自由

「ルー……シー?」

 手を差し伸べられたと同時に勝手につけられた名前を、ルシフェルは疑問視をつけて繰り返す。

 それは本当に意味がわからないからで、何故自分が今そう呼ばれたのか、その理由を考えてしまっていたからだった。そんな理由は、ないと言うのに。

 正直一番付き合いの長いロンゴミアントでも、ミーリのネーミングセンスとシステムはよくわかっていない。そんなものを考えたところで、ただの無駄である。

 だがそれでも考えられずにいられないのが、行動のすべてを計算するように仕組まれた、天使のさがというものだった。

「俺と来ない? もう天使、だいぶやられちゃったよ?」

 探知してみれば、調度ラファエルとウリエルが倒されていた。これでもう、四体もやられたことになる。霊術の基軸となっている七体の半数がやられ、ラッパも少し光を薄くしていた。

 だがまだ発動できる。命令を実行できる。霊力の吸収にさらに時間をかけるが、今ならまだ強行できる。

「わからないなぁ。そこまでして命令を守ろうとする意味が」

「天使にとって命令こそ生きる意味です。使命なのです。それが何故わからないのですか? あなたにだってあるはずです。生きる意味が」

「ないよ、そんなの」

「は……?」

「生きる意味なんてないよ。だってそんなこと考えてたら、宇宙なんでできたの? ってところまで考えなきゃならないもの。そんなの面倒じゃんか。だからそういう存在意義みたいなものって、ないんだよ。そういうことにしておくの」

 生きる意味が、ない?

 生まれたときから、意識を持ったその瞬間から役目を与えられる。そんな天使にはまるで理解できなかった。

 生きる意味がない。

 それは存在意義の喪失。生まれた瞬間から役目がある天使にとって、それは死と同義。だからこそ、役目を終えた天使は次の役目を求める。見つけられなければ、堕天してしまうことが多い。

 そんな天使に、生きる意味がないというこの青年の言葉を、まるで理解できる気がしない。

 生きる意味がない。

 その言葉の破壊力は、ルシフェルにとってそれだけのものがあった。

「存在意義っていうのはね、生きていくうちに自分で見つけるものだよ。他人に言われたこととかそういうのは結局支えとか圧迫でしかなくて、存在意義を見つけるための材料でしかない。自分で見つけたものだけが、本当に自分が今そこにいる意味なんだよ、やっぱり」

「違います。存在意義とは、他者によって与えられるもの。他者によって役目が与えられ、使命が与えられ、自分はそれをこなしていくだけの存在。存在意義は、存在証明は、他者によって確立されていくもの――」

「それは何もできない子供のときの話だ!」

 ルシフェルが委縮する。

 神と同じ存在の証である一二枚の翼を縮めて、まるで子供の少女のように怯えきった姿を見せた。もうそこには、最高位天使としての姿はない。

「今の君は何もできないの?! 違う! 君はそうやって言葉を話せる! 空も自由に飛べる! 霊術だって使える! 君は今、君の望むようになんだってできる! 本当はそうなんだよ。君はその翼を広げて、自分の好きなように生きれるんだ! 君は、生きれるんだよ、ルーシー!」

 自分の好きなように生きる。

 それは、あってはならないこと。神と同じ思考しか許されない。神と同じ行動しか許されない。神と異なることは許されない。神に背くことは許されない。好きに生きるなどもってのほかだ。

 好きに生きれば――自分のしたいように生きれば、敵対とみなされた。だから許されないと思った。

 どれだけ翼を生やそうとも、どれだけ多くの霊力を得ようとも、どれだけ多くの知識を得て、考えを持とうとも、命令以外の何も考えてはならないと思っていた。何をしてもいけないと思っていた。

 すべては命令を遂行するため。翼も霊力も知識も膂力りょりょくも何もかも、すべては与えられる命令を遂行するためであった。

 命令を守る。

 命令を実行する。

 命令を遂行する。

 すべては、命令をこなすことで確立する存在意義のため。それが、唯一の存在証明。自分自身を、確立できる手段。

 だから、好きに生きれると言われたところでピンとはこない。

 好きに生きるというのはどういうことで、どうすることが好きに生きるというのか、わからなかった。

 そして何よりわからないのは、好きなことをしてどうやって自分の存在を確立するのか。どうやって自分の存在を証明し、自分の存在を維持するのか。その方法がわからない。

 いやそんなことを言ってしまったら、もう何が存在証明できるものなのかがわからない。

 一体どうやって、自分が自分でいればいいのだろうか。どうやって、自分を保てばいいのだろうか。

 もはやそれが、今までどおり命令を実行することで確立できるものなのかも怪しくなってきた。何せこんな問答、したことがないのだから。

 どれだけ考えたところで、計算したところで答えは出ない。何せこんな問題、出たことがない。天使の歴史を遡っても、こんな問題を解こうとした天使はいないだろう。

 故にルシフェルの頭はヒートする。半分機械化された頭は情報を処理し切れず、知識と知識が衝突し、目の前の光景が色を変えて映し出される。耳には雑音が入り込み、考えることをさらに邪魔した。

 好きなように生きる……生きる……生きる……生きるとは――?

「生きるとは……何ですか」

 すべての疑問が新たな――その根本的問題に到達する。だがその疑問すら浮かばなかったのが天使であり、ルシフェルなのだった。

 頭を抱え、助けを求める眼差しでミーリを見下ろす。今にも泣きだそうな涙を溜めた目で、ミーリを見下ろす。ただ一つ。たった一つあるはずの回答を求めて、その涙で潤む眼差しを向けた。

「さぁ、それは俺にはわからない」

 ミーリはルシフェルを助けなかった。回答を与えてやることが救いならの話だが、ミーリはルシフェルの疑問に白紙回答で返した。

 頭の熱が引いていく。それは救われたからではなく、回答を得て考える必要がなくなったからではなく、考えるのを強制的にやめさせられたからであった。無意識に、ルシフェルの自己防衛が働いたのである。

「人間って不思議でさ。思春期になるとみんな考えるんだよ。自分はなんで生まれたんだろう。自分はなんで生きてるんだろう。なんのために、自分達っているんだろうって。でもさ、そんなの結論なんて出ないんだよ。むしろ、この疑問に辿り着いたのが正解っていうか……自分がなんのために生まれて生きてるか。それを疑問視できたことが重要なんだよ」

「わかりません……わかりません。計算不能です。行動不能です。一体あなたは、何を言っているのですか? 命令オーダーです。もっと優しく教えてください……」

「要はね。自分がなんで生きてるのって疑問で、その人は自分を客観視できてるんだよ。その視点が大事なの。自分は一体何者で、何ができて、何が得意なのか。それを知って、初めて自分の正体を知る。それは多分無力で無価値で、尊いとは程遠いものなんだろうけれど、その結論に至れたことがいいんだよ。少なくとも、俺はそう思う」

 自分を、客観視する。

 わからない。それで一体、何故自分が何者だと結論が出せるのか。何故曖昧な答えでよしとするのだろうか。

 まったく、まったく何もかもわからない。

 一体彼は何を言っていて、言葉にはなんの意味があるというのだろうか。まったくもってわからない。こんなときはどうすればいいのか、天使には一つの選択肢しか、神に与えられていなかった。

「我は紡ぐ……最果ての海へ至るため! 文字を並べ! 言葉を並べ! 我は必死に船を編む! 高く積み上がる波の防壁! 打ち砕かれる黒潮の蛇! そなたの耳に、我自身の言葉で叫ぶ! “世界はやがて水の中へとダイビング・エンド”!!!」

 天上より降りかかる、巨大な水の塊。闘技場を丸まる呑み込んでしまいそうな規模で落ちて来て、轟轟と波音を轟かせた。

「命令です。沈んでください、ミーリ・ウートガルド! あなたの言葉は……言葉は……!」

 危険?

 いや違う。

 ならば何故、始末しようとしているのだろうか。

 ルシフェルは気付いていない。臭い物に蓋をするとはまた違うが、今自分が、目を背けたいがために――耳を向けたくないがために、わがままを通そうとしているということを。

 ミーリの言葉を危険視しているのではなく、そこから新たに得られる価値観や思想が、命令を遂行するに関して悪影響を与えかねないと感知しているのだと、彼女はまだ気付けていなかった。

 ミーリは跳ぶ。

 脚に霊力を込めて高く跳躍し、水の塊に向かって行く。そしてオーロラのケイプを翻し、自身の霊力を込めて振りかぶった。

「“絶対王者の鋼盾プライウェン”」

 光の幕が翼を持った女性――女神の半身へと姿を変える。自分より圧倒的に大きい水の塊を包み込むと、それをまた水が降って来た空高くに放り出して散らし、ただのにわか雨に変えてしまった。

 容易く霊術が破られて、ルシフェルの表情に戸惑いが現れる。今の霊術でこの闘技場ごと、ミーリもそのほかの危険分子も始末するつもりだった。

「ち、塵は塵に! 灰は灰に! 悪魔殺しの鮮血十字――!」

 翼を広げ、またべつの霊術を詠唱する。

 だがその瞬間、ミーリが着地するよりも早く、華麗な一閃がルシフェルを斬り上げた。

 それは、純銀の槍脚。紫の長髪を揺らす、細い体をしなやかに曲げる、紫の光沢を放つ槍だった。

「ロン!」

「ミーリ!」

 落下途中のミーリはウィンの武装を解く。そしてウィンの腕を取って、ロンゴミアントのいる地上に投げ飛ばした。

 霊力で強化された投擲能力で投げられたが、ウィンは平然とフィールドに着地する。帽子のズレを気にする余裕でロンゴミアントの隣に立つと、その腕を取って思い切りぶん投げた。

 ミーリがいる地点まで投げられて、ロンゴミアントは手を伸ばす。その手で伸ばされたミーリの手をガッチリ掴むと、自分の額をミーリのにくっ付けた。

「遅れてごめんなさい」

「待ってたよロン、大丈夫だった?」

「えぇ、ネキのおかげでね」

「じゃ。やるよ、ロン」

「えぇ、私はあなたの槍。必ずあなたを勝たせてみせる!」

 口づけの契約を元に、ロンゴミアントは槍へと姿を変える。紫の聖槍を振り回し、ミーリは自ら空中を蹴って落下速度を早めた。

 そして構える。狙うは一撃。最高位天使を止められるほどの、最速最高の一撃。

「塵は、塵に……!」

「“槍持つ者の投擲ロンギヌス・ランスフォーレン”!!!」

 振り下ろし、貫き斬る。

 落下しながら振り払われた一撃はルシフェルを斬り裂き、白い鮮血を走らせる。斬り裂かれたルシフェルは力なく、そのまま仰向けに倒れた。

 翼から抜けた白い羽が、その場で舞い散る。ミーリが降らせたにわか雨に濡れて血はその場で薄まり、やや透明になってルシフェルを浸した。

「……殺してください。命令を果たせないのなら、私は――」

 槍を返した先で、頭を小突かれる。

 ミーリはその側にしゃがみ込むと、返り血を浴びたルシフェルの頭を指でなぞった。

「ヤだ。さっきも言ったけど、俺は君が欲しいんだよ。殺したくないの、わかる?」

「しかし……私は命令を果たせませんでした。使命を果たせませんでした。これでは生きてる意味がない……命令を果たせない天使など――」

「その翼は、もう神様の証。命令を与えられて実行する天使から、進化した証。君はもう、進化したんだよ。自分で天使達に命令を与えられるくらいに、君は進化したんだ。命令をされる人はなかなか自分で選べないけど、命令をする人は自分で選べる。君はもう、選べる方なんだよ」

「……私に、何を選択せよと命令しますか」

「そだね……じゃあ命令だよ、ルーシー」

 再び、手を差し伸べる。ここまで多くの天使の血を浴びたその手はやや白く、その手は少し生臭かった。

 それはきっと、これから彼が進む道の具体化。いばらの道などという踏んで痛い道ではなく、進むごとに鬼か何かを斬って進まなければならない修羅の道。

 その道はきっと険しくて、大変で、戻るのは不可能くらいの文字通り修羅場で、命がかかっていることは間違いない。

 だがそんなことを、ルシフェルは知らない。

「俺と来るか、それとも来ないかを選んで。来てくれるなら、俺は君にできる限りの自由を与える。来ないなら、あのラッパと一緒に斬る。さ、どうする?」

 その手を取ることがどれほど重い選択で、どれほど辛い選択なのかをこの天使は知らない。そしてこの選択には、どちらにしても利益がないし少ないということを、彼女は知らない。

 だがその手を取ることで、今までがどれだけ変わるのかをこの天使は知らない。天使生誕のときから決して変わることがなかった繰り返されてきた歴史とは、まるで違う生き方ができることを、彼女は知らなかった。

 知識と情報の不足。

 それによる回答の遅刻。

 どれだけ思考を巡らせたところで、この選択のどちらを選べばいいのかは、何も知らないルシフェルにはわからない。

 ならば選択する重要な部分とは何か。それを考え始めたとき、ルシフェルはようやく気付いた。

 情報や知識ではない。今こうして、なんの情報も知識も与えられていない状態で選択することこそ、ということなのだと。ルシフェルは初めて知覚した。

 それは天使にとって、歴史でも初めてのことだった。自分で選ぶ。この行為こそが、今自分が初めて与えられている機会なのだと知る。

 それがどのような影響を与えたのかは知らないが、彼女は口を開く。それは選択の答えではなく、質問だった。

質問クエスチョンです。私があなたについていくことで得られる自由とは、選択の自由もでしょうか」

「もちろん。俺が考え付くだけの自由を、君にあげる。君に絶対な命令はしない。お願いはするけど……それも断る自由をあげる」

「自由……」

 初めて、ちゃんと意味を理解したうえで言葉にした気がする。

 その言葉は腕を伸ばすより、翼を広げるより、空を飛ぶより、言葉を並べるより、なんでもできそうな気がした。なんでも、していい気がした。

「命令、了解いたしました。あなたに従いましょう。ミーリ・ウートガルド。それが私のしたいこと……今を、生きたい。自由に……生きてみたい」

「了解、その夢叶えるよ。よろしく、ルーシー。ようこそ神を討つ軍シントロフォスへ」

 その手を取り、ルシフェルは翼を閉じる。小さく折りたたんだ彼女は眠るように気を失い、スヤスヤと寝息を立てた。

『ミーリよかったの? 寝かせて』

「うぅん……あのラッパ消す方法とか教えて欲しかったんだけど……でも……」

 見上げる限り、ラッパに消える様子はない。術者であるルシフェルが倒れ、意識を失ったというのに、ラッパは変わることなく霊力を吸い続けていた。

「まるで消える様子がねぇな」

「ねぇロン、あのラッパが出たとき、何かここで変わったことなかった?」

『そうね……感じたのは、例のあの七大天使の霊力が、底上げされたことかしら。それはミーリも感じたんじゃない? 何か、あのラッパと繋がった感じだったけど……』

 七大天使……七つのラッパ……もしかして?

「ボーイッシュ、ルーシーを頼めない?」

「構わねぇが、おまえはどこ行くんだ」

「他の七大天使を倒してくるよ。きっとそれが、この状況を打破できる方法だと思う」

「まぁいいけどよ。こっちの二人はどうする」

 ルシフェルを抱き上げるウィンの足元には、まだ立てないオルアと気を失っているリエンが寝転がっている。だがそのリエンの剣――カラルドとエレインが調度人の姿を取った。

「ミーリ様」

「カラルド、二人をどこかに運んでくれる? できるだけ安全なところにさ」

「かしこまりました。そういうわけです、行きますよエレイン」

「ふぁぁぁ……はいはい。もう、私は寝たいだけなんだけどなぁ……」

 戦闘不能の三人を任せ、ミーリは走る。そしてまだ空で戦う神を討つ軍を一瞥して、闘技場を出て行った。

 空では、まだティアが戦っていた。


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