第四章 叶えてはいけない恋

第15話 side真生

 駈け出した背中は人混みの中に、あっと言う間に見えなくなった。今まで寒さなんて感じていなかったのに、今はやけに寒くて、真生は何かを誤魔化すように両腕を摩る。


 街の明るさと賑やかさはさっきと何一つ変わらないはずだ。それなのにどうしてだろう。目の前に薄い膜が張られたように、何もかもが色褪せて見えて、そんな自分に自嘲が漏れる。


 悲しいわけでも、後悔しているわけでもない。それでも、どうしても顔を上げることが出来ない。きつく目を閉じれば、嵐に襲われた海の様に、心は抑えようもなく波立っていた。

 

 本当は「行かないで」と縋りたかった。

 本当は「約束したのに」と我儘でも口にしたかった。

 だけど、祐二が拳を握りしめたのを見てしまったから。

 無理をして真生を優先してくれたことに、気付いてしまったから。


 ──ほんの少しでもわたしを気にかけてくれたことが、本当に嬉しかったから……。


 もう十分だと、身に余るほどの優しさを貰ったと、真生は何度も自分に言い聞かせて、祐二の背中を押したのだ。


 酷く緩慢な仕草で足は進む。何処へ向かうのかさえ頭には浮かばなかった。ただ、こんな気分のまま家に帰りたくはなかった。胸が苦しい。あの状況で選択したことが間違っていただなんて少しも思っていないのに。自分なりの最良の選択をしたはずだ。


 ──辛い、なぁ……。


 真生は奥歯を強く噛みしめて、想いに捉われたまま足を進めた。右側に公園が見えて、ようやく自分が自宅の傍まで戻って来ていたのだと気づく。

 

 小さな頃、郁也とよく遊びに来ていたその場所が、今はとても小さく見えた。外灯のか細い光に照らされて、遊具が静かに佇んでいる。置き忘れられたのだろうか、小さなスコップが砂場の隅にぽつりと残されていた。真生はそれを拾い上げると、しゃがみこんで砂を掬ってみる。


 手を傾ければ簡単に零れ落ちてしまう砂は、自分の手から零れ始めたものに似ていた。次第に胸の痛みは大きくなる。鈍い痛みの中、心の深い所で冷たい水が溢れる音が聞こえた気がした。


 涙を零すこともできないまま、真生の目には零れ落ちる砂だけが見えていた。どれだけそうしていただろうか、ふと目の前が暗く陰りようやく我に返る。


「お前……こんなとこで何してんだ?」


 見上げればどこか怒った表情で、自分を見下ろす幼馴染。今日は肌寒い夜だというのに、その額には大粒の汗を掻いて息が荒い。その姿に驚いて立ち上がった真生に、郁也は大きく息を吐いてへたり込む。


「ほんと勘弁しろよ。こんな近場にいるならさっさと帰って来い。おばさんがお前に電話しても繋がんないって言うから、なんかあったんじゃねぇかって」


 自分の髪を搔き乱して、しゃがみ込んだ郁也が項垂れる。


「オレの心配損かよ」


 苛立たしそうな幼馴染に、真生は恐る恐る声をかけた。


「ご、ごめんね? 映画見たときに電源切ったから、その後に入れるの忘れてた」


「今度から気をつけろ。それから、遅くなるようなら家には連絡してやれよ。おばさんマジで顔青くしてたぜ」


 スマホを操作する彼にじろりと睨まれて、真生は神妙な顔で両手を合わせた。


「本当にごめんね」


「まったくだ。……あ、おばさん? オレだけど。うん、見つかった。あぁ、全然心配ねぇよ。のんびり散歩しながら帰っから、ちょっと遅くなるかもしれねぇけど」

 

 それから二、三言話すと、郁也は電話を切った。彼の目がじっと真生を見ている。その視線の強さに、思わず目を逸らす。郁也の目の前では、隠した胸の痛みさえ見透かされてしまいそうな気がしたのだ。


「何かあっただろ?」


 まるで確信しているような言葉に、視線が吸いつけられたように郁也に向かう。強い目が誤魔化しは許さないと言わんばかりに、真生を射抜く。なにも言えなくて唇が小さく震えた。


 笑顔で「なんでもないよ」と言わなければいけない。そう思うのに、言葉を出す術を忘れてしまったように、声が出なかった。


「もういい」


 優しい幼馴染はそんな真生の姿になにを見たのだろうか。静かに、そして固い声を落とす。その様子にただでさえ傷ついた心が恐怖する。怯えたように体が竦んだ。


 幼い子供のように目をぎゅっと閉じて、言われるだろう言葉を覚悟した時、暖かなものが真生を包んだ。


「悪かった。そんな風に怖がるなよ。オレはお前を苛めたいわけじゃねぇんだ。ただ、誰に隠しても、オレにだけは隠してほしくねぇんだよ。愚痴でもなんでも、聞いてやるから思ってること言ってみろ」


 ぽんぽんと背中をあやす様に叩かれる。その優しい仕草と、腕を通して伝わる温もりに、凝っていた心がほっと緩む。じわりと滲むような暖かさは、暗く淀んだ心に小さな炎を灯されたようだった。真生は郁也の鎖骨に顔を埋めて、込み上げる涙を隠した。


「どうして、いつもいっくんにはわかっちゃうのかな……? ダメだよ。わたし、いっくんに甘えてばっかだよ。これ以上、わたしを甘やかさないで……」


「馬鹿真生、オレ等がどれだけ一緒にいたと思ってんだよ? 生まれる前からずっと一緒にだったんだ、わかるさ。限界なんだろ、ほら、言えって」


 怒ったように顔を顰めて、背中を優しく撫でながら促す郁也に、真生は小さく口を開く。


「大丈夫だって、思ってたの。ちゃんと最初から、わかっていたことだから」


 嗚咽を堪えた悲痛な叫びは、夜の闇を切り裂いていく。一度零れ落ちた言葉は止まらなかった。真生の慟哭に、郁也の腕に力が込もる。


「だけど、目の前でそれを思い知ると、どうしても辛くてっ」


「……そうか」


 辛くて、苦しくて、伝わらない想いのもどかしさに胸が裂かれるように痛んだ。いっそ、この胸を本当に裂いてしまえば、これほど辛くはならなかったのだろうか。


「わたしはどうやっても琴美先輩にはなれない。そうわかってるのにっ! それなのに、先輩に想われるあの人になりたいって思った。……心の何処かで、何一つ気付いていない、優しくて残酷なあの人を憎んでしまった。そんな権利、わたしには少しもないのに」


 堪え切れなかった涙が落ちて、郁也の服を濡らしていく。こんな風に弱音を吐いては駄目だと、郁也を困らせるだけだとわかっているのに、心が限界だと訴える。


 ──先輩を想う気持ちだけは、変わらないのに……。


 零れた涙が郁也の服に染み込むように、苦しいまでのこの想いも、祐二の中に染み込んでしまえばいいのにと思う。それができない現実を、自分の存在が祐二の中でどれだけ小さなものであるのかを、真生は今日改めて思い知った。


「自分で決めたことなのに、どうしてこんなに胸が痛いのかな?」


 必死で笑おうとしながら言った言葉は、情けないほど震えて掠れたまま、涙と一緒に零れ落ちていった。

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