第26話 side真生

「菊地先生、お願いがあるんです」


 点滴の針を抜きに処置室を訪れていた真生は、菊地にそう切り出した。伝えた内容に、医師の顔をした幼馴染の父は難しい顔をして唸る。


「……医師としては、絶対に進められないね」


「お願いします。一日だけでいいんです」


 無理を承知で口にした願いだった。残された時間が少ないからこそ、どうしてもこれだけは叶えておきたい。


「──わかったよ」


「我儘で、ごめんなさい……」


「医師としては止めるけど、他ならぬキミの頼みだからね。できるだけ聞いてあげたいのがおじさんの本音だよ」

 

 穏やかな顔で笑う菊地に、真生も表情を緩めた。申し訳ない気持ちもあったが、最後だからこそ、これだけは譲れなかったのだ。


「いいかい? 絶対に激しい運動はしないこと、必ず薬を持っていくこと。具合が悪ければ無理をしないこと、この三つを絶対に守るんだよ?」


 訥々と一つずつ条件を上げる菊地に、真生はそのつど頷いて返事をする。


「これが守れるなら、君の願いを叶えるよ」


「はい! ちゃんと守ります」


「それにしても、昔は膝に乗るくらいに小さかったのに、真生ちゃんも郁也も知らないうちに随分大きくなったもんだ。身体はもちろん、心も成長したね」


「おじさんにそんな風にいわれると、なんだか照れちゃいますよ」


「こないだキミのお父さんとも話をしたんだよ。キミ達が親の手を離れていく日も近いかもしれないってね。少し寂しいけど、親として子供の成長はやっぱり嬉しいことだよ」


 菊地の口から出てきたことに、真生は内心酷く驚いた。微塵もそんな様子を見せなかった父の本心を垣間見た気がしたのだ。だが、父がたしかに自分のことを見ていてくれていたことを知り、真生は嬉しかった。


「キミのお父さんは口下手だからね。そういうことを口に出しはしなくても、自分の子供が可愛くない親なんていはしないさ。ボクが話したことは内緒だよ?」


「もちろん言いません」


「いい子だね。針は抜いたから、もう行っていいよ」


「ありがとうございました。」


 真生は弾んだ気持ちのままに、にこりと笑って処置室を後にした。





 広い屋上には、日光浴を楽しむ患者の姿が何人かあった。真生はベンチに座っている人達とは逆側へ行き、手摺にしがみ付く。病院から見て斜め後ろに目を投げれば、学校が微かに見えた。少し前までは自分も通っていた学校。祐二は今頃どうしているのだろう。


「今、先輩は何をしてますか……?」


 そっと呟いた言葉に応える者はいない。それでも真生は目を穏やか緩める。もしかしたら祐二も同じように屋上で、こちらを見ているかもしれない。なんだか本当にそんな気がして、心は暖かな日差しと同じくらいに温かくなった。


 恵まれていると、本当にそう思う。だからこそ真生はここに存在できているのだ。


 自分を気にかけてくれた両親。

 優しくしてくれた先輩達。

 欲しい言葉をくれた先生。

 背中を押してくれた幼馴染。

 一緒に進む道を示してくれた、大事な人。

 

 ──今のわたしに、何ができるかな……?

 

 その想いはいつも真生の胸の中にあった。病に冒されたこの身でも、最後に残せるものはないだろうかと常に考えている。


「こんなところにいたのか」


 声に振り返った真生は、静かに笑う。


「……来てくれたんですね、先生」


 笹枝は、大きな手に不似合い小さな花束を差し出す。大柄な姿に、その可憐さは違和感があり過ぎてなんだかおかしい。それでもその気遣いが嬉しくて、真生は指の腹で花弁をそっと撫でる。


「わざわざありがとうございます。いい匂い……。こんなに可愛い花束、どんな顔して買ったんです? 恥ずかしくなかったですか?」


「そりゃあ、恥ずかしかったさ。花屋でも珍獣を見るような目で見られたしな」

 

 鬚の生えた顎を摩りながら、笹枝がしみじみとそんなことを言う。恥ずかしいといいつつも、少しもそんな風には見えなくて、真生は小さく笑った。


「その鬚がなければ、先生も花束が似合う人になるのに」


 口周りにびっしりと生えた鬚のせいで年齢不詳に見られるが、笹枝の実年齢はまだ二十代だと聞いたことがある。しかし、笹枝はけして鬚を剃ろうとしない。もしかしたらそこには彼なりの拘りがあるのかもしれない。


「そう言ってくれるなよ。オレの鬚のことはともかく、お前の方はどうなんだ? 手術を受けると菊地から聞いたぞ」


「はい、もうすぐ受けることになります」


 真生は、明るい色で飾られた花束に柔らかく目を落とす。「自分」が長く存在できないことを、辛くないと言えば嘘になる。病気さえなければ他の人と同じように、普通に生きられたかもしれない。しかし、それをいくら嘆いたところで病気が治るわけではない。それが理解できないほど、真生は幼くはなかった。


「……弱いなぁって、自分でも思うんです。もうすぐ全部を忘れてしまう現実を考えると、時々物凄く怖くなる。逃げ出したくなるんですよ」

 

 逃げ場所なんて何処にもありはしないのに、と真生は空に視線を投げる。同じ空の下にいながら、ここは透明な牢獄のようだ。向こう側は透けて見えるのに、真生はここから出られない。息苦しくて、時折無性に全部を壊したくなる。


「お前は逃げないだろ。仮に、オレがこの場所から逃がしてやると言ったとしても、絶対に踏み留まる。違うか?」


 笹枝の言葉に胸を突かれ、真生は一瞬言葉を失った。


「……そうかもしれません。だって、わたしのことで心を痛めてくれる優しい人を知っているんです。その人を裏切ることなんてきっと一生できないんですよ」


 真生は笑う。死にたくなるほどの苦痛さえ、耐えてしまえる。優しくて、愛しくて、忘れたくないと足掻くほどに、ただ祐二のことを想う。


「だから苦しくても、今のわたしは幸せなんです」


 刻々と迫る時間を感じながら、真生はただ静かに微笑んだ。

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