第16章 雪
やはりサウナに入ると、翌朝のすっきり感が違う。
昨日あれだけ歩いたり張り込みで疲れていたのに、この調子の良さはどうだ。
結局理真の電話に連絡は来なかった。朝に
本部ロビーで私たちを待ってくれていた丸柴刑事に、私と理真は挨拶を交わした。すでに中野刑事は表に車を回しているという。今朝はことさら冷える。車の暖機運転も兼ねているのだろう。途中、保永のアパートと瀬峰家張り込みの守田、新田両刑事を訪ねた。
富山海浜クリニックに着いた。駐車場へ車を入れて車外へ出る。海風が体にまともに吹きつけてきて、思わず身を縮める。空は曇天だ。今週いっぱいは大丈夫という予報だったが、この空模様は怪しい。いつ雪が降り落ちてきてもおかしくない。
「あ」と中野刑事が声を出し、指をさした。釣られてその方向に目をやると。保永だ。職員用と思われる玄関口から出てきたところを見つけたのだ。白衣がなびいているのは海風のせいだけではない。保永は走っていた。その先にあるシルバーの軽スポーツカーに飛び乗り、エンジンが掛かる音がする。保永はこの寒さの中、暖機運転もせずに、いきなり車を発進させた。
「保永さん? 何かあったのかしら」と丸柴刑事。
「追おう」
理真は降車しかけた足を止め車内に戻った。早く、と運転手の中野刑事を促す。私と丸柴刑事も慌てて車内に戻った。覆面パトは駐車場に数十秒もいないまま、再び路上へ飛び出した。
「だいぶ飛ばしてますね。交通課に見つかったら一発だぞ」
ハンドルを握る中野刑事が前方を走る保永の車を見ながら呟いた。確かに。保永の車の走りは尋常でない。信号の変わり掛けでも容赦なく突っ込んでいく。その後ろを追うこちらの覆面パトも、必然ほとんど赤信号になってから交差点を突っ切ることも一度や二度ではなかった。長い直線道路では、速度計は高速道路を走行しているのかという数字を示す。
「危険運転で止めることも出来ますけど」
中野刑事はバックミラー越しに後部座席の理真と目を合わせた。
「事故が起きる前に止めたほうがいいんじゃないかしら」
丸柴刑事も不安そうに口にする。いざとなったら赤色回転灯を出して呼びかけとともに止めることも可能だ。
「保永さんが従うかな。あの走り、普通じゃないよ」理真は運転席と助手席のシートの間に身を乗り出すように保永の車を見て、「今、どの辺りを走ってるの?」
丸柴刑事に訊いた。丸柴刑事はカーナビ画面の縮尺を小さくして、
「南下してるわね。山のほうに向かってる」
辺りを見ると、徐々に民家や商店はまばらになり、山や林が広がるようになった。
「
丸柴刑事は、分かったわ、と答え、中野刑事も頷いた。
「あ、丸姉、病院に電話して。瀬峰さんが出勤してるか、あと、保永さんのことも」
「そうね。いきなりの展開で忘れてた」
丸柴刑事は携帯電話をダイヤルし、病院に問い合わせた。
「理真、瀬峰は出勤していない。休むっていう連絡もないって。保永は通常通り出てきたけれど、瀬峰については何も知らないと答えたそうよ。保永は誰にも何も言わず病院を飛び出したみたい。電話に出た職員の人に、何かあったんですかって、逆に訊かれたわ」
「そう……あ、雪だ」
理真の言葉の通りだった。やはり雪が降り出した。ぼたん雪と呼称される大粒の雪だ。この手の雪は積もるのが早い。天気予報は大はずれじゃないか。
「瀬峰さんの携帯は?」
理真が思い出したように言って、丸柴刑事はダイヤルしたが、
「電源が切られてる」
保永の車はさらに山間部へ走っていく。カーナビによると、この先はキャンプ地や公園があるが、この季節用事のあるところではない。もう辺りに建築物は一切見えなくなり、すれ違う車もない。
「保永さん、私たちに気付いてるよね」
「そうだろうね」私の質問に理真はそう答え、「ずっと真後ろにいたからね。でも捲くような行動は全然しなかったわね。それどころじゃないのかも。保永さんの携帯に電話しても、こんな状況で出るわけないし」
保永の車、そして私たちの覆面パトのチェイスは、代わり映えしない景色の中続く。路面はすでに白い雪に覆われ、黒いアスファルトはもう見えない。保永の車が初雪に轍を付け、さらに覆面パトがそれを追う。いつ終わるとも知れない追跡劇。
「あっ! 危ない!」
中野刑事が突然声を上げた。その理由は誰にも分かった。目の前を走る保永の車が雪でスリップし、ガードレールにぶつかり側面を擦った。サイドミラーが根本から折れ、かろうじて車体と繋がっているような状態になった。それでもほとんどスピードは緩まず、ふらついていた車体も徐々に均衡を取り戻し、まるで何事もなかったかのように保永の車は走り続ける。ブレーキランプは一度も点滅しなかった。
「何だあれ……異常ですよ」
その運転に、中野刑事は少し恐怖を憶えたように言った。私も全く同意見だ。恐らく、丸柴刑事、理真も。車内の緊張感はさらに増した。
「中野さん、離されてる」
理真の言った通り、徐々に保永の車との距離が空きつつある。
「すみません。雪道の運転で四人も乗ってますから。言い訳じゃないですけど。保永の車は速度が出るし、しかも、雪道を恐れもしていないような走りです。異常です」
保永の車とは百メートルほど離されただろうか。シルバーの車体は雪に溶け込み見えにくい。ただでさえ降り続く雪で視界も遮られがちだ。保永の車の黄色いナンバープレートだけが目印。保永はほとんどブレーキランプを光らせない。フロントガラスのワイパーはせわしない往復運動を続け、降り積もる、というか、こびりつき続ける雪を払い除けている。さらに追跡は続き、保永の車のブレーキランプが点滅し、黄色いナンバープレートが視界から消えた。
「曲がったんだ」
中野刑事が言った。確かに、カーナビによれば、すぐ先に左折して入る横道がある。その横道は、
「公園みたいね」
丸柴刑事の言葉通り、その横道は公園に通じる道だ。雪で滑りドリフト気味に覆面パトも同じ場所でカーブする。少し走ってすぐに広い駐車場になった。駐車スペースを示す白線などは雪で完全に覆い隠されている。
カーブを曲がったところから、私たちは保永の車を見失っていた。しかし、その行き先を辿るのは容易だ。降り積もった雪の上に、二本の轍が残されている。雪は急に小降りになり、すぐに止んだ。変わりやすい山の天気という言葉を象徴するかのようだ。轍を辿ると、駐車場の一番奥、公園入り口すぐの場所に停まっている保永の車に行き着いた。
中野刑事はそのすぐ後ろに覆面パトを停め車を降りる。エンジンは掛けたまま。私たちも続いて車外に降りた。保永の車もエンジンは掛かったままだった。それどころか、運転席のドアも開いたままだ。そこからは今度は轍ではなく足跡が公園の中へ向かって続いている。
車外に出ると、車に乗っているときは気付かなかったが、外はまったくの無風だ。私たちは状況を確認して足跡を追った。入り口の看板には、〈
「まだ降りてきていないね」
理真が周囲を見回して言った。確かに、物見塔の回りには保永が向かったものと思われる足跡一条しかない。やぐらの下の土の上も同様だ。回りに降り積もった雪は全くの処女雪で、やぐらから飛び降りたような形跡もない。
見上げると、やぐらは高さ一メートル強の立てた丸太で隙間なく囲われており下から見上げて中の様子を窺い知ることは出来ない。やぐらの屋根は中心の柱で支えられ、やぐらの直径から数十センチほど大きい。よほど横殴り状態でなければ、雨雪がやぐらの中に吹き込むことはないだろう。それらを確認して、理真は階段に足を踏み出そうとしたが、
「俺が先に」
危険が待ち構えていた場合を想定して、中野刑事が理真の前に出た。その次に丸柴刑事、理真、私の順で階段を上がる。木製の階段は注意すれば足音を消して上れるだろうが、四人もの人間が一列になって上っているのだ。やぐらにいる保永にはすでに接近を気付かれているだろう。螺旋階段の終わりが見え、中野刑事は一度丸柴刑事を振り返る。丸柴刑事が頷いたのを確認して、中野刑事は残りの階段を一気に駆け上がりやぐらの中に躍り出た。
「動くな、警察だ!」
中野刑事の声を聞いて、私たちも続いて階段を駆け上がりやぐらに入る。そこには二人の人間がいた。ひとりは立って、ひとりは床に仰向けに倒れた状態で。立ったほうからは呼吸をする度、白い息が口と鼻から漏れる。そして私たちが上がってきたことも気付かないように、いや、無視するように仰向けのほうを見下ろしている。仰向けの人物の鼻や口からは白い息は漏れていなかった。代わりに腹部にほぼ円形に赤い染みが広がっている。その染みは今も少しずつ面積を広げ、着ている服を濡らし続けている。ぽたりと音がしてこちらも床に小さな赤い染みを作った。立っているほうが手にしたナイフから垂れたものだ。ナイフの刀身は柄まで真っ赤に染まっている。
「……ああ、皆さん」
立っているほうが、やっとこちらに顔を向けた。
「お前がやったのか……?」
中野刑事は私たちを庇うように右腕を水平に上げたまま訊く。
「ええ、僕がやりました。僕が『殺人鬼いろは』です」
保永
中野刑事が保永に飛びつき、ナイフを握った右手を押さえる。同時に丸柴刑事が倒れている瀬峰に駆け寄り脈を見るが、私たちの方を向き首を横に振った。すぐに立ち上がり携帯電話で通報を行う。富山市
その間に、中野刑事は保永の手からナイフを離させると、刀身がべっとり血で濡れているためハンカチにくるむわけにもいかず、とりあえず保永の手が届かない距離の床にそっと置いた。電話を終えた丸柴刑事が中野刑事と挟み込むように保永の左腕を押さえたが、保永に抵抗する様子は全く見られない。中野刑事は手錠を取り出し保永の両手に掛ける。そのときも保永は、無表情を顔に貼り付けたまま黙って従うだけだった。
「どういうことなんだ」
中野刑事の言葉にも保永は答えない。視線は瀬峰に落とされたまま。中野刑事は保永の衣服の懐を探る。財布、携帯電話、メモ帳、ペン、探り出したものをどんどん床に並べていく。最後に白衣のポケットから切手が貼られた封筒が出てきた。一度封がされたものを開封している状態だ。糊付けされた封をカッターか何かで丁寧に開封してある。その封筒に書かれた宛先を見て私たちは固まった。
「新潟県警宛て?」
中野刑事は中身の便せんを取り出し広げた。
拝啓 寒気厳しき折、警察の皆様におかれましては、日々犯罪捜査、治安維持へのご尽力、心よりねぎらい申し上げます。
さて、すでに幾度もお便り差し上げている間柄のため、簡潔に用件のみお伝え差し上げます。
星見ヶ丘公園にて保永が。
それでは、一層寒さ厳しい時節となります、皆様におかれましては、くれぐれもご自愛下さいませ。
かしこ
吉月 吉日
いろは
新潟県警捜査一課 御中
文面を黙読し終えた私たちは、目の前で手錠を掛けられた人物の顔を見つめた。
「星見ヶ丘公園で保永が?」
中野刑事のその言葉を聞いた保永は、少し笑ったように見えた。
「おい、これはどういうことなんだ!」
中野刑事の鋭い声にも、保永は無表情を崩さない。目を合わせようともしないが、
「瀬峰さんだったの?」
理真のその言葉には反応し、ちらと視線を向けた、が、すぐに瀬峰の死体へと戻す。
「犯人は瀬峰さんだった。保永さん、あなたはここへ呼び出され、瀬峰さんにナイフを向けられたが、返り討ちにした」と理真が続けた。
「違います」保永が答えた。「僕です。犯人は、殺人鬼いろはは僕です」
「でも、あなたにはアリバイが……」
丸柴刑事の言葉には、
「ええ、僕ひとりじゃありません」
「何ですって?」
「殺人鬼いろはは、まだ他にもいます」
遠くにパトカーと救急車のサイレン音が聞こえてきた。
「オーケーです」
螺旋階段を最後に降りてきた鑑識員が待機していた刑事たちに告げた。鑑識による現場の検分が終了したのだ。富山県警の刑事たちが列を成して螺旋階段を上っていく。あのやぐらにはあんなに人数は入らないだろう。やはり、数名の刑事はぶつぶつと文句を言いながら降りてきた。
雪が降り止んだ空に浮かぶ雲は所々途切れ、青い空が覗いているところもある。私たちは鑑識員のひとりを捕まえて状況を聞いた。
瀬峰礼子の死亡推定時刻は、午前十一時から十一時半の間。私たちがやぐらに登ってナイフを手に立っている保永と瀬峰の死体を発見したのがちょうどそのくらいの時間のはずだ。乗り込む直前に腕時計を見ていた丸柴刑事が、十一時二十分だったと告げた。保永の握っていたナイフからまだ血がしたたり落ちていたことから、私たちがやぐらへ乗り込む直前に瀬峰は刺されたのだろう。降った雪に敷き詰められた周囲の状況から、他の人物が出入りしたことは否定される。保永が瀬峰を刺したことに間違いはないだろうとの見方だ。それを聞いた中野刑事は激しく地面を蹴った。雪煙が舞う。もう少し到着が早ければ瀬峰を助けられたと思っているのだ。やるだけやった結果だと、丸柴刑事が慰めている。
瀬峰の死因は腹部を刺されたことによる失血死。刃渡り十五センチほどのナイフは柄まで血で濡れている。寸法から考えるに、刃先は瀬峰の背中にまで達しているという。ナイフからは保永の指紋のみが検出された。当然だが保永の格好は病院を飛び出したときのまま。グレーのシャツ、紺色のスラックスに白衣を羽織り、足下の白いスニーカーは院内での中履だ。屋内にいる格好のまま飛び出してきたというわけだ。スニーカーはこれも当然足跡と一致した。車を降り、物見塔まで向かった雪の上と土の上の足跡と。対して瀬峰の服装はこの季節外を歩くのに然るべき格好だった。セーターにロングコート。マフラーを巻いて、冬用のブーツ、手袋もしていた。
公園駐車場から瀬峰の車も見つかった。例の黄色いハッチバックだ。保永と私たちが停めた入り口すぐではなく、すこし奥まった駐車スペースに置かれていた。車の下には雪は積もっていなかった。雪が降る前から車を停めていたということだ。やはり瀬峰は保永を待ち構えていたのか?
そこのところの事情に対しては、保永は黙秘を貫いている。自分が殺人鬼いろはだと認めたものの、他にもいると漏らした共犯者については全く口を閉ざしている。『い』から『に』までの殺人に保永は完璧なアリバイがあるため、他に共犯者が存在して当然だろうと捜査陣も見ているのだが。
昨日病院に欠勤の連絡を入れてから、死体となって発見されるまでの瀬峰の行動は掴めていない。張り込みを開始してから、家に一度も戻っていないことは間違いない。昨夜理真の要請で警邏中の人員に通達が行ったあとからも、瀬峰及びその車の発見、目撃の報告はなかった。現場での捜査が一段落し、私たちは富山県警刑事らと共に本部へ戻った。
「星見ヶ丘公園で保永が……今度は変化球で来たね」
富山県警本部の一室を借りて、私と理真は待機していた。コーヒーとストーブで冷えた体を暖めながら、私は隣に座った理真に言った。
「今までは市町村直下の地名だったのにね」理真もコーヒーを飲みながら、「公園名だなんて、ずるいね。あの公園の住所は、富山市鄕原1087番地だって。『ご』で始まるから、警察も全くのノーマークだったのよ」
「しかも、指定された名前は、『保永』だったのに、実際に殺されたのは瀬峰さん……」
私は陰鬱な気持ちになった。現場ではあまりの展開に気が張っていたためか、事態の状況に付いていくのが精一杯で、こうして静かになると、改めて瀬峰が死んだという現実を認識できるようになってきた。カウンセリングセンターで、喫茶店で、話す機会は少なかったが、見知った人が亡くなるというのは嫌なものだ。心に穴が開いたような気持ちになる。悲しみと同時に、
「やっぱり本当の犯人は瀬峰さんだったのかな?」疑問が湧いてくる。「保永さんが持ってた手紙、あれは本当は瀬峰さんが持っていたものだった。今朝、病院にいた保永さんは、瀬峰さんに呼び出される。星見ヶ丘公園まで来てくれと。保永さんが駆けつけると、そこに待っていたのはナイフを構えた瀬峰さん。揉み合ううち保永さんにナイフを奪われた瀬峰さんは返り討ちに遭ってしまう。保永さんは瀬峰さんの懐から覗いていた手紙を見つけ開封、瀬峰さんが殺人鬼いろはであったことを知る。その手紙を自分の懐に入れたところで、私たちが駆けつけた。こんなところ?」
「うーん。まず、保永さんがあんな異常なまでの走りで公園へ向かったのはなぜ? 院内の格好のままで、交通違反をものともせず。ただ呼び出されただけなら、そこまで急ぐかな」
「火急な用事だと言われたのかも。とにかく早く来てくれと」
「今から呼びつけて殺そうとする相手に? そんな急がせて途中事故に遭ったり、警察に捕まったりしたら意味ないわ。第一、急がせる理由が分からない。それと、どうして保永さんは自分が犯人だなんて言ったのか。正直に言えばいい、瀬峰さんに襲われ返り討ちにしてしまいました。正当防衛ですって」
「それは、あれだよ。瀬峰さんを庇ってるんだよ。好きな女性が殺人犯だったなんて巷間に広めたくない。そう思って思わず口にしてしまった」
「手紙に『保永を殺す』ってはっきり書かれてるのに? あれを見られたら元も子もない。だいたい、保永さんが持ってた封筒は、糊付けされたものをカッターで丁寧に切って開封されていたわ。保永さん、カッターを所持してた?」
保永が所持していたものは、財布、携帯電話、メモ帳、ボールペン、そして手にしていたナイフ。
「ナイフだ、瀬峰さんを刺したナイフ」
「今の
「そうか、封筒には血は全然付いていなかった」
「それに、今、由宇が言ったような一連の行動を、保永さんがあのやぐらに辿り着いてから出来たかな? 結構時間掛かるんじゃない? 途中離されたけれど、保永さんがやぐらに辿り着いて中野刑事が乗り込むまで、一分、いや、三十秒と掛かっていないと思うよ。見たところ、瀬峰さんの服には乱れたような様子はなかったし、保永さんも息ひとつ切らしていない、おとなしいものだった」
「駄目かー」
「うーん、でも、保永さんが瀬峰さんを庇うっていうのは、ありそうな話だけどね」
「雪の上には保永さんの足跡しかなかったから、第三者がいたというのはありえないんだよね」
「〈雪密室〉ってやつだからね。瀬峰さんの死亡推定時刻は雪が積もってからだから、別の第三者が瀬峰さんを刺して雪が積もる前に逃げたとも考えられない……瀬峰さんの足跡もなかったから、瀬峰さんがあのやぐらに行ったのは雪が降る前」
「理由や経緯はともかく、保永さんが瀬峰さんを刺したっていうのは間違いないわけだね」
そうかもね、と理真が言った直後、ドアが開く音がした。
「丸姉」ドアのほうを向いて理真。
「理真、由宇ちゃん、どう、暖まった?」
丸柴刑事はそう声を掛けてくれたが、ねぎらいの言葉に似合わず、その表情は心なしか険しいものだった。
「うん、ありがとう」と言ってから理真も険しい表情になり、「何か分かったの?」
「ええ、センターを休んだ日のね、瀬峰の行動の一部が判明したの」
「本当に? 一部でも分かったらいいことじゃない、何浮かない顔してるの? で、瀬峰さんはどこへ行ってたの?」
理真も丸柴刑事の表情に疑問を持っているようだ。
「市役所よ」
「市役所?」
「理真の予想はある程度当たってたわ。瀬峰は保永と一緒だったの」
「保永さんと一緒に市役所へ? 何の用事で行ったかは?」
「ええ、分かったわ。二人はね、あの日、婚姻届を出したのよ」
「何?」
何を出したって? 私も頭が追いつかない。
「昨日付で、瀬峰礼子は戸籍上、保永礼子になってるの」
「……と言うことは」
「そう、『星見ヶ丘公園で保永が』いろは殺人は成立してるのよ」
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