二人の魔神

 カミラ・エル・ブラドという女性は、生前の女性としての伝説の中では浴槽いっぱいに血を溜めて、その中に入っていたという。

 若く美しい貴族の娘の血、のみで溜めたブラッドバスなら、永遠に美しくなれると信じていたからだ。

 そんな伝説の名残なのかどうかは知らないが、ブラドは風呂が好きらしい。どこから湧いてるのか出どころの不明な湯に浸かって、五時間おきに入っている。

 結界発動からすでに五〇時間は経っているから、もう九回は入っているのか。そして十回目となる今、ブラドはミーリを誘いに来た。

「貴様に同じ湯に浸かる権利を与える。貴様も入れ、ミーリ」

「お風呂かぁ……たしかに入りたい。でもオルさんがまだ起きないんだ、またあとで誘ってくれる?」

「そうか。また断られてしまったな」

「じゃあオルさんが起きたら入るよ。それまで待たない?」

「いや、そういうことならまた一人で入る。案ずるな、こんなことで機嫌を損ねることはない。何せ前世は双方、貴族であったからな」

 そう言って、ブラドは部屋から出て行った。

 正直ブラドとの戦闘で汗を掻いたミーリは風呂に入りたかったが、オルアを置いていくわけにもいかない。

 だから彼女の頭を膝に乗せて、起きるのをじっと待っていた。退屈で退屈で寝そうになるのを堪えながら、天井や壁を見回し色々考えて時間を潰す。

 ロンゴミアント達は今どうしてるのか。

 空虚うつろ達は大丈夫か。

 自分は一体何なのか。

 あの歯車の世界と、そこにいる少女は誰なのか。

 様々なことを考えて、時間を潰す。それでもかなりのときが経ち、軽く一時間ほど経った頃、ついにオルアが目を覚ました。

「お、起きたねオルさん」

「ミーリ、くん……ミーリくん?!」

 不意に勢いよく起き上がり、危うく頭がぶつかりそうになる。

 だがそれは当然のことで、ブラドに連れ去られたはずのミーリがそこにいるのだから驚きしかない。しかも最後の記憶がブラドに気絶させられたということもあって、オルアはますます混乱した。

「なんで君が! でも、僕もブラドに気絶させられて……! でもなんで生きて――」

「はいはい落ち着いて。はい深呼吸、吸ってぇ……吐いてぇ……もっかい吸ってぇ……どう、落ち着いたぁ?」

「あ、あぁ……取り乱してごめん。でも、なんで君が」

「そだね。色々話さないと」

 ミーリはブラドと過ごした約五〇時間を話した。

 そしてオルアが連れてこられた理由も説明し、オルアは溜め息交じりに受け入れた。

「まったく、君は規格外な人だね」

「そりゃどうもぉ。じゃ、俺行くわ」

「どこ行くんだい?」

「お風呂、ミラさんに誘われてさ」

 入るの? ってか彼女、女性なんだよね……?!

 そんなことをオルアが思っているうちに、ミーリは一人行ってしまった。これはいけないという結論に至ったオルアも、そのあとを追いかける。

 結局二人で、ブラドが入る風呂に来てしまった。

「なんだ来たのか。長風呂にしていて正解だったな」

 獅子の銅像から流れ出る湯が、風呂へと注がれる。一体どこから湧いてるのだろうという疑問はそこではおそらくタブーで、ミーリとオルアは何もツッコまず湯船に浸かった。

 大人三〇人は入れそうな大浴場に、たった三人というのは少し寂しさを感じる。

だが今さっきまでブラドは一人だったわけで、二人増えただけでマシであった。

「どうだミーリ、美女二人と混浴が叶っている感想は」

「男冥利に尽きるよ。まぁ今の俺としては、ユキナ以外欲情しない自信があるけどね」

天の女王イナンナか。今回もあいつは、まぁいい女を選んだものだ」

「何、ミラさんユキナのこと知ってるの」

「無論だ。あれは契約した主人を取り込み、神格化させる神霊武装ティア・フォリマ。厳密には今の主人ではなく、あの神そのものを知っている」

「神格化……神様になる神霊武装……」

 あの日、燃える別荘で。

 彼女が消える間際に見せた箱型の立体パズル。たしかに最近会ったとき、ユキナは持っていなかった。

 もしそれがユキナを取り込み、彼女自身を神に近付けたというのなら、あの人間離れした能力にも納得がいく。

 だがそんな驚異的な神霊武装が、当時才能も何も開花させていなかったであろうユキナと契約したことが、腑に落ちないところではあった。

 神霊武装とて、持ち主を選ぶ権利がある。たとえ呼び出されても、契約さえしなければいいのだから。

 といっても、呼び出された神霊武装の多くは、現世での延命のために召喚者と契約してしまうらしいが。

 契約せず、べつの主人を得るまで霊力を供給を絶とうなどという苦しい道は、大体選ばない。

 だから主人が死んでからしばらく一人でいたレーギャルンのような神霊武装は、そのとき相当苦しんだはずだ。最後にはその苦しみで、現世からいなくなってしまうのだから。

「どんな神様だったの」

「そりゃあ狂っていたな。何せあの武装の根源たる神は――天の女王はかつて、愛した者に対して死を招く怪物を送り続けた女神だ。それを倒し強くなる彼の姿に、狂喜していた奴だぞ」

 そう、ブラドは笑う。おもしろい奴だろ、と訊かれているよう。

 ミーリは笑みだけを返して、とくに答えなかった。

「もっとも、今でもその狂いっぷりは変わらないようだがな。貴様も苦労するぞ、ミーリ」

 それこそ笑みだけ返す。

 ブラドはおもむろに立ち上がり、湯船から上がり出た。

「だが貴様なら、天の女王を打ち負かすことができるかもしれないぞ。奴の唯一にして最大の弱みを持つ貴様ならな」

「え、何それ。詳しく訊きたいんだけど」

「教えてもいいが、そのまえに訊こう。貴様はあの少女を、天の女王を殺すことができるのか? 実力の話ではない。情に関しての話だ」

 その場になってうろたえるようでは、教えられない。そう言いたげなブラドの目は真剣で、真っすぐこちらを振り返っていた。

 だがミーリは、比較的容易く頷いた――いや、容易いという表現は誤りか。そこにはもう信念のようなものが作り上げられていて、揺るごうとする意識すらなかったのだ。

 故に、頷くまでが早くなった。

 その顔つきといったら異性としてはたまらないもので、直視したブラドは思わず顔を背けてしまった。

「そこまで殺したい奴だったか」

「んなわけないって。だって俺が今唯一、愛してるって言える奴なんだもん。殺さなくていいならそれでいい。でも、これは俺がやらなきゃならないから」

「……あとで我の部屋に来い。話してやる」

「あ、よろしくぅ」

 ブラドは微笑み、そして出て行く。その際全裸だったブラドだったが、出る間際に霊力の元である霊子が形作り、ブラドの服となった。

 神霊武装の人型状態時の服もこれと同じ原理になっていて、霊子が服になっているのだそう。そう、ミーリはロンゴミアントから聞いていた。

 それを思い出して、神様もそうなんだとミーリは思う。だが同時、背後のオルアを一瞥した。

 果たして彼女の服も、霊子で構築されたものなのだろうか。着替えを見られないからちょっと気になる。

「な、何? ちょっとミーリくん、目が怖いんだけど……」

「いやなんでも? ってかミラさんは出たんだから、オルさんももう出たら? 俺はも少し浸かってくけど」

「ぼ、僕ももう少し……」

「あぁそう」

 オルアは疑問を感じていた。

 たとえ好きな人がいるとしても、ここまで他の異性に興味がないものなのだろうか。さっきから混浴していて、ミーリになんの反応もない。

 もしかして自分には魅力がないものなのだろうか。それとも現代では、混浴など実はそこまで珍しくない文化なのだろうか。

 それともこの男、いわゆるプレイボーイというものなのだろうか。

 一人恥ずかしいオルアは鼻の下まで潜り、ブクブクと気泡を立てる。ミーリを一瞥しては目を逸らすことを繰り返していて、まったく直視できなかった。

「そいえばオルさんってさぁ」

「な、何?」

「どうして対神学園なんて来たの? だって神様でしょ?」

「……バレてたんだ。いつ、わかったの?」

「手合わせで結界に閉じ込められたとき、神様と対峙してるような感覚があった。霊力も、人とか神霊武装より神様に近いのを感じたから。まぁ正直、勘だったけど」

「すごい勘だな……そう、僕は神様。僕はブラドと同じ、魔神まじんと呼ばれる神様だよ」

「魔神?」

「人から神になった者。人としての生涯を終わらせて、新たに神としての生涯を始めた者、そういう神様だよ。異端なんだ。他の神様からしてみれば、汚い泥から生まれた存在。だから魔神」

「ふぅん」

 気付くと、ミーリはいつの間にかオルアの目の前にいた。顔を近づけ、瞳の中を覗くように凝視している。

 オルアの背後はすぐに壁で、逃げることはできなかった。

「な、何?! 何!?」

 もはやキスすらしてきそうな距離である。だがミーリにそんな概念は今のところなく、自分の額をオルアの額とくっ付けてまで見つめ続けた。

 一体何をしたいのか見当がつかず、混乱し切ったオルアは目を回す。のぼせてきたというのもあって、頭の中は沸騰しそうだった。

 そうしてしばらく額をつけていたミーリはようやく離れ、そして腕を組んで唸る。

「魔神、か……もっと呼び方ないのかなぁ」

「え?」

「だって、オルさんに魔神って似合わないんだもん。むしろ聖女の中の聖女って感じ? 魔神なんて禍々しい感じじゃなくて、そういう綺麗な感じが似合うよ。うん」

「き、綺麗……?」

 人として生きた人生の中で、綺麗と言われたことはなかった。

 自分が生まれた世界は戦場で、戦わなければ死ぬ場所だった。そこに咲く花は美しさを捨てて、強く根を張らなければならなかった。

 だから綺麗の代わりに、戦場を駆け抜ける女性騎士だった自分のことを、聡明だとか高貴だとか言われたことはあった。

 でも正直、そんな堅苦しい言葉はいらない。欲しかったのは平穏と、そしていつかできるだろう大事な人からの言葉。

 そのたった一言が欲しかった。

「そ、そう、かな……お、お世辞じゃない?」

「お世辞の方がいぃい? 俺は本気だったけど」

「あ、あり、がとう……」

 獅子の像が絶えず風呂の湯を溜める。まだその出どころはわからなかったが、二人はもう気にならなかった。

 オルアに関しては、もうミーリのことが気になって仕方がない。

「……ねぇ、ミーリくん」

「なぁに?」

「さっきブラドと話してた女の子、その子を、君は……」

「殺すつもりだよ? それがどうかした?」

「君は、苦しくないの? だって君が大好きな……大事な人なんでしょ?」

 水面に映る自分から、湯気を辿って天井を見上げる。自分の顔をすくい上げた湯で洗うと、ミーリは大きく吐息した。

「だからだよ。だから俺が、終わらせてあげないといけないんだ。それがあいつにとっての救いになるなら、俺はやるよ。なんだってやる。だって、俺はあいつが好きになったんだから」

 他人から見れば、それはあまりにも悲しいことで。逃げられるのなら逃げてしまう人ばかりなのだろう。

 だからこそ、逃げないという選択をした彼のことがより悲しく思えた。

 本当は、ミーリだって――

「ミーリくん、君は……」

「そだ。オルア・ファブニルって、本名? それとも偽名?」

「え、あぁ……ごめん、偽名なんだ。本当の名前は、歴史書にも記されてるからやめとけって、学園長の指示でね」

「じゃあさ、ホントはなんて言うの? ねぇ、教えてよ」

「……じゃ、じゃあ、みんなには内緒だよ?」

 一蹴りでミーリのところまで泳いだオルアは、ヒシとミーリに体をくっ付ける。

そしてその耳元で、小さな声で呟いた。

「ジャンヌ・ダルク……そう、みんなは呼んだ。歴史の中にも、僕の名前はそう残ってる。でもね、お母さんがくれた名前は違うんだ。僕の名前は――」

 滴の一滴が湯の中へと落ちる音で、消えてしまいそうな小さな声で、聖女は呟く。かつて母親しか呼ぶことのなかった、自分の名前を。

 人に教えたのは、初めてのことだった。戦争中は本名を教えると、家族にまで迷惑をかけるから。

 だからすごくドキドキした。心臓は高鳴り、体はずっと高い熱を持った。

 今裸でミーリと抱き合っていることなど、気にもならなかった。

「それが、オルさんの名前……」

「でも今の僕は、オルア・ファブニルだ。だからこの名前は心の奥底に留めておいて。君だけが、知っていて」

「わかった」

 そのあと、オルアは風呂を出てからしばらくまた、ミーリのことを直視できなくなった。

 理由は至極明らかで、自分のしたことをしばらく後悔し続けた。

 一方、ブラドは獣から取った血をワイングラスに注いで飲んでいた。絶えず月夜の結界の空を窓越しに見つめながら、ふと過去の思い出に浸っていた。

 昔、女性としての記憶。

 自分は貴族の令嬢で、周囲から美しい、可憐だと言われて生きていた。

 だが知った。人は老いる。そして、必ず汚くなるのだと。

 だから永久の美しさを求めた。

 不老の薬と呼ばれたものはすべて手を出し、美しくいられると噂されたすべての手段をやった。

 だが一つとして効果はなく、最後に手を出したのが、血だった。

 自分より若く美しいとされた貴族の娘を手にかけて、その血を浴びに浴びた。

 そうすれば美しくいられる。永久に美しい存在でいられる。そう信じていた。

 だがそれは禁忌だった。犯してはいけない所業だった。神の逆鱗に触れることだった。

 女性を守護する女神の怒りに触れ、永久の牢獄結界へと閉じ込められた。水もない、食事もない。無論血もない。結果、牢獄の中で一生を終えた。

 人間の世界だけでいえば、血を浴び続ける連続殺人鬼が忽然と消え、そのまま行方知れずになったのだから、それはまるで夢のようで。いつしか伝説として語られることになった。

 それがカミラ・エル・ブラドの女性としての姿。後に魔神として転生する、吸血鬼だった。

 自分の最期を思い出すと、胸が張り裂けそうになる。孤独が支配するその暗闇の中で、寂しさと悲しさに溺れて死んでいった。そんな最期を。

「ミラさん、来たよ。早速教えてほしいんだけど」

「……あぁ、そうだったな」

 グラスの血を飲み干して、ブラドは笑む。過去を思い返したばかりの今は、誰かの訪問が嬉しかった。

「まぁ適当に座れ。じっくり教えてやる」

 一人じゃない。孤独じゃない。寂しくない。

 誰かがいるという安心感に、ブラドはその一時いっとき、支配されていた。

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