第二片 襲来、奮闘。そして―― 1

 腹の上になにかが降ってきて、カリンの睡眠は強制終了させられた。

「あが……な、なに……?」

 央霞に殴られた箇所を直撃したため、洒落にならない痛さだった。

「ママー、おきたよお」

 そのちいさな生き物は、悶絶しているカリンの上から飛び降りると、部屋の外へと駆けていった。

 階下から声がする。陽平ではない。はじめて聞く、女性のものだ。

 さっきの子供が、入口からひょこっと顔を出す。きれいに切りそろえられた柔らかそうな髪が、床に向かって垂れた。

「ごはんできてるからぁ、はやくおいでって」

 カリンは、ゆっくりとベッドから抜け出した。身体のあちこちがぎしぎしと痛む。

 昨夜、女子寮から逃げ帰ったカリンは、疲労のあまり、食事も摂らずベッドに倒れ込んだ。

 精神と肉体に負ったダメージは思ったより深かったらしく、そのまま朝まで夢も見ずに眠っていたようだ。

 パジャマから制服に着替え、リビングへいくと、エプロンをした二十代半ばくらいの女性が味噌汁をよそっていた。切れ長の目が、陽平とよく似ている。

「おはよう、カリン姉ちゃん」

「おはよう、陽平。……ええと、この人は?」

 挨拶を返しながら、カリンは女性に視線を向けた。

「私は百之枝もものえ霧江。陽平の姉だ。このちっこいのは娘の那由なゆ。――ほら、挨拶しな」

「ちぃーっす」

 母親の脚にしがみつきながら、那由と呼ばれた女児は生意気そうに歯を見せ、指を二本つきだしてきた。

「それは、二歳ってことかな?」

「はあー? あたしがそんな子供に見えるってゆーの?」

「こら、那由。そんな口の利き方しないで、ちゃんとお姉ちゃんに、いくつか教えてあげなさい」

「えー」

「えーじゃない」

 霧江にたしなめられた那由は、不平そうに口をとがらせていたが、カリンが微笑みかけると、不機嫌そうにそっぽを向き、「ごさい」と教えてくれた。

 霧江が申し訳なさそうな顔をする。

「ごめんね。旦那が甘やかすせいか、どうにもわがままに育ってねえ」

「いえ。うちにもおなじくらいの妹がいますから」

「そうなんだ。どうりで慣れてる感じがした。元気にしてるの?」

「ええ……」

 たぶん、とカリンは心の中でつけ加える。

「いい娘そうじゃないか、陽平」

「う、うん」

 陽平が、なぜか顔を赤らめながらうなずいた。

「さあ、飯にしよう」

 四人で食卓を囲み、「いただきます」と声を揃える。

 ご飯と味噌汁、アジのひらきに納豆と、ほうれん草のおひたし。質素ながらもバランスの取れた定番の朝食メニューだ。

 匂いを嗅ぐだけで、まだ完全には目覚めていなかった頭がすっきりし、その日一日を戦うための活力が漲ってくる気がする。

「花梨ちゃん、こっちの生活はどう?」

 納豆をかき混ぜながら、霧江が訊ねた。

「はい。陽平君がとてもよくしてくれるので――そうだ! 霧江さんのお部屋、使わせていただいてます」

「いや、あそこは妹の部屋だよ」

「あ、そうか。下のお姉さんの……」

「あんまりかわいくない部屋だろ? ちょっと変わってるんだ、アレは」

「霧姉も人のこといえないだろ」

 陽平がツッコむと、霧江はテーブルの下で弟の脚をけとばした。

「なにか不便があったら連絡しな。こっちもなかなか顔は出せないけど、いちおう陽平の保護者みたいなもんだからさ」

「家主は責任放棄しちゃってるもんね」

 陽平が他人事のように言う。

 この家は、刑事をやっている彼の兄が世帯主になっているのだが、カリンはまだ会ったことがない。

 霧江がやってきたのは、陽平経由でカリンのホームステイの件を知ったかららしい。

 本当ならすぐにでも様子見に訪れるべきだったのだが、医者をやっている彼女も忙しい身で、今日までのびのびになっていたのだそうだ。

「あの馬鹿兄、せめていっぺん挨拶くらいしに来いってのよ」

「はは……んー? どうしたのかな」

 さっきから、那由がこちらを見つめている。やはり、知らない人間がいるので不審がっているのだろうか。

「ねえ、おねえちゃん」

「なあに?」

「おねえちゃんは、ヤマンバ?」

「へっ?」

 カリンは困惑した。

 ヤマンバとは、たしか伝説上の女の怪物だ。

 たいていは老婆の姿で、出刃包丁を持ち、人を喰らうが、人間の子供を英雄を育てあげた個体もいるとかなんとか。

「あー……昔はやったねえ、ヤマンバギャル」

 霧江が遠い目をして言う。

 ほら、こんなの、と陽平がスマホを操作して画像を見せてくれた。

「うげ」

 思わず、そんな声が出た。

 てっきり儀礼用の扮装をしたゴブリン・シャーマンかと思った。

 元々は白かったであろう肌を人工的に黒く焼き、目の周りだけを白く塗っている。爆発したような髪型に、派手派手しいが露出度の高い衣装。夜道で会ったら絶叫する自信がある。

「たしかに、色は似てるね」

「ち、ちがうからね! ナユちゃん、私はこーゆーのとはちがいますから!」

「てか、なんで那由、ヤマンバとか知ってんの?」

 どちらからともなく、カリンと陽平は、霧江のほうへと視線を移す。

「ち、ちがうからな! 私が中学にあがる頃には、もう廃れてたし!」

「……霧姉、必死すぎ。今度、電話で母さんに訊いてみるわ。もし本当にやってたら、まさに黒歴史だね」

「誰がうまいことを――つーか、マジでやめろ!」

 歳の離れた姉と弟のやりとりを、カリンは微笑ましく思いながら眺めた。

 同時にそれは、彼女自身とも重なる光景であり、次元すら隔てた異郷であろうとも変わらぬものがあるのだという感慨をもたらした。

「花梨ちゃん」

 出掛けに、霧江はカリンを呼び止めた。

「いろいろと大変そうなアンタに、こういうことをいうのもなんだけど……陽平をお願いね」

 頭を下げられたので、カリンはちょっと慌てた。

「も、もちろんです。任せてください」

「ありがとう。しっかりしてるように見えるけど、まだまだ子供だからね」

 そう言った霧江の表情は、姉というよりも母親のようだ。

「なんなら、もらってくれちゃってもいいからさ」

「へっ?」

 それが婚姻を意味していることに、カリンはとっさに気づけなかった。

「やだな。冗談だってば」

 手形がつくかと思うほど強く背中をたたかれ、カリンはつんのめった。

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