやらを話してみよ。なんだかおもしろそうだ」

 と、今度は本当に面白そうという好奇心から訊いてくる。

 隣のヘラが悪い癖が出たとでも言わんばかりの溜め息を吐くが、ゼウスにそれを気に留めるような様子はない。

 アンブロシウスもまた躊躇する様子はなく、かといって雷帝のご機嫌取りのために答える様子もなく、ただ質問されたが故に答える。

「アンラ・マンユを倒さないと解除されないのなら、アンラ・マンユが倒されない限り解けることはないということ。ならば。ミーリくんには、悪いけれど生贄になってもらう」

「ミス・アンブロシウス?!」

 アンブロシウスが言い切り、ドゥルガーが訊き返す。

 その直後に轟くゼウスの雷霆と笑い声。隣のヘラが何やら静かなことなど気にも留めず、ゼウスはただ高笑った。

「それがか! それが貴様の言う奇策か?! 随分と非情ではないか、聖剣王の元祖! それが英雄と呼ばれたおまえの奇策なのか?! 奇策だな! 確かに奇策だ。同時に傑作だぞ!?」

「そうですね、我ながらいい策だと自負しております。何せ、人類が人類悪を倒す策を思いついてしまったのですから」

「……何?」

 ゼウスの笑いが、唐突に止まる。

 止めたのは確実に、今のアンブロシウスの発言だ。

 故にアンブロシウスは自身が繰り出した真の奇策。その神髄を改めて語る。

「あの花は、ミーリくんの霊力を空にした後にアンラ・マンユの霊力を流し込むと言いましたね。だけど実際には、本当にミーリくんの霊力を空にした後で流し込むわけじゃないのでしょう? アンラ・マンユの霊力が流し込まれるまえ、そこまではまだミーリくんの霊力が存在する。だって、霊力がゼロの生物は死んでいるということなのだからね」

 そう、ゼウスは空にするという表現を使ったが、実際に空にするわけではない。

 霊力とは魂の力。膂力、体力、気力、生命にとってすべての力に直結する力なのだから、それがゼロになるということは死ぬということだ。

 眷属にするのなら殺してしまっては意味がない。故に正確に言い表せば、対象の霊力を限りなくゼロに近い状態まで搾り取って、その分アンラ・マンユの霊力を流し込むということ。

 無論そこまで霊力を搾り取られれば、対象に抗う力などありはしないが。

「ミーリくんは一人じゃない。聖約を躱した吸血鬼に時空神。彼女達の霊力があれば、ある程度は抵抗できるだろう」

「……だから?」

「だから、そう、ミーリくんには、アンラ・マンユの力を、霊力を手に入れてもらいます。毒を以て毒を制す。人類悪には、人類悪の霊力を以って挑む。これ以上ない良策でしょう、雷帝ゼウス。あの花が、催眠の類で彼を操るならその可能性はゼロだった。だけど、霊力を流し込むのなら、その霊力を己が物とすれば――」

「貴様、わかっているのか?」

 ゼウスの雷霆が、その量を減らす。

 静かな空間に、パチパチと弾ける音だけが響く。

「アンラ・マンユを舐めるなよ。人類悪たる象徴は能力や霊術だけではない。むしろその霊力そのものが脅威なのだ。奴の霊術と能力の基盤だぞ。毒を以て毒を制すとは言うが、あれは人類にとって致死性の超がつく猛毒だ。人の身で耐えきれるものだと思うな」

「お言葉ですが、もうすでに彼はただの人間ではないのです。そう、すでにあの身は半神半人……それもかの英雄共々と違って、神の血ではなく神の力を受け継いだ、前例のない存在。神であって神でない、その存在に賭ける意味はあるかと思います」

「舐めるなと言っているのだ、聖剣王! ……いや、聖剣女王! あれがもうただの人間でないことなど知っているわ。だからこそ我らもあれが神を打倒しうる存在だと思い、人類悪討伐を依頼した。だが結果はこのザマ。奴も所詮は人間だったということだ。半神の英傑だろうと神に昇華された魔神だろうと、人類悪は人間である限りに呑み込んでくるぞ。そも、我ら神でなければ、あれは止まらぬ。ましてやもう呑み込まれた人間に為す術などない! 貴様、一体何の根拠をもってその可能性を見出しているのだ!」

 ゼウスが問う。

 するとアンブロシウスはまるで考えるまでもなく、さも当然であるかのように、いや当然それしかないだろうと、その根拠を堂々と言い放った。

「そう……彼が、ミーリ・ウートガルドだからです」


「彼がミーリ・ウートガルドだから。彼はこれまでも、人間では決して到達できない偉業を何度も成しています。それが彼に憑いている機械仕掛けの時空神デウス・エクス・マキナの能力が故だとしても、しかし今や彼はそれすらも使いこなしている。こんな人間が他にいましたか。だから根拠は彼が今までにした偉業の数々。彼は必ず、この状況からの逆転を成し遂げるでしょう」

 珍しく、本当に珍しく、ゼウスが黙った。

 静寂の中で、雷霆が弾ける音だけが耳障りに鳴り響く。

 そして、その静寂を破ったのはゼウスの高笑い――ではなく、予想外にもその隣のヘラの笑いだった。

 神話上、ゼウスすらも度々圧倒してみせる天空の貴婦人。人々の信仰が足りずに少女の姿で現界した今の姿でも、充分に感じられるその存在感を、アンブロシウスらは改めて感じ取った。

 ただ笑うだけで、ゼウスを超えて来そうな威圧感。

「一本取られましたね、ゼウス。あなたも彼の功績を今まで見て来たから、一時いっときとはいえ彼を信じたのでしょう? それを改めて他人の口から言われるとは、なんとも軽率でしたね。いやぁおかしい、実におかしいではないですか」

「へ、ヘラ貴様、俺を愚弄するか……!」

「はい? 何か申されました? 大体、我ら神でなら打倒しうるなどと豪語されるのなら、あなたが直々に出ればいいのですよ。本当に人類を敵に回すのなら、わざわざ彼らに宣言するような真似をすることもなかったのです。迷っているのが見え見えですよ、ゼウス」

 グゥの音も出ない様子のゼウスは、本当に言葉を詰まらせて硬直する。言葉を探すが見つからない様子で、ヘラを睨んだまま動かない。

 そんな夫に、ヘラはダメ押しとばかりに続ける。

「もう正直に話したらどうです? そもそも深信が足りずに力が足りないのは、あなたも同じでしょうに。本当はギリギリまで彼に戦闘させて、いいところを自分で持って行き深信を取り戻すのが狙いだったのでは?」

「そんなことはない! そんな鳶が油揚げを盗むようなことなど……!」

「さて、どうだか」

「へ、ヘラ貴様ぁ……」

 突然始まった夫婦喧嘩。

 だが喧嘩と言うよりはヘラが一方的にゼウスを言い負かしているだけで、なんだか二人の力の差がわかる。かかあ天下は、ゼウス夫婦も該当するものだったらしい。

 ゼウスが完全にノックアウトされると、ヘラが彼の代わりに威厳を保って。

「それで? 彼がアンラ・マンユの力を物にすると信じるのはいいとして、あなた方はただ待つばかりですか? そんなわけも、ないのでしょう?」

「無論です。ただしそうするつもりなのですが……皆が怖気づいてしまっているやも――」


「――と、思いましたが……そうね、杞憂だったようです」

 いつの間にか、アンブロシウスの肩に止まっていた黒い通信蝶。

 そこから聞こえてくる声は、ミーリ・ウートガルドの主武装、ロンゴミアントのものだった。

「救出部隊の編成は済んだ! 私達がミーリとレーギャルンを助ける! あなた達はオリンポスを引き連れて、他を頼むわ! ミーリは必ず奇跡を起こす! その奇跡の序章は、私達が開くわよ!」

 混乱の渦中にあったはずの面々をまとめたか……さすがに彼が主武装に選ぶだけはありますね

「そんなわけで、兵をお借りしますよ、雷帝陛下。まさかここまで来て、何もせず退却などという無礼もないでしょう。そうね、このままでは深信もなく、ただ威厳が削がれるだけかと思うけれど」

「き、貴様もヘラと同様の存在か……えぇい、よかろう! 我が天界兵を持って行け! 悪魔ダエーワくらい敵にもしないわ!」

「ありがとうございます。それでは我々は、悪魔掃討に参りましょう。次に会うときは勝利の時です、雷帝陛下」

 颯爽と玉座の間を後にするアンブロシウスと、彼女について行くドゥルガーとルシフェル。

 黒蝶を指先に乗せて遊ばせるアンブロシウスに、ドゥルガーは自らの懸念を語る。

「雷帝ゼウスはあのように言っていましたが、正直ただの悪魔ダエーワならまだしも、大悪魔アエシュマクラスとなると天界兵では足りないでしょう。現在悪魔の半数が大悪魔アエシュマと化している今、果たして我々だけで狩れるかどうか……」

「大丈夫よ、武神さん。そう、大丈夫なのよ。何せ悪魔を狩るのは私達だけじゃない。彼のもとに集った私達が、そう易々と負ける神のわけがないのよ。それに、そうよ? 私達が送り込まれていて、誰も口説き落とせなかったなんて、ミーリくんに――いえ、総大将に申し訳がないわ」

 三人の目の前に、現れ出でるオリンポスの神々。

 戦の女神アテナを筆頭に、オリンポス一二神の精鋭。アレス、アフロディーテ、アポロン、アルテミスの五柱が揃っていた。

「いいの? ゼウスにとっても、あなた達は切り札だと思うけれど」

「私達も、人類の深信を取り戻したいと思っている。いつかは人類を滅ぼすことになるかもしれないけれど、でも今は、まだ私達も見れてない人間の可能性を、見たいと思っている。あの彼を通じて」

「なら、力を借りましょう。アンラ・マンユは我らが大将がなんとかします。私達はあれの力の象徴……そう、アジ・ダハーカとアエシュマ本体を叩きます」

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