冥府にして地獄、しかし業火にして氷結、その女神エレシュキガル

 ミストの屋敷。

 リエンは無理をして外に出ていた。桁外れの霊力を、上空に感じたが故である。生憎と、自分が寝かされていた部屋からでは見えにくい。霊力の正体を直にその目で見ておきたくて、カラルドの制止を振り切って外に出ていた。

 そうして飛び込んできたのは、上空に浮かぶ雷を走らせる巨大神殿。その余りの大きさと溜め込まれている霊力とに、リエンは言葉を無くした。同じく外に出た玲音れおん沖田おきたも、同じく声を無くしている。

 そしてその神殿が何やら巨大になっているのを見て、リエンの背筋は悪寒を感じた。巨大になっているのではなく、そう見えているだけだと知ったのだ。

 落ちてきている。その速度は今はゆっくりだが、確実に落下していた。

 それだけの規模の霊力の塊が、高度数千メートルの距離から落ちればどうなるか。想像するのは難しい。だがわかるのは、落ちれば確実にこの国全土が焼き尽くされ、人間は生き残れないということだ。

 それを察したリエンは無理矢理自らに巻かれた包帯を切り取ると、隣にいたカラルドの手を取った。

「カラルド! 武装だ! あれを破壊する! ここに落ちてくるまえに!」

「無理です、マスター! そのお体では!」

「しかしやるしかない! 夜ではないから自信はないが……フルパワーの“絶対王者の剣エクスカリバー”なら可能性は――?!」

 リエンの体勢が崩され、転ばされる。それはリエンの脚に自分の脚をかけた、エレインがしたことだった。

「無茶言うなよ、リエン。今の状態じゃ、フルパワーの聖剣なんて自分が耐えられないって。ここは慌てず騒がず、逃げることだけ考えよう?」

「それではダメだ! 私達が逃げられても……何千何万と死ぬ! それでは意味がないのだ……意味が……」

 普段なら、それでも逃げようとしつこく口にするエレイン。

 だがこのときは違った。いつもは上に向けなければならない目線を下にしてリエンを見下ろし、上空の神殿を一瞥して吐息する。そしてその場で勝手に力尽き、寝転んでしまった。

「私は寝る。逃げないんなら勝手にやってよ」

「エレイン! おまえこんなときに何を――」

「だって逃げないんだろ? 今のリエンの力で、あの巨大物体が斬れないのは白よりはっきりしてる。だったら私は諦めて寝る。ここで無駄に力を使ったって、無理なもんは無理なんだ」

「エレイン!」

「場をわきまえてほしいなら、私が弁えるくらいに強くなってよ。ねぇ、リエン。口先だけで強くなるとか言ったって、強くはなれないんだよ? ケイオスで学んだんじゃなかったの?」

 そうだ、私はまだまだ弱い。

 ケイオスでミーリと決勝を戦ったからと言って、少し間が抜けてた。調子に乗っていたのだ。強くなっているなどと、自覚していた。

 だが実際はどうだ。不死身の悪魔に手も足も出ず、雷電の魔神にはあっさり負けてしまったではないか。そして今だってまともに動けず、なんの役にも立たないではないか。

 強くならなければならない。今よりずっと、強くならなければならない。また彼と、ケイオスの決勝で戦うためにも。今度は勝利するためにも。

 そうだ、強くならなければ。その意識を、もっと強く持たなければならない。戦場に出たら、もう次なんてないのだから。

 今回はエレインの言う通りだ。リエン・クーヴォはのぼせていた。結果負けたのだ。強い言葉など閊える立場ではない。強く、強くならなければ。

「だが……どうすれば……」

「大好きな彼に任せたらいいじゃんか。自分が無理なときは、他の誰かを頼ればいんだよ。ま、頼りすぎもいけないけどさ。リエンは、頼ってもいいと思うよ? あの、空虚うつろって子もさ」

 リエン達が成す術なく、ただ空を見上げて祈っていた同時刻。すべての命運をかけられていたミーリは、エレシュキガルに言い寄られていた。

「私と聖約を交わせばいい。いいえ、交わしなさい。あなたは、交わさなければならないの。あの女に勝ちたいのなら、私の力を使いこなしてみなさい」

「聖約って……いいの?」

 聖約。

 神と人間が交わす最上位契約。口づけによって交わされるその契約は、人間に神の力を与えるというもの。

 ただし力を与えた神は消え、死の世界――理想の理想郷アヴァロンへと逝く。かつてこの聖約でもって、ミーリは最強の吸血鬼の不死身の能力を手に入れた。

 その聖約を、この女神は今ここでしろと言ってきた。自分の命が尽きることも、おそらく承知の上で。この女神は自分の死を、なんとも思っていなかった。

 かつて地獄を支配し、死を司ったという闇の女神。その思考回路はわからないが、このわずかなやり取りでも感じ取れることがある。

 死を司り、死を操ってきたこの女神にとって、死とはそこまで遠く恐ろしい存在ではない。自らの手先で転がせる、変幻自在の粘土のようなものだ。

 故に恐れない。自らの手で手懐けた飼い犬を恐れるほど、この女神は臆病ではない。理想の桃源郷など、おそらく行きたいとすら思っているだろう。

 だが――

「君と聖約を交わして、俺にメリットはあるの?」

 地獄を支配したその力。おそらくその根源は、人間が宿す負の感情の中でももっとも底辺。狂気にも似たものに違いない。そんな力を受け止めるだけの器を持っている自信が、正直なかった。

 機械仕掛けの時空神デウス・エクス・マキナにカミラ・エル・ブラド。この二体の神だけでも、人の身には強すぎる。いわば過ぎた力だ。

 その力ですらようやく手懐けているというのに、さらに神の力を――それも狂気の力など受け取って、自分がおかしくならないという保証はまるでない。むしろ、おかしくなるのが前提条件だ。

 そんな力をもらうことで得られるメリットが、ミーリの方にもエレシュキガルの方にもまるで見えない。

 だがその疑問を吞み込んでも、エレシュキガルはケロッとした様子で首を傾げる。丸めた目はすぐにまた冷たさを取り戻し、ミーリの首筋を舐めるように顔を近付けた。

「言ったでしょう? あの女を倒したいのなら、私の力を使いこなすしかないって。神の力も武装の力も半減させる彼女のちからに対抗するには、神の力も武装の力も呑み込む私のちからが必要なの。わかる? 私はあなたが勝つための手段を提案しているの」

「たしかに俺はすごいメリットあるけど……でも、エレさんは? 聖約したら死ぬのに、メリットなんてあるの?」

 死をまるで恐れない彼女に、こんなことは脅しにもなりやしない。そのことはわかっている。

 だがそれでもどうしても解せないこの疑問を解消するためには、そういうしかなかった。

 するとエレシュキガルはまたキョトンと目を丸くして、なんでそんなこと聞くの? みたいな表情をすると、今度はミーリの後ろに回ってゆっくりとその横顔を見つめるように顔を入れてきた。

「メリット……メリットね……そう、あなた達人間の尺度で計ると、私はただ死ぬだけね。ただ死ぬだけよ? でもだから何? 私との聖約がいや?」

「いやじゃないけど……」

 横顔に吐息がかけられる。その冷えた手はミーリの脇腹を這うように捕まえ、その爪のない指先は鋭く刺すようにまさぐった。

「だったら思い切りなさい。あなたが決めたその道を行きたいのなら、その目標に辿り着きたいのなら、迷わないの。あなたは、あいつを倒すんでしょう?」

 その誘い方はズルい。そう思った。

 そうだ。ミーリ・ウートガルドはユキナ・イス・リースフィルトを倒す。そう決めたのだ。そのためだったらなんでもする覚悟だし、誰にも負けないつもりである。

 こんな恐怖と美貌が共生している女神の力など、使いこなしてみせようではないか。闇だろうと暗黒だろうと狂気だろうと、上等だ。使いこなしてやる。そういう気になってしまう。

 愛する妹のためなら、何も怖くなどなかった。

「……いいよ、聖約交わしてよ。エレさん」

「そう、よかった!」

 突然、雰囲気が変わる。ずっと麗しいお姉さんのようだったのに、突然十代の子供のような素振りで、あぁよかったなどと声を出した。

「もう、断られたらどうしようかと思った! やっぱり闇の女神感出すと違うわ! ものすごく違うわ! 普通だったら私との聖約なんて、死んでもしたくないでしょうしね!」

「えぇぇ、っと……? エレさん?」

「あぁごめんなさい? 実はずっっとキャラ作ってたの! だって、闇の女神が内面子供とか、神様界じゃあ笑い物だもの! でも辛いのよ、お姉さんキャラって。常に上から目線で物言わないといけないし、大人の魅力的な何かを出さないといけないし、もう大変なの!」

「そ、そうなんだ……でも、エレさん本当にお姉さんなんだから、わざわざそんなキャラ作らなくても……」

「実のお姉さんだからダメなの! お姉さんが子供じゃ、妹に説得力がないの! そうよ……だから、だからイナンナは私の言うことなんて……」

 なんだか、イメージから遠くかけ離れていく。

 地を司る闇の女神と、天を司る光の女神の姉妹関係。ずっとお互いがお互いを牽制し、仲良くなく、お互いにそれを求めている。

 そんな関係だと思っていたのに、まさか姉は妹に言うことを聞いてほしかったとは。ただの普通の、反抗期真っただ中の妹に対する姉の悩みである。正直イメージが崩壊した。

 まぁ、死をも操る闇の女神であることは間違いないのだが。それでも、持っていたイメージは崩壊した。

「とにかく! 聖約を交わすのね?! いいのね?!」

「え? いやいいよ? いいけど、最後にもう一つ聞かせて。なんで俺と聖約を交わそうと思ったの? エレさんの力なら、きっとユキナくらい……」

 そう聞くと、はしゃいだり安心したりと感情表現豊かだったエレシュキガルの表情がまた変わる。スッと真顔に変わると、落ちてきている神殿を一瞥してから、突然ミーリに口づけした。

 いきなりすぎたので、ミーリも心の準備ができていない。ロンゴミアントもウィンもリストも、完全に見ている中だった。

 口移しで霊力のすべてを流され、ミーリは思わず飲み込む。すると心臓が一瞬拒否反応を起こして停止し、血が逆流したような感覚に襲われた。再び心臓が動いたそのとき、エレシュキガルが離れる。

「見てわかるでしょう? 今の私は、この石に封じ込められた、ただの霊力の塊でしかない。人に寄生して生きているだけの、ただの霊……だから必要なの。イナンナを打倒可能であり、さらには私を使いこなせるだけの存在が……宣言するわ、ミーリ。あなたが私を使いこなせなければ、世界はイナンナに殺される。あの子は自分が愛した者以外の死なんて躊躇わない。そういう女よ」

 エレシュキガルの体が、漆黒の炎に包まれる。その炎はミーリに移ると、体の中に染み込んで消えていった。そこに苦痛はない。

 ただ、ものすごい熱を感じる。熱さと冷たさが混じったこの熱が、体の熱を奪っていく。体は体温を取り戻そうと震えるが、それでは追いつかない。ただし次の瞬間には、大量の汗が流れ出すような熱に体が焼かれた。

 激しい温度変化に体がついていけず、思わずその力を吐き出そうと嘔吐の体勢に入りそうになる。しかしながら、そんなことで吐き出すことなど不可能なわけで、とくに何かが食道や気道まで来ていたわけでもないのに、その何かを飲み込んだ。

 なるほど、これはたしかに操れる力の使い手は限られる。スカーレット・アッシュベルら三柱はもちろん、人類最強の呼び声高いヘラクレス。そして最強先輩ことディアナ・クロスレベルなら、まぁ扱えるだろう。

 だが後に挙げた二人は、あくまでこの拷問にも近い副作用に耐えられるという点で挙げたに過ぎない。力を使いこなせるかどうかは、正直別の話だ。

 力を流し込まれてようやくわかる。この力は狂気ではない。

 死だ。この世でもっとも絶対的力の根本。破壊、殺傷、自滅、崩壊。他を傷付ける一切に共通する、死の力だ。操れなければ、自らも滅びる力。

 まさに冥府にして地獄、しかし業火にして氷結。死という力の根源を持ちつつも、そこには業火のような熱と氷結するような冷たさとの矛盾が両立する。

 その矛盾を両立させてきた女神こそ、その力を操り、司っていた女神こそ、エレシュキガルであった。

 そのことを今、本当に今実感した。目の前にするだけでは足りない。言葉を交わすだけでは足りない。こうしてその力に直に触れることで、ようやく実感できる。

 この女神は、本当に狂っている。こんな力を手にしてなお、普通でいられるのだから。

「……ミーリ?」

「触っちゃだめ! 今は、今は触らないで!!!」

 両膝をつき、自らの体を抱き締めて、大量の汗を掻きながら震える。体が中に入ったウイルスか何かを吐き出そうと、大きくえづかせる咳をさせる。

 だがミーリは必死に呼吸する。深呼吸を繰り返し、無理矢理にでも体を落ち着かせる。そして体に残ったわずかな霊力で、エレシュキガルの力を抑え込み始めた。

 うまくはいかない。そう簡単なわけがない。だがそれでも、ミーリは全力で抑え込む。そして、落ちてくる神殿の雷光がグスリカを直に照らす距離まで来たとき、ミーリは勢いよく立ち上がった。

 ロンゴミアント達の鼓膜が破れんばかりの声で絶叫し、頭を抱え、唸る。全身から溢れる黒い霊力が、ミーリに牙を剥かせていた。

 そんなミーリに、ロンゴミアントは我慢ならず抱き着く。そして耳元で絶叫されながら、力強く抱き締めた。

「ミーリ、負けないで! あの子を……ユキナを倒すんでしょう?! だったら負けないで! あなたはミーリ・ウートガルド!!! あなたは誰にも負けはしない! だってみんながいる! 私がいる! 私はあなたの槍……必ずあなたを勝たせてみせる!!!」

 ロンゴミアントが口づけを交わす。上位契約による霊力の流れで、溢れ出す霊力を抑え込むつもりだ。

 だがそれには莫大な霊力がいる。血を満タンになるまで吸って、紅色に染まるくらいの霊力が。しかし今、そんな霊力の補充はない。だがやるしかない。ミーリを救うためには、みんなを救うためには、やるしかなかった。

 もし失敗すれば、元が聖槍である自分は汚され、おそらくこの世に現存できない。そんなリスクを考える暇もなく、ロンゴミアントは霊力をね上げて、ミーリへと流す。

 だがミーリの中のエレシュキガルの力は流れ込んでくるその霊力を拒み、返してくる。その霊力を、再び送り返す。その作業の繰り返しだった。

 何度だって、何度だって繰り返す。その霊力は徐々に大きなものに変貌し、ついにミーリに飲み込ませた。

 その瞬間、ミーリはロンゴミアントを抱き締める。そして与えられる霊力すべてを受け止め、自身の中に浸透させていった。

 そして、神殿の距離があと数十メートルと来たそのとき、ミーリはロンゴミアントを抱き上げて跳んだ。流星のごとき速度で、ロンゴミアントを槍へと変えて。紫の槍に漆黒の霊力をまとわせて、大きく振りかぶった。

「“槍持つ者の投擲ロンギヌス・ランス猛進レイジ”!!!!!」

 一瞬だった。

 槍がぶつかったその一瞬で、神殿は雷と共に消えてしまった――いや、死んだ。雷も、神殿も、跡形もなく消え去って死んでいった。その一瞬を、ウィンもリストも国中の誰もが疑った。

 だがこれが死の力。地獄の女神、エレシュキガルの力だった。

 降り立ったミーリは槍を振るい、大気を裂く。死滅された空間は消え、その穴を埋めようと大気が渦巻く。その風に吹かれるミーリの姿は、まるで、悪魔のように漆黒に包まれていた。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る