狂化

 修行は二日目、滞在日数は三日目。この日のミーリの修行は、ただ森を歩くことだった。

 ただ歩くといっても、この森では簡単なことではない。森の魔物達の感知能力は高く、気配を消していないとすぐに襲い掛かってくる。そんなときはいつものように霊力を広範囲に放出して探知するのが得策なのだが、生憎それは師匠によって禁止させられていた。

 故に慎重、かつ慎重に進む。師匠の修行では一二時間以内に森を一周するのが目標だが、正直それをできる自信はなかった。

 とはいっても、やらないという選択肢はない。限界まで慎重に移動し続けて、早三時間。ミーリはまだ、一一分の一程度しか、進めていなかった。

 ちなみに、神霊武装ティア・フォリマは装備していない。故に見つかって捕まれば、一貫の終わりである。

 そして今、ミーリは木の後ろに隠れていた。

 数メートル先にいるのは、地獄の番犬と呼び声高い三つ首の狼、ケルベロス。しかも親子で、母親が二匹の子供を連れている。元々凶暴な性格なのが、子供がいることでさらに凶暴さを増している状態だ。

 神霊武装さえあれば問題はないが、今襲われれば間違いなく殺される。奴らの力は、常人の六倍と言われている。そんな相手と戦う道はない。ミーリはそっと木の後ろから後ろに移り、その場をやり過ごすつもりだった。

 が、やってしまった。普段なら霊力探知で気付くというのに、足元にあった枝を気付かず踏み締めてしまった。

 絶望に変わるその一歩を踏んだ自分自身を呪い、ゆっくりと数メートル先に視線をやる。ケルベロスの親子はすでにこちらに気付き、親は牙をむいて唸っていた。

「ハハ……どうも」

 ケルベロスが走ってくる。それと同時に、ミーリも一目散に駆け出した。地面を蹴り上げ、木の根を蹴飛ばし、枝を掴み取って跳ぶ。霊力で脚力を強化して、森を一気に駆け抜ける勢いで跳び続けた。

 しかし、大人のケルベロスの最高速度は時速で九〇キロ。自動車よりもずっと速い。距離はみるみる縮められ、次第にその牙がミーリに届きそうなまでに近付いてきた。

 このままでは確実にやられる。戦うか、否か。無論、逃げるのがダメなら戦うしかない。ならいつ仕掛けるか。距離が近過ぎては間に合わない。もっと、もっと遠くに離してから。

 そう考えて、ミーリは自身の最高速度で地面を蹴り、少しずつ距離を離し始めた。だがケルベロスも狩猟本能をかきたてられ、自身の速度を上げていく。その距離がようやく一メートルにまでなった瞬間、ミーリは急ブレーキをかけて振り返った。

 霊力を溜めた拳を引き、そして振り抜く。その拳がケルベロスの顔の一つにぶつかり、牙を折り、そのまま二メートル近い巨体を殴り飛ばした。

 大木をへし折って倒れたケルベロスが、フラフラと立ち上がる。だが弱みを見せたのはそのときだけで、次の瞬間には残り二つの顔で牙をむいて唸っていた。そして、突撃の構えを見せる。

 今のような不意打ちが決まるのは最初だけ。ここから奴は、狩猟本能を闘争本能に切り替えて襲ってくる。そういう切り替えができるからこそ、ケルベロスは危険な生き物なのだ。

「さて、と……」

 どうしよ、まったくいい手が思いつかないんだけど。

 本当に、神霊武装さえあればこれくらいの窮地は何ともない。だが神霊武装がなければ、この状況を打破できないのも事実であった。

 どうする? 召喚ならできるけど……それはそれで後でが怖い。

 こんなときでも師匠のお説教が怖いだなんて、随分とした余裕である。まぁ実際、師匠のスカーレットがミーリを強く叱ったことなど、命の危険があったときくらいのものなのだが。その数少ないときが怖い。

 そうこう考えている間に、ケルベロスは突撃の態勢を取る。そして勢いよく、なんかどこかのドキュメンタリー番組か何かで見たような美しいフォームで、飛び掛かってきた。

 しかしそれがそのケルベロスの魅せた、最期の美しい姿だった。

 ケルベロスの三つ首がそれぞれ二つに裂け、計六つの頭となって、倒れる。それは無論ケルベロスの能力でも何でもなく、ただ横から来た攻撃によって、一瞬で殺されてしまっただけであった。

 あまりにも一瞬過ぎて、目で追いきれなかった――いや、霊力と神経を研ぎ澄ませている状態なら見えただろうが、通常では無理だった。一体何が起きたのか。

 だがそれは目の前でうねっているトカゲの尻尾のようなものを見れば、大体は想像がついた。

 ようは魔物同士の生存競争に、ケルベロスが負けただけだ。おそらくこれ以上の怪物が、今ここにいるのだろう。だがそうなれば、また逃げるしかない。今度はケルベロスより足の遅いのを期待したいが、ケルベロスを速度で殺せる獣が、遅いはずはなかった。

 ならば逃げる選択肢はない。脚に両腕、腹に背中まで、全身に霊力を張り巡らせる。そして、霊力探知で接近してきていることを探知して、その方向に拳を構えた。

 ゆっくりと、ゆっくりと、枝葉を踏み締め、茂みを揺らして近付いてくる。蛇が出るか、鬼が出るか、トカゲが出るか、はたまた他の何者か。いくつかのパターンを想定していたが、出てきたそれは想定していなかった。

 漆黒の闇のような、黒の長髪。それと同じくらいに黒い瞳。背丈はリエンや空虚うつろと同じで、一六〇前半ぐらい。トカゲの尻尾のような鱗のついたそれは、彼女の腰から生えていた。

 見る限り、その姿は女性そのもの。だがその体には衣服をまとっておらず、彼女は歯を軋ませながら唸っていた。

 母親の死骸に、群がる子供のケルベロス。死んだということをまだ理解できず、必死に起こそうとしているその子らを咆哮で蹴散らし、彼女は四つん這いになってケルベロスに歯を突き立てた。

 血塗れになりながら肉を食い散らし、骨をしゃぶる。

 これも食物連鎖の一部であることはわかっているが、吐き気が喉奥までこみ上げてくる。嘔吐しそうになるのを必死にこらえ、ミーリは彼女がいつかかってきてもいいように構えを崩さなかった。

 目玉がまずかったようで吐き出し、首を振るう。血に濡れた黒髪は浮かび上がり、怪しく、おどろおどろしく揺らめいていた。

 そんな彼女がミーリに気付く。数秒間ミーリを見つめた彼女は歯を軋ませて唸り、地面に両手をつけて突撃の構えを見せた――と思った瞬間に飛び掛かってきた。

 余りにも早すぎる動作に、今度は霊力を研ぎ澄ませているというのに目が追いつかない。明らかに、ケルベロスとは別格である。

 ミーリの両腕を捕まえた彼女はのしかかり、尻尾を振るってミーリの脇腹を突き刺した。

 胃液の代わりに血を嘔吐し、ミーリは霊力を放出する。その圧に一瞬彼女が吹き飛ばされると、そのスキに拘束を解いて思い切り頭突きした。額が切れて、お互い血を噴き出す。

 霊力で強化した部分が傷を負うということは、ぶつかった対象がそれ以上の霊力量であるということ。だが彼女に、霊力操作をした感じはない。つまり、彼女の霊力は攻撃用に操作することも防御用に操作することもなく、単純に強く膨大だということだった。

 軽く自分を超えている怪物に、ミーリは正直気持ちで参る。未だ自分に刺さっている尻尾を抜き取り、血を溢れ出す傷口をとっさに押さえた。

「な、んだ……? 君はっ……!?」

 尾が、三つ。

 増えていた。彼女の尾が、腰からもう二本生えて。さらにその先が割れ、瞳が現れ、三本の尻尾は三頭の龍となってミーリを睨んでいる。動けば即、殺されるそんな直感が、ミーリに次の行動を拒ませた。

 だが同時、これも直感した。飛び込んでくる、と。

 その直感は正しく、彼女は次の瞬間にまたとんでもない速度で三つの首を持って襲い掛かってきた。

「“蠍尾龍ムシュフシュ”」

 三頭の龍の口先についている、一本だけののこぎりのような歯。その先から何かが滴っているのが見えて、即時、跳んで躱す。回避された一頭が木の幹にぶつかると、その歯が触れた箇所が解け、腐食してしまった。

 即死はせずとも、それと同等に危険な猛毒である。

 その猛毒をまき散らしながら、彼女の尾は襲い掛かってくる。ギリギリ紙一重での回避は許されず、数手先を読む回避を要求される。それを連続でやり遂げたミーリだったが、途中足を滑らせて態勢を崩し、ついに腕を貫かれてしまった。

 猛毒が体に流れ込み、徐々に体が壊死していく。皮膚の色が真っ黒になって死んでいくのを見て、ミーリは死を直感した。

 ヤバい……死ぬ……こんな、とこ、ろ……で……ユ、キ、ナ……。

 収束し、そして弾ける。尾の龍は弾き飛ばされ、彼女もまた飛ばされた。

 力なくうなだれ、地面を強く踏み締める。その両手に黒の長槍と短槍を握り、背に時針のない時計盤を出現させたミーリは、青と紫のオッドアイの眼光を飛ばした。

 目の中の時針が一方は進み、もう一方は戻る。その瞳の力が霊力によって具現化したか、黒く壊死していた体は時間を遡っていくように戻って毒を吐き出し、二つの傷口は時間が進んでいくようにすさまじい速度で塞がった。

 自身と同等か、それ以上の膨大な霊力。黒髪の彼女は、その生物としての生涯で、そんな人間には会ったことがなかった。故に、今までずっと取るに足らないと思っていた敵がいきなり自身と同等以上の存在になったことに、一縷いちるの恐怖心を抱いた。

 即座、その恐怖心とそれによる自身の中で流れる警告信号に従って、飛び掛かる。三つの尾を一斉に向かわせ、そろって大口を開けさせた。

 対するミーリの両の瞳には、今まで一瞬だった彼女の攻撃が、遅く、緩やかに見えていた。故にそれに対処するのは簡単なことで、短槍を持ち上げ、そして一気に振り下ろした。

 龍の首がことごとく両断され、地に落ちる。そして遅れて発生した槍を振り下ろしたことによる風圧が起こり、周囲の木々を吹き飛ばした。

 それに同じく吹き飛ばされた彼女は地面を転げ、飛ばなかった木にぶつかる。それによって気を失った彼女から尾が三本とも消え、そのまま力なく地に伏せた。

 敵も倒れ、周囲に他の気配はない。だがミーリは一人立ち尽くし、彼女のことをずっと見つめていた。

 その手には力が入り――入りすぎて、皮膚が切れて血が流れだす。自身の熱で息は白く荒くなり、体は痙攣するように小刻みに震え出した。

「あぁ! あぁぁ! っ、あぁぁぁっぁぁぁっぁぁぁっぁぁぁあぁぁぁああ!!!」

 肉薄し、槍を振るう。その一撃が彼女の首筋を両断するその直前に、横から入ってきた緋色の槍に止められた。

 ミーリの槍を振り払い、スカーレットが切り払う。それを回避したミーリは目の前にいるのが師匠だと理解できず、咆哮の後に再び斬りかかった。それを受け止め、スカーレットは思い切り踏ん張った。

「まったく……霊力の異常な放出を感知して駆けつけてみれば……どうした? ミーリ。まぁ大体は想像つくが、暴走するだなんておまえらしくないじゃないか」

「あぁ! あぁぁ! あぁ!」

「私のこともわからず、か……いいだろう、私が直々に相手してやる。私に本気を出させるないでくれよ? 愛弟子よ」

 ミーリの槍と、スカーレットの槍がぶつかる。

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